健康と青汁タイトル小
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08-01 200号 青汁教室の食養断想 青汁は治病・保健の決め手
08-02 201号 青汁を飲む心(1)
08-03 202号 青汁を飲む心(2)
08-04 203号 青汁を飲む心(3)
08-05 205号 続・青汁を飲む心(1)
08-06 207号 続・青汁を飲む心(2)
08-07 208号 続・青汁を飲む心(3)
08-08 209号 続・青汁を飲む心(4)
08-09 210号 続・青汁を飲む心(5) 食事以外にも波及して
08-10 211号 続・青汁を飲む心(6) 食事以外にも波及して
08-11 212号 続・青汁を飲む心(7) 食事以外にも波及して
08-12 213号 続・青汁を飲む心(8) 食事以外にも波及して
08-13 214号 続・青汁を飲む心(9) 食事以外にも波及して
08-14 215号 続・青汁を飲む心(10) 食事以外にも波及して
08-15 216号 続・青汁を飲む心(11) 生活各面に波及して
08-16 217号 続・青汁を飲む心(12) 生活各面に波及して
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08-01. 青汁教室の食養断想 青汁は治病・保健の決め手

     友成 左近 

     体具合が悪いという人に会えば
     人に会って、体具合が悪い、厄介な病気で困っている、といった話をきくと、われわれはアホウのひとつおぼえみたいに、まずもって青野菜をすすめる。煮たものでもよし、生であればさらによし、最も有効な方法は青汁にして、日に体重の1%以上と、できるだけ沢山、青野菜を食べるようにすすめる。人並に丈夫で、という人でも、話の序によっては、やはり青野菜・青汁をすすめる。

     これにつづけてすすめるのは、精白した米・麦や筋肉部だけの魚・肉などは、つとめてひかえめにして、未精白の米・麦・雑穀・芋や大豆・小魚・乳などに切りかえるように、また、砂糖や塩は、極力ひかえて薄味にするように、そして食物は、すべてよくかんで、ハラ八分に、ということである。  さらに必ず付け加えるのは、食物はすべて、できるだけ原材料でまかなって、市販の加工品はひかえるように、そして原材料も加工品も、よく吟味して、でるだけ安全・純正なものを選ぶように、とくに人並ケタちがいに沢山食べる青野菜・青汁は必ず安全なものを、ということである。

     病気にかかるもとは毎日の食物の間違い
     体具合が悪くなるのも、病気にかかるのも、原因はいろいろあるが、そのうち最も重大な原因は、体力・抵抗力が弱いことである。この体力が弱ってくるのは、これにも原因はいろいろあるが、そのもとは、毎日の食物が栄養上著しく不調和不完全であることだ。と共に、とくに最近は、この食物に、農薬その他の有害有毒物に汚染したものや、人工の着色料や防腐剤その他これまた有害有毒な添加物のはいったものが多いことだ。

     病気の治療には必ず 怠らずに食改善を
     病気を治療するにも予防するにも、さらに積極的によりいっそう健康をはかるにも、医療の活用その他あれこれと大切であるが、それと同時に、決して忘れず怠らずにつとめなければならないのは、毎日の食物を改めて、栄養に調和・完全をはかると共に、これを、できうる限り安全・純正なものでまかなって体力・抵抗力を強化することである。
     生きた体は、どんな発病原因にも抵抗して、みずから健康を保ち、たとえ発病しても、なお抵抗して、みずから治していく力を備えている。どんなに有効な医療・医薬も、こうした体力の補助的な手段であって、それ相応に体力があって初めて有効なものであり、この体力を養なうもとが毎日の食物なのだ。
     であれば、とくにまだ有効な医療が開発されていない難病奇病の場合は、いたずらに試行錯誤的な医療にばかりたよることなく、また、どうにも治らないものと、あきらめたり絶望したりすることなく、できうる限りの食改善・食養生につとめることが肝要である。そうして健康を回復した人が少なくないのだ。

     食物にはそれ相当量の 青野菜が必要不可欠
     毎日の食物に栄養の調和完全をはかるには、あれこれと食品を取り合わせなければならないが、決して忘れずに必ず、それ相当量取り入れなければならないのが、野菜・果物・海草、わけてもなかのなかまで緑色の濃い青野菜である。
     栄養に調和・完全をはかる、というのは、生きた体に必要な各種の栄養素を、残らずすべて必要なだけ十分とりいれることである。ところが各種の食品は、それぞれ栄養素の含有に偏りがあって、ただ1種類だけでは、どんなに沢山食べても、どんなに優れたものでも栄養の調和・完全ははかれないのだ。けれども、どんな食品でも、青野菜をそれ相当量取り合わせたら、ただそれだけで栄養がうまく調和してくる。
     ふつう主食として重要視されている米・麦わけても精白したものは、生きていく力になる熱量は多いが、これが体内で生きていく力に変わるときに必要不可欠な各種のビタミンが著しく不足している。砂糖わけても白砂糖は熱量だけだ。
     また、ふつう栄養がつくといわれ、ご馳走ともされている魚・肉わけても切り身の筋肉部は、生きた体をつくりかえていくもとになる蛋白質は多いが、これが体内で血や肉や骨になるときに必要不可欠なカルシウムその他ある種のミネラルと各種のビタミンが著しく不足している。
     だが、こうした米・麦や魚・肉などに不足している各種のミネラルとビタミンが多いのが野菜・果物・海草であり、なかでも青野菜には、これが残らずすべてケタちがいに多いのだ。
     そこで毎日の食物には、米・麦や魚・肉などと共に決して忘れずに青野菜を、それ相当量取り入れなければならないのだ。その他の野菜・果物・海草では、ミネラルやビタミンの含有が少なく、また全く無いものもあるので、どんなに沢山取り入れても調和がはかれないのだ。
     だが、ホウレンソウやフダンソウの類は、シュウサンが多く、カルシウムを無効にするので、青野菜としては例外である。
     といって、このホウレンソウの類も、その他の野菜・果物・海草も、多少ともミネラル・ビタミンを補足し、また毎日の食物に変化をつけるので、それ相当量取り入れるのは、けっこうである。

     青野菜の必要量 日に体重の1%以上
     青野菜を日にどれくらい取り入れたらよいか、というと、その他の食物により、また青野菜の種類や食べ方により、さらに当人の身体条件によって、いちがいには言えないが、厚生省が発表している栄養摂取の実状からみて、総平均していえば、当人の体重の1%といったところである。
     が、これは、その他の食物と性質がちがって、それ以上に、できるだけ沢山取り入れることが大切であり、多ければ多いほど有効である。
     米・麦や魚・肉など、すなわち熱量も蛋白質も、必要なだけは十分とらねばならないが、各種のミネラルとビタミンを、それにつりあうだけ十分にとらないと、せっかくとったものが不十分に利用されるので、それだけムダになる。それだけではなく、未利用のものが体内にたまって、栄養と健康に障害を引き起こす。
     また、おのずから体も要求して、必要以上に沢山食べるようになって、胃腸その他に過重な負担をかけ、栄養と健康にますます障害を引き起こす。
     けれども、ミネラルもビタミンも、薬剤ではなく食物で、わけても青野菜でとる限り、その種類と食べ方に気をつければ、必要以上に、どんなに沢山とりすぎても、別に栄養にも健康にも障害は起こらないのだ。
     それだけではなく、熱量も蛋白質も十分に利用されるので、それだけ少なくてすみ、おのずから体も必要以上には要求しなくなる。ために、胃腸その他の負担が軽くなって、健康の保持に好都合になる。
     古来、美食すれば大食になって病気と短命を招き、粗食すれば少食になって健康に長命する、といわれている通りだ。また、ミネラルとビタミンの最大・唯一の給原である青野菜は、保存や調理や食べ方をあやまると、その大切な成分がうまく体内にはいってこない。これに比べて熱量や蛋白質は、どんな食品からでも、こうした損失は少ない。
     このため青野菜は、保存や調理や食べ方にもよく気をつけて、必要以上に多めに取り入れないと、結果的には、ミネラルもビタミンも不足してくるのだ。
     さらに、この頃の食料事情や食習慣からみて、米・麦や魚・肉といったものは、よほど貧しい家計か極端な偏食でない限り、必要なだけは十分とっているので、熱量と蛋白質が不足するようなことはなく、とりすぎている場合が多い。
     けれども青野菜は、貧富を問わず、よほどよく心がけないと、とかく不足しがちである。ために、意外と多くの人々が、ミネラル・ビタミン欠乏といった栄養障害を引き起こしている。
     そこで、栄養に調和・完全をはかるには、まずもって青野菜を、日に体重の1%といわず、それ以上に、できるたけ沢山食べることが大切なのだ。

     既知未知にわたって 本当に完全な栄養にも
     栄養に調和・完全をはかるのに、それが、すでに究明されている栄養素だけについてであっては、人知におごって片手おちになる。まだ究明されていなものが数限りないからだ。
     そしてこれは、最近だんだんと究明されているが、既知のものはいうまでもなく、未知のものまで、残らずすべて、含まれている(と推定される)のは、緑のハッパ・青野菜であり、これだけなのだ。
     そこで、既知・未知すべてにわたって、本当に完全な栄養をはかるには、この青野菜を、必要なだけ十分、いな、それ以上に、できるだけ沢山食べることが大切なのであって、それ以外に有効適切な妙手はないのだ。
     事実、そうしつとめた人々は、シンから丈夫になって、ちょっとやそっとでは病気にかからず、かかっても、早く、すっきりと治っている。まだ有効な医療が開発されていない難病奇病でも、うまく治ってきている場合があるのだ。

     青野菜は青汁にして 飲むのが最も有効適切
     青野菜を日に体重の1%以上と、できるだけ沢山、しかも各種のミネラルとビタミンを最高度に消化吸収するように食べるには、青汁にして飲むのが最も有効適切である。
     青野菜は、鮮度がおちて色も変わってくると、ビタミン(主としてA・C)がだんだんと無効になってくる。また、煮たきをすると、ビタミンもミネラルも、だんだんと無効になったり、ゆで汁や煮汁にとけ出て、利用されなくなってくる。
     そこで青野菜は、できるだけ新鮮なうちに生のまま食べることが大切である。
     ところが、青野菜には固いセンイが多いため、煮たきしても、生であればなおさら、丈夫な歯で、よくかんで食べないと、大切な栄養成分がうまく消化吸収しない。それだけではなく胃腸をいためるおそれがあり、日に体重の1%以上となると、なおさらである。
     といって、このセンイは、便通その他にそれ相当量は必要不可欠であるが、青野菜を日に体重の1%以上というほどには必要でない場合が多い。
     そこで青野菜は、新鮮なうちに生のまま、スリバチ、ミンチ、ミキサー、ジューサーなどですりつぶして、汁だけしぼりとり、固いセンイを大部分取り除いて、青汁にして飲むのが最も有効適切なのだ。
     そうすれば、ふつうでは食用していない家畜の飼料でも活用することができる。そして実は、こうしたものほど各種の栄養成分がもれなく多く、また栽培もやさしく収量も多い。広く青汁に使われているケールやシーオーナタネやカキバダイコンなどは、もともと家畜の飼料なのだ。
     さらに、青汁にして飲めば、青野菜を日に体重の2%以上でも、けっこう食べることができる(生の青野菜250gが約180cc・1合の青汁になるので)。そしてそうすれば、思いも及ばぬほどに体力・抵抗力が強化されて、ふつう医学では不治とされている病気でも治ってくるようになることがあるのだ。
     なお念のため、こういうふうに青野菜を、ふつうとはケタちがいに沢山食べるには、必ず、農薬その他の有害有毒物に汚染していない安全なものでなければならない。ふつう市販の青野菜は、安全であることが確認されなければ使用してならない。栄養に調和・完全ははかれても、他面で、必ずといってよいくらい中毒症を引き起こすからだ。
     もうひとつ、ホウレンソウやフダンソウ、ビートの葉スイバなどは青汁にしてはならない。シュウサンが多いので、それだけカルシウムを無効にし、その上、ときに腎臓に胆石ができるからだ。

     イモ・マメ・ナッパ 健康のもと
     青野菜を、日に体重の1%以上と、できるだけ沢山食べるだけでなく、なお、つとめて精白した米・麦や筋肉部だけの魚・肉などをひかえて、それを未精白の米・麦・芋・雑穀わけても芋や、大豆・小魚・乳わけても大豆に切りかえることが大切であるのは、前者よりも後者に、各種のミネラルやビタミンが多いので、栄養に調和をとりやすく、青野菜を沢山食べる効果がよりいっそうあらわれるためである。
     健康に長生きしている人には、殆んどすべて、こうした食べ方をしているのであって、「イモ・マメ・ナッパ健康のもと」というのは、こういうわけだ。

     栄養剤では完全な 栄養ははかれない
     病気治療や健康保持のため、といって、あれこれと栄養剤・保健薬が宣伝されている。なかには、専ら営利を目的にしたのであって、治病にも保健にもおよそ無意味なもの。逆効果さえ招くものもあるが、その他はそれそれ、なんらかの根拠はあって、なにがしかの効果はある。
     けれども、これは既知の栄養素、それも、そのごく一部を主成分にしたものであって、もともと食物に含まれているものだ。従って、毎日の食物を改めれば、全く不必要なものであり、これを怠って栄養剤に依存しては、なにほどの効果もなく、ムダづかいになる場合が多い。
     食改善・食養生のために、といって、あれこれと栄養食品が宣伝されている。が、多くは、自社製品を売らんかなのものであって、栄養の調和・完全には、およそ無意味なものであり、なかには有害でさえあるものもある。

     食養生の工夫は いろいろあるが
     食養生・食改善にはいろいろな工夫があり、この道の専門家もあれこれとすすめている。いずれも、それ相当の根拠があり、それなりの効果はある。
     けれども、青野菜をそれ相当量取り入れない限り、どんな食養生・食改善も、とうてい完全な栄養をはかることはできず、治病にも保健にも、その効果は限られてくる。
     これは、生きたカラダとその栄養の、任意に変えることのできない事実・法則であって、食養生には、それ相当量の青野菜が必要不可欠であり、実状、日に体重の1%以上食べる必要があり、それを青汁にして飲むのが最も有効適切である。そしてその上で、なおあれこれと食物を改めることが大切であって、そうして初めて、本当に完全な栄養をはかることができ、治病・保健の土台である体力・抵抗力が強化されるのだ。
     またこれは、生きた人間の基本的・生得的な食欲にそったものであって、こうした食養生には、お互い生後身につけてきた二次的・派生的な食習慣や好みから、はじめは少々抵抗を感じるかも知れないか、そこはしばらく辛抱してつづけていると、やがてはしぜんとカラダが欲求するようになり、これが最高においしくなる。そうはならなくても、こういうふうに食べねばモノ足りなくなる。
     と共に、ふつうのご馳走も、そう度々食べたいとは思わないが、食べればやはりおいしく、食事が巾広く楽しくなる。

     (付記)
     これまで長い間つづけてきた、言いたい放題なこの断想は、ときおり付記したように、倉敷その他で毎月定期に開かれている青汁教室で、遠藤先生がお話しになり、また、出席者がこれに学んで、みずから体験して話しだした食養生の工夫を、あれこれと主題をあげてまとめてみたものです。が、どんな主題をあげても結論はひとつで、毎回同じようなことのくかえしになりました。
     それは、生きたカラダの基本的な食欲と栄養は任意に変えることのできない事実である以上、いわば当然のなりゆきであって、問題は、この事実に的確にそうように、それからかけはなれている習慣や好みを改めることです。そしてそれには、この事実の正確な理解と体験につとめることが大切です。
     そこで、また同じことのくりかえしになりますが、青汁教室て学んできた理解を総まとめして、この断想つづきを中断することにします。




08-02. 青汁を飲む心(1)

     友成 左近 

     青汁はだれにも、ふつうに身につけてきた習慣や好みにはあわないらしく、その程度は人様々ながら、とにかくまずくて飲みずらいようです。長いこと飲みつづけて、少しは習慣化してきても、そこは相変わらずで、どうひいきめにいっても、別にそうおいしいものではありません。が、あえてこの青汁を精出して毎日飲むのは、そこをお互い、こう心しているからではないでしょうか。

    その効能がカラダにもアタマにもよく分かって
     まず第一に、その他の飲食物とは少々様子がちがって、とくにその意義・効能が、カラダにもアタマにもよく分かっているからであって、これを飲んで健康をはかっていくのだ、と心しているわけです。この分かり方や飲み方の様子は各人各様ですが、青汁を毎日1合2合、あるいは3合4合と飲んでいると、体具合がしごく快調になる、どんな病気にも、そうめったにかからない、かかっても早く治る、医者にかよって治療をいろいろうけても、いっこうに治ってこないような厄介な病気でも、だんだんと治ってくる、ということ、それも、これにかわり、これにまさるものは他にない、ということが、カラダにもアタマにもよく分かって、これを飲まねば健康ははかれないのだ、これを飲んで健康をはかっていくのだ、と心して飲んでいるわけです。といって、その他の飲食物にも、またその他の養生にも、さらに予防注射などにも人一倍心がけて病気を予防し、それで病気にかかったら、そこは専門家である医者にかよって治療をうける、ということにも心していることはいうまでもありません。

     ところで、青汁の意義・効能が、こういうふうに分かってきたのは、多くの場合、つぎのようなしだいであったようです。そのキッカケは、厄介な病気にかかっていたとか、しょっちゅう病気をするとか、その他あれこれと、人それぞれなにか身におぼえのあるところへ、体験者にすすめられたこと、それも、親身になってすすめてくれたことです。そしてはじめは、その意義・効能がよく分からず、それに、なんともまずくて飲みずらかったことはいうまでもありません。けれども、身をもってした体験による、親身なすすめであれば、それを信頼して、これを飲んだら健康になるだろうと、飲みずらいのは辛抱して、とにかく毎日飲んでみたわけです。すると、やがてその効果がカラダにあらわれてきて、この意義・効能がまずカラダに分かってきたわけです。そこで、それにひかれて、さらに体験者にもきいて、これがアタマにもよく分かってきたのです。そこで、いよいよ精出して毎日飲みつづけているうちに、さらに深くカラダにもアタマにもよく分かってきて、今度は、この青汁を友人知人に、機会さえあれば必ずすすめるようになったのです。そして、ここでも同様の体験を共に喜んでいくうちに、人からなんといわれようと、この意義・効能を固く信じて疑わないようになったわけです。

     それはおそらく、こういうわけでしょう。人々だれでも、なにごとについてもそうですが、とくに食事の仕方を改める場合には、それも青汁のように風変わりで、しかもまずくて飲みずらいものであると、その意義・効能を、まずアタマでよく分かろうとしても、マトモに分かろうと、容易に心が開きません。とかく好き嫌いの感情が先立って、こんなまずいものは、とケギライするからです。けれども、青汁の意義・効能は、人々の好き嫌いの感情にはかかわりのない、生きたカラダとその栄養という自然の、厳然とした事実・理法にかかわることがらです。それが頭によく分からなくても、疑ってかかっても、いやいやながらでも、とにかく毎日飲んでいると、やがては必ず、その効果がカラダにあらわれてきます。そうなると、それにひかれて、ケギライの感情がやわらいで心が開いてくるので、アタマにもマトモに分かってきます。こうなると、それにつれて、ケギライの感情がだんだんと消えてくるので、そのうち、おかしな言い方ですが、まずいが好きだ、これがなくてはやっていけない、というぐあいになるようです。

     そのためか青汁は、その意義・効能がアタマによく分かってきたら飲んでみよう、ということでは、とうてい飲み始めるものではありません。体験者にどんなにすすめられても、全く無縁なものに終わってしまうようです。また、体験者にすすめられて、とにかく飲んでみて、その効能が一度はカラダに分かってきても、さらにアタマにもそれ相当に分かってこないと、多くの場合、こんなまずいものは、という感情がつづいていつのまにかやめてしまうようです。
     けれども、とにかく実際に飲んでみて、その意義・効能がカラダに分かり、さらに体験者その他にも見聞して、アタマにもよく分かってくると、これで健康がはかれるのだと、いよいよ精出して毎日飲みつづけるようになるようです。そしてやがて、そのまずさが別にそう妨げにはならず、そのうち、そのまずいところが、えもいえず、というふうになり、少しは習慣化もして毎日飲むようになるようです。(つづく)




08-03. 青汁を飲む心(2)

     友成 左近 

     青汁を毎日飲むのは、まえにみたように、そのはじめは、病気その他なんぞ身におぼえのあるところへ、体験者にすすめられたものの、なんとも風変わりで、まずくて飲みずらく、その意義・効能もよくは分からなかったのです。が、身をもってした体験による親身なすすめに信頼して、これを飲んだら健康になるだろうと、飲みずらいのは辛抱して、とにかく毎日飲んでみたわけです。
     すると、やがてその効果があらわれてきて、その意義・効能がまずカラダに分かり、それにつれて、さらにアタマにもよく分かってきて、いよいよ精出して毎日飲みつづけたわけです。
     そしてそのうち、この意義・効能がさらに深くカラダにもアタマにもよく分かってきて、これを飲んで初めて本当に健康がはかれるのだ、と確信して、これを友人知人にもすすめるようになり、やがて、まずいことはまずいが、そのまずいところがえもいえず、というふうになり、また少しは習慣化もして毎日飲んでいるしだいです。

    習慣や好みよりも健康と生命を大切に
     そこで、青汁を飲むのは、いうまでもなく健康をはかるためですが、そこでトクと心しているのは、食事は、習慣や好みよりも健康と生命を大切にして、ということです。

    習慣のままにではなく栄養の理法に従って
     従って、青汁を毎日飲むのは、この健康の最も重要な土台である栄養を、十分まかなうためですが、そこでトクと心しているのは、食事は、ただ全く習慣や好みのままにではなく、好き嫌いは感じるままに感じながらも、できるだけ栄養の事実・理法に従って、ということです。
     そして、その最も重要な決め手が青汁であれば、どんなにまずかろうと、まずもってこの青汁を飲んで、と心しているわけです。
     人々だれでも食事は、めいめい身につけている習慣や、それが心理的に着色した好みに従っています。けれどもこれには、人その人によって程度の差はありますが、栄養の事実・理法には、必ずしも的確にそっていないところがいろいろあるのが実状です。
     従って、ただ全く習慣や好みのままでは、とうてい栄養は十分にまかなえず、ことは健康と生命にかかわってくるので、これはなんとか改めなければなりません。しょっちゅう病気をする人、カラダ具合が悪くなった場合、そして病気、それも生命にかかわるような病気にかかった場合は、なおさらです。
     それでは、どう改めたらよいか、というと、いろいろ多面にわたっています。が、これまで科学的に調査研究されていることから綜合的に判断すると、その決め手として最も重要なことは、青野菜をもっと沢山食べることです。このごろの習慣食の実状からみた、おおよその目安は、良質のもので自分の体重の1%以上です。そして、この最も有効適切な食べ方は、これを青汁にして飲むことです。
     これをさしおいて、他であれこれと改めてみても、多少の効果はあっても、たいした効果はありません。けれどもこれは、人々ふつうに身につけている習慣や好みにはあいません。
     ところが、食事の習慣や好みは、もともとめいめい固有の生理的生得的な欲求と本能に根ざしたものであり、生後の養育その他の社会生活で学習しながら、自分の食欲をみたし自分のカラダを養なって、文字通り身につけてきたものです。
     心理的にも生理的にもなれなじんでいるので、人々だれでも、これには格別強く執着します。従って、これを改めることには、それも青汁のように風変わりで、まずいものとなると、心理的に強く抵抗を感じて、生皮をはぐような思いがし、生理的にも一時異変が起こることがあるので、これは決して容易なことではありません。
     こんなまずいものを飲まなくても、他になにか打つ手はないものか、病気は早く治ってほしいが、青汁はどうも、というのが人々ふつうの心情です。人によっては、こんなまずいものまで飲んで、健康になろうとは願わない、死んでも飲みたくないと、口に出していうことさえあります。
     けれど、人間に最も、いな絶対的に大切なものは、めいめいかけがえのない生命です。この生命を支えていくのが健康です。習慣通り好み通りにしたいのはヤマヤマながら、それよりも健康と生命を大切にしなければ、というのが人々だれにも共通した真実です。
     ところで、この生命と健康の最も重要な土台は栄養ですが、この栄養の成り立ちは、人々の習慣や好みにはかかわりのない、厳然とした自然の事実であって、これは、人為的にとうてい変えることはできません。その理法に従って食事をしなければ、栄養は十分まかなえず、そのもっとも重要な決め手が青汁なのです。
     それにひきかえ、人々の習慣や好みは、もともとこの事実・理法に従うようにつとめてきた、人類長年の経験から学習したものではありますが、しょせん他ならぬ人間がつくりあげたものです。長い歴史の間にも、また個人的にも、たえずうつりかわっており、これは、その気になれば変え改めることができます。
     青汁を精出して毎日飲んでいるのは、そのはじめは、縁あって、そこを体験者にすすめられて、その気になり、まずく飲みずらいものではあったが、それは感じるままに感じながら、習慣や好みよりも健康と生命を大切に、と心して、この青汁を飲んで健康をはかろうとつとめたわけです。
     そしてその後も、そう心するように、互いにいましめあって、別にそうおいしいものではないが、その青汁を飲んで、できるだけ栄養の事実・理法に従って栄養をまかない、健康をはかろうと心しているしだいです。

    (つづく)




08-04. 青汁を飲む心(3)

     友成 左近 

     青汁を毎日飲むのは、まえにみたように、そのはじめは、なんとも風変わりで、まずくて飲みずらく、その意義・効能もよくは分からなかったのですが、体験者の親身なすすめに信頼して、とにかく毎日飲んでみたところ、それがまずカラダに分かり、それにつれてアタマにもよく分かってきたからです。
     そこで精出して毎日飲んでいるうちに、さらに深くカラダにもアタマにもよく分かってくるにつれて、友人知人にもすすめて、そこでも同様の体験を共に喜んでいくうちに、青汁は、どんな病気の治療にも予防にも、また健康のよりいっそうの増進にも、必要不可欠のものであり、その最も重要な決め手であると確信するようになったからです。
     そして、まずいことは相変わらずまずく、どうひいきめにいっても別にそうおいしいものではないが、これで健康をはかっていくのだと心し、また少しは習慣化もして毎日飲んでいるわけです。
     そこで、少し観点をかえてみると、青汁を毎日飲むのは、食事は、習慣や好みよりも健康と生命を大切にして、と心すると共に、習慣や好みのままにではなく栄養の理法に従って、と心しているわけです。
     というのは、人々だれでも食事の習慣や好みには、かけがえもなく大切なもののように格別強く執着しますが、真実かけがえもなく大切なのは生命であり、これを支えていくのが健康であるからです。
     そして、この健康の最も重要な土台は栄養であり、この栄養の成り立ちは、人為的には変えることのできない自然の事実であって、その理法に従って食事をしなければ、栄養は十分まかなえないのですが、習慣や好みは、生来学習して身につけてきたものであって、その気になれば、変え改めることができるからです。
     とはいっても人々だれしも、思慮の足りないところ意志の弱いところがあるので、たえずみずからいましめなければ、つい習慣や好みのままに食事をして、とかく健康と生命をおろそかにします。
     そこで、青汁を毎日飲むのは、どうひいきめにいっても別にそうおいしいものではないが、栄養と健康に最も重要な決め手であれば、あえてこれを精出して毎日飲んで、そこをみずからいましめよう、と心しているわけです。

     * 

    病気の治療にも予防にもみずから責任をはたして
     が、もう少し観点をかえてみると、青汁を毎日飲むのは、病気の治療にも予防にも、健康のよりいっそうの増進にも、いろいろ人の世話になりながらも、ひっきょう自分がつとめなければならないことは、みずから責任をはたして、と心しているわけです。
     人々だれでも、なにごとも社会的に、人の世話になって生活していますが、とくに病気については、そこは専門家である医者の世話にならなければ、とうてい満足に治療することも予防することもできません。
     ところが最近、この医療が急速に発達して、すばらしい成果をあげてきたためか、病気の治療も予防もあげて医者まかせ、といった傾向が強くなっています。
     それに最近は、社会わけても産業経済の異常な発達に伴なって、素人には見当さえつかない病気が急増してきたためか、この傾向がますます強くなっています。けれども医療は、どんなに発達しても、もともと、病気に対する生きたカラダの抵抗力・治癒力を補強する性質のものです。
     ただそれだけで病気が首尾よく治りもし防ぎもできるわけではありません。
     そして、この抵抗力・治癒力の土台は、めいめいみずからつとめなければならない養生、わけても食養生によって養なわれるものです。
     これを怠って、間違った習慣や好みのままに食事をして、病気の治療も予防もあげて医者まかせ、というのは本末顛倒であり筋違いであって、自分の健康と生命に無責任なことです。

     * 

     そのうえ最近は、貨幣経済が高度に発達して、人々の生活関係が極めて多面にわたってカネで処理され、病気の治療や予防もカネで処理されるようになってきたためか、カネさえあれば病気が治り、健康が得られるかのような錯覚が強くなっています。
     それに最近は、健康保険その他の社会保障制度がだんだんと拡充してきたためか、このカネも、あげてこれにたよる傾向が強くなっています。
     けれども、病気の治療も健康の保持も、その土台をつくるのは、めいめいみずからつとめなければならない養生、わけても食養生です。
     これを怠ってカネで病気を治そう、カネで健康を買おう、それもあげて社会保障に求めようとしても、それは無理というものです。
     それで病気がうまく治るものではなく、苦しむのは自分自身です。社会的にも迷惑なことです。医療にしても、その社会保障にしても、人々めいめい自分でつとめなければならない養生、わけても食養生に、できうる限りつとめたうえで、活用する性質のものです。

     * 

     ところが最近は、この食養生が、マトモにはできにくくなっています。
     食料の生産供給が、貨幣経済の異常な進展に伴なって、カネ儲け第一で、人々の健康への配慮は二のつぎであるからです。
     原材料もさることながら、とくに企業の加工食品が、人々の間違った習慣や好みに迎合しているだけではなく、さらにそれを巧妙な宣伝で刺激して盛んに売りこまれています。
     そのためか多くの人々は、こうした食料、それは実は、成分が劣っているだけでなく、多かれ少なかれ農薬や添加物その他で有害有毒化さえしているもので食事をすることに、別に何も疑問をいだかず、それが進歩的文化的であるとさえ考えています。
     けれども、それが時代の流れであるからといって、それにあわせて食事をして、それで病弱になっても、社会も企業も別になにも保障はしません。
     たとえなにがしか保障しても、病弱になったカラダはとりかえすことはできず、苦しむのは自分自身です。
     病気を予防もし治療もして健康をはかっていくには、こうした時流に抗して食養生につとめなければなりません。
     青汁を精出して毎日飲むのは、そこを不十分ながらも分別しているわけです。
     そして、その最も重要な決め手が青汁であると確信して、その他の飲食物もさることながら、まずもってこの青汁を飲んで、なにより大切な健康に、不行届ながらも、みずから責任をはたして、と心しているわけです。
    (おわり)




08-05. 続・青汁を飲む心(1)

     友成 左近 

     青汁を飲むのは、いうまでもなくカラダの健康をはかるためであり、食事にかかわることがらです。が、この青汁を精出して毎日飲んでいると、それが手がかりになって、食事全般をだんだんと改めるようになるだけでなく、その理解や心がけがしぜんと食事以外にも波及して、生活各面をなにがしかずつ改めるようになり、それにつれて、ココロも健康になってくるようです。
     であればお互い、そこをひとつ積極的にすすめてみては、どうでしょうか。
     ところで、青汁を精出して毎日飲むのは、前記のように、その他の食物と少し様子がちがって、とくにその意義や効能を理解して、これで健康をはかっていこうと心がけているからです。が、前記は少し混雑していたので、念のため、それを少し筋道たてて要約すると、こうです。

    毎日飲むように なったしだいは
     まず、精出しもし、また少しは習慣化もして毎日飲むようになったしだいは、およそつぎの通りです。

    1. 飲みはじめたキッカケは、厄介な病気その他なんぞカラダにおぼえがあって、それを治して人並に健康になりたいと思い、また、人並に健康ではあるが、よりいっそう健康になりたいと思っているところへ、体験者にすすめられたことです。あるいは、体験者にすすめられて、そう思うようになったことです。
    2. けれどもはじめは、その意義や効能がよく分らず、それに、なんとも風変わりで、まずくて飲みずらかったのです。が、体験者の親身なすすめを信頼して、これを飲んだら健康になれるだろうと、飲みずらいのは辛抱して、とにかく毎日飲んでみたのです。
    3. すると、やがてその効果があらわれてきて、その意義や効能がまずカラダに分かってきたのです。そこで、それにひかれて、さらに体験者その他にも見聞して、それがアタマにも分かってきて、今度は、これを飲んで健康になろうと、精出して毎日飲みつづけるようになったのです。
    4. そうなると、事実ますます健康になって、その意義や効能がさらに深くカラダにもアタマにもよく分かってきて、いよいよ精出して毎日飲みつづけるようになったのです。そしてそのうち、まずいことは相変らずまずいが、そのまずいところがえもいえず、というぐあいになり、また少しは習慣化もして毎日飲むようになったわけです。
    5. と共に、これを友人知人にもすすめるようになり、そこでも同様の体験を共に喜んでいくうちに、青汁は、どんな病気の治療にも予防にも、健康のよりいっそうの増進にも、必要不可欠であり、その最も重要な決め手であると確信するようになったしだいです。

    健康と青汁についての 理解と心がけは
     こういうふうに飲みはじめもし飲みつづけもしているのは、健康と青汁について、およそつぎのように理解もし心がけもしているからであり、飲みつづけているうちに、そう理解もし心がけもするようになったのです。
    1. その根本は、いかにも平凡なことですが、病気その他なんぞカラダにおぼえがあれば、それは治して人並に健康にならねばと心がけ、また人並に健康であっても、人間ナマミであれば、よりいっそうの健康をはかっていかねばと心がけているからです。そしてこれは、はっきりと意識しているかどうかはともかく、生命は大切にしなければと心がけているからです。
    2. それには、必要に応じて医師の診療もうけねばなりませんが、その土台として最も重要なことは、毎日の食事で栄養を十分まかなうことです。そしてこれは、いろいろ人の世話にはなりますが、つまりは自分でつとめなければならないことです。そこで毎日の食事は、それで栄養が十分まかなえるようにと心がけているのです。
    3. ところが、この食事の習慣や好みには間違ったところがいろいろあって、習慣通り、好みのままの食事では、栄養は十分まかなえないのですが、この習慣や好みには、かけがえもなく大切なもののように執着します。けれども真実かけがえもなく大切なものは生命であり、それを支えていくのが健康です。そこで食事は、習慣や好みよりも健康と生命を大切にして、と心がけているのです。
    4. そして、生きたカラダの健康と栄養の成り立ちは、人々の習慣や好みにはかかわりのない厳然とした自然の事実であって、これは人為的に変えることはできません。が、それにひきかえ習慣や好みは、生来学習して身につけてきたものであり、事実たえずうつりかわっているのであって、これは、その気になれば変え改めることができます。そこで食事は、ただ全く習慣通り、好みのままにとは執着せず、できるだけ健康と栄養の事実・理法に従うように改めねば、と心がけているのです。
    5. そして、この理法に従って栄養を十分まかなう最も重要な決め手が青汁であれば、これは、まずくて飲みずらくても、そこは辛抱して飲まねばと心がけているのです。と共に、それを手がかりにして、さらに食事全般も改めていかねばと心がけているのです。
    6. こう理解もし心がけもして青汁を飲み、さらに食事全般も改めていくと、事実ほんとうに健康になってきます。そこで、これは友人知人にもすすめて、その喜びを共に喜ばねばと心がけているのです。
    7. とはいっても、青汁についても、また食事全般についても、理解は不十分であり、思慮も足りず意志も弱いところがあるので、とかくそれまで身につけている習慣や好みに従いやすく、また時代の間違った流行にも流されやすいのです。そこで、たえずみずからいましめ、また友人知人とも互いにいましめあうと共に経験や見聞を分かちあって、よりいっそう食事に気をつけなければと心がけているのです。
    8. そして青汁は、この食事に必要不可欠なものであり、その最も重要な決め手であるが、長いこと飲みつづけて少しは習慣化してきても、まずいことは相変らずまずいのです。そこで、あえてこのまずい青汁を精出して毎日飲んで、みずからいましめるムチにもしようと心がけているのです。(つづく)




08-06. 続・青汁を飲む心(2)

     友成 左近 

     青汁を精出して毎日飲むのは、それが、かけがえもなく大切な生命と健康の、最も重要な土台である栄養を、十分まかなう最も重要な決め手である、と理解しているからです。
     そこでこれは、まずくて飲みずらくても辛抱して、と心がけているわけです。
     といって、これはほかでもなく、毎日の食物のひとつである青野菜を、必要なだけ十分、そして最も有効に食べる方便です。従って、この理解と心がけは当然まず第一に食事全般に波及してきますが、それは、こういうわけであって、こう改めることが大切です。

    青汁が栄養の最も重要な決め手であるのは
     毎日の食事でまかなう栄養が、生命と健康の最も重要な土台ですが、この栄養を十分まかなう、というのは、生きたカラダの健康に必要な各種の栄養分を、もれなくすべて、必要なだけ十分とりいれて、その間にうまく調和をとって、栄養に完全をはかることです。
     ところが実状、生きていく精力になる熱量と、生きていくカラダをつくりかえる成分になる蛋白質は、ほぼ必要なだけはとっており、人によっては必要以上にとりすぎています。が、これが体内で利用されるのに必要な各種のミネラルとビタミンが不足しており、人によっては著しく不足しています。
     これが、病気にかかる素地であり、治療しても治りにくい原因です。

     こういうふうに栄養が不調和・不完全になっているのは、毎日の食事で、精白した米・麦・砂糖や、筋肉部だけの魚・肉や、その加工品は好んで食べるが、野菜わけても青野菜が著しく少ないからです。
     そこで、栄養を十分まかなうには、まずもってこの青野菜を、それも各種のミネラルとビタミンが最も多い緑色の濃いものを、そしてそうした成分が吸収しやすい良質なものを、必要なだけ十分食べることが肝要です。(この点、ホウレンソウなどは少し不適格)
     こうした青野菜にだけ、各種のミネラルとビタミンが、もれなくすべてよくそろって、ケタちがいに多いからです。
     これ以外のものでは、どんなものをどう工夫しても、各種のミネラルとビタミンを、もれなくすべて十分とりいれることはできないからです。

     では、この青野菜がどれくらい必要か、というと、人々ふつうの習慣食で総平均すると、少なくとも日にめいめいの体重の1%です。そしてこれは、他のどんな食物ともちがって、その種類と食べ方をあやまらねば、どんなに沢山食べても差し障りはなく、多ければ多いほど栄養を十二分にまかなって、よりいっそう健康に役立つのです。
     が、種類と食べ方をあやまると、大切な成分が有効に活用されないだけでなく胃腸その他をいためるおそれがあります。
     そこでこれは、刺激性の強いものやホウレンソウの類以外のものを選んで、生のまますりつぶして、汁だけしぼりとって、青汁にして飲むのが最も有効適切です。
     こうすれば、250gが約200ml(1合少々)になるので、どんなに歯や胃腸の弱い人でも、日に体重の1%以上食べるのは、まずいことさえ辛抱すれば、そう造作もないことです。それに、家畜の飼料でも利用できるので、ますます好都合です。広く青汁に使われているケール・シーオー・ナタネ・レープ・カキバダイコンなどは、もともと家畜の飼料です。

    栄養調和の点から食事全般を改める
     青汁が栄養の最も重要な決め手である、というのはこういうわけです。そこで青汁を飲んでいると当然、食事全般を改めて、栄養をよりいっそう十分まかなうように心がけます。少々精出して飲んでも、食事全般を改めなければ、栄養にうまく調和がとれないからです。
     また、青汁材料を必要なだけ十分手にいれることが、実状そう容易でなく、地方によっては極めて困難であり、まずいことさえ辛抱すればといっても、これもそう容易でないからです。
     そこで食事全般を改めるには、青汁の効果が十二分にあがるように、また、やむをえず十分飲めなくても栄養がうまく調和するように、各種のミネラルやビタミンがより多いものに改めることが大切です。
     従って、精白した米・麦や、筋肉部だけの魚・肉は極力ひかえて、未精白の米・麦・雑穀・芋や、マルごと食べる小魚・卵・大豆を使うこと、いずれも、つとめて原材料を手に入れて家庭で調理し、市販の加工品は極力ひかえること、野菜わけても青野菜を、煮たきしてもよし、生であればさらによし、つとめて沢山食べることが大切です。
     もうひとつ、塩と砂糖を極力ひかえて薄味にして、すべてよくかんで食べ、ハラ八分にとどめることが大切です。
     というと、なんとも粗食で味気ないものと思われるかも知れませんが、人々ふつうの習慣や好みよりも、生きたカラダの栄養の事実に従ったものです。しばらく辛抱して食べつづけていると、シンから健康になると共に、しぜんとカラダが要求し、好みも変わってきて、これが最高においしくなり、まえに好んで食べていたものが、食べればおいしいが、別にそう食べたいとは思わなくなります。

    安全の点から食事全般を改める
     こういうふうに青汁を飲み、また食事全般を改めるとき、もう一面とくに重要なことは安全です。
     が、この点、社会的にも行政的にも強調され始めており、とくに青汁を飲んでいる人々はよく気をつけているので、要点だけ言い添えるとこうです。青汁材料には必ず、とくに青汁用にと栽培に危険な農薬はいっさい使っていない安全なものを使い、市販の青野菜は、それが確認されない限り決して使わないことが大切です。
     その他の食品には、つとめて原材料を使って市販の加工品は極力さけることが大切です。実状やむをえず加工品を使う場合は、よく吟味して、添加物のはいっていないようなものにします。
     原材料もよく吟味しなければなりませんが、これにはつとめて芋と大豆を使うことが大切です。
     栄養に調和をはかる点で最も適切であるうえに、安全度も高いからです。
     というと、食事に手数がかかり、うまく吟味できるかと思われるかも知れません。が、青汁を精出して飲み、また食事全般も改めていると、だんだんとうまい工夫がついてきて、そう手数はかからなくなります。また、目や鼻や口がマトモになって、危険なものがかなりよく分かるようになります。
     

    (つづく)




08-07. 続・青汁を飲む心(3)

    養生全般に心がける
     青汁を飲み、また食事全般も改めて食養生に精出していると、その理解と心がけが、おのずと食事以外にも波及して、生活各面にわたって多少とも改めるようになります。
     このうち、まず第一に波及して、当人自身そうつとめもしているのは養生全般についてです。

    養生というのは
     ここで養生というのは、生きたカラダの欲求・必要をみたして健康をはかることです。
     その主な側面には、栄養分を補給する食事のほか、空気の呼吸、水分の補給、日光浴、寒暑その他の苦痛や災害に対する防衛や回避、体内の不要産物や疲労物質をとりのぞく排泄や、こうした諸活動を促進する身体活動などがあります。
     そしてこれは、衣食住その他の日常生活で営んでいるわけです。
     ところで、こうした各面の養生も、食養生と同様に、生来めいめいみにつけてきた習慣や、それが社会的心理的に着色した好みに従っています。
     そしてそれには、人々だれにも、程度の差こそあれ、生きたカラダ本来の欲求・必要には的確にそっていないところがあって、健康の妨げになっています。
     けれども実状、それには意外と無知無関心である場合があり、改めねばと分かっていても、習慣や好みに強く執着します。
     が、青汁を毎日飲んで食養生に精出すのは、習慣や好みよりも生命と健康を大切にし、習慣や好みのままにではなく、生きたカラダの栄養の事実・理法に従って、と心がけているからです。
     であればお互い、この心がけを活用して、できるだけ的確な養生につとめたいものです。

    生活環境に深い関係がある面については
     ところで養生には、空気の呼吸、水分の補給、日光浴などのように、自然的社会的な生活環境に深い関係があって、個人的に心がけても著しく限られる側面があります。
     そして最近は、この生活環境が公害で著しく汚染されています。
     そこで、こうした面の養生に心がけるには、社会的政治的に公害排除の運動を強力にすすめなければなりません。
     と共に、個人的にも、この養生の意義を深く自覚して、限られた範囲内ながらも最善の工夫をしなければなりません。
     すれば、しただけの効果は必ずあり、自分がしなければならず、他人に代わってはもらえないからです。
     また、そう心がけなければ、とうていマトモな運動はできないからです。

    社会的に強い影響をうける面については
     つぎに、苦痛や災害に対する防衛や回避にかかわる被服や住居その他の安全活動などのように、個人的には生計に深い関係があり、社会的には習慣や流行に強い影響をうける側面があります。
     そして最近は、企業の宣伝が極めて巧妙です。そこで、こうした面の養生に心がけるには、なによりもまず、本当に身を守るには、どんなことが必要なのか、そこを的確に自覚して工夫するように、社会的な習慣や流行や企業の宣伝に抵抗すると共に、自分の習慣や好みを改めることが大切です。
     従って、寒暑などについては、それに耐えていけるように心身を鍛錬することが大切ですが、交通災害や風水害などのように社会的施策が必要な面については、前記の生活環境と同様です。

    排泄については
     養生には、こうした側面とは様子がちがって、もっぱら個人的に心がけねばならない側面があり、その第一は排泄です。このうち、とくに重要な便通ですが、これには下痢と便秘といった問題があります。
     が、下痢についてはともかく、便秘について意外と無関心な人が少なくないようです。
     けれどもこれは、カゼと同様に万病のもとであって、下痢と同様に、いなそれ以上によく気をつけねばなりません。
     ところで、便秘というのは、秘結して毎日うまく出ない場合だけでなく、ほぼ毎日よい便が出ているようであっても、また、少し下痢気味で毎日よく出ていても、さらに、度々下痢するようなことがあっても、その都度すっかりと出てしまわず、いつもかなり残っている場合も便秘であって、いずれも万病のもとです。
     それは、便秘して腸内に未消化分がたまっていると、それが醗酵してハラがはり、また酸敗して有毒物ができ、それが吸収されて血がにごり、腹痛・腰痛・頭痛・肩こり・肌荒れ・吹き出物・高血圧などの原因になるからです。
     また、排便の工夫をあやまって痔を引き起こすからです。
     さらに重大なことは、便秘するのは腸がたるんでいるからであって、これは全身虚弱のしるしでもあり原因でもあるからです。
     そこで、便秘はぜひ治さねばなりませんが、まえにみたような食養上に心がければよいわけです。
     が、それでもなお毎日快便がないようであれば、野菜をもっと沢山食べ、菓子や砂糖を極力ひかえることです。
     と共に、これは一面習慣でもあるので、その面からも改めねばなりません。が、それには、毎日必ず1回以上、ほぼ定時に便所に行って、それ相当に時間をかけて、すっかりと出してしまうことが大切です。
     そのため便所には、食後わけても朝食後、腸が活動し始めたところに行くのが適切ですが、そのころ時間が十分とれなければ、いつでもほぼ定時に時間が十分とれるときでよいわけです。
     そしてその間、ヤタラといきまず、ハラをさすったり、へこませたり、腰をのばしたり左右にまげたりして、腸が活動して便をおし出すようにすることが大切です。
     もうひとつ、平素たえず腹筋の体操をして腸を丈夫にすることです。

    休養については
     第二面は休養ですが、このうち最も重要なのは睡眠です。が、まえにみたような食養生に精出して健康になれば、ことさら心がけなくても、しぜんと毎日十分眠れるようになります。
     とはいっても、気の持ち方をあやまって、そうもいかないことがあります。
     また最近は、仕事の多忙もさることながら、不必要な社交や娯楽で、わけてもテレビの見すぎで夜ふかしして、睡眠時間が不足することがあります。
     そこで大切なことは、いかにも平凡ながら、毎日必ず夜間に時間を十分とって、寝床について眠ること、たとえその間よく眠れなくても、眼を閉じて床についていることです。
     それでほぼ必要な休養がとれるからです。もうひとつ、よほどのことがない限り、この時間以外には居眠りしないことです。
     それほどの休養はとれないうえに、夜間の睡眠を妨げるからです。

    身体活動については
     第三面は身体活動で、これには、毎日それ相当の労働をしていても、なお歩行や体操や鍛錬に心がけることが大切です。
     でないと、実状とかくおっくうになるからです。
     それに最近は、交通機関の発達によって歩行が少なくなり、スポーツの普及で体操がおろそかになり、それも見るばかりの人が多く、被服や住居や冷暖房の発達でカラダがきたえられなくなっているからです。
     ところでこれは、年令や健康状態などによって、それ相応の注意が必要であり、また専門家の指導もうけることが大切です。
     が、とにかく毎日つとめたいことは、それ相当時間は必ず戸外を歩くこと、背をのばして、少しは汗ばむくらいサッサと歩くことです。
     ラジオやテレビを活用するなどして一定時間は必ず体操をすることです。
     できるだけ薄着をすると共に、冷水マサツや乾布マサツをして皮膚をきたえること、戸外で深呼吸したり、冷水でノドやハナのウガイをして、空気のふれる粘膜をきたえることです。

    (つづく)




08-08. 続・青汁を飲む心(4)

     友成 左近 

    体具合の思い煩いが少なくなる
     このごろ、健康でありたいと思うあまり、体具合を思いわずらって、少しでも悪くなると、別に病気ではないのに、病気と気病みして神経症にかかる人、それが高じて、本当に病気にもなって心身症にかかる人、あるいは病気にかかると、それ相当に療養しているのに、なおあれこれ気病みして神経症にもかかる人が多くなっているようです。
     といって、ほかならぬ人間のことであれば、こうしたことは人々だれにも、程度の差こそあれまぬがれないことであって、神経症や心身症にかかる人の数は、今も昔もそう変わりはないという見解もあります。
     が、青汁を毎日飲んでいると、まえにみたように食事全般を改めて、よりいっそう食養生に精出し、また広く養生全般にも心がけるようになって、体具合が人一倍よくなるので、それだけ思いわずらうタネが少なくなります。
     そのうえ、その理解と心がけが、こういうことにも波及してくるので、体具合が悪くなっても、また病気にかかっても、それで思いわずらうようなことも少なくなります。
     とはいっても、食養生をはじめ、その他の養生について、理解は不十分であり間違ったところもあり、また思慮も足りず意志も弱いところがあり、とくに最近は生活環境が危険になっているので、体具合が悪くなり、病気にもかかることはとうていまぬがれません。
     であればお互い、食養生その他養生全般に、よりいっそう適確な理解につとめて精出すと共に、その理解と心がけを積極的に活用して、体具合が悪くなっても病気にかかっても、いたずらに思いわずらわないようになりたいものです。

    体具合を思い煩うのは
     ところで、健康でありたいと思って体具合に気をつけるのは、いうまでもなく病苦をまぬがれて心身とも健やかに、家庭や職場その他で、仕事にも人づきあいにも精出して、無事仕合わせに生活していくためであって、人々だれにも備わっている心のはたらきです。
     が、ほかならぬ人間であれば、この心のはたらかせ方をあやまって、体具合を思いわずらうことがあるのですが、それはひと口でいえば、健康を思いながらも、それには実際どう気をつけたらよいか、そこがよく分からないからであり、だからといって、思うほどには、よく考えず、考えても行なわないからです。
     また、考えもし行ないもするとき、体具合はいつも快調でありたいと思い、少しでも悪くなると、病気ではないかと心配し病気にでもかかると、重症になりはせぬか、生命にかかわりはせぬかと心配して、とかく必要以上に手当をする、というふうに、とうてい思うようにはいかない、ムリな思い方をするからです。
     そのうえ、そうした手当も、とかく自分の常識や習慣にばかり従って、いっこうに改めようとせず、人からも注意されて、間違っていることが分かっていても、なお執着するからです。
     そこで大切なことは、いかにも平凡な言い方ですが、健康の保持や病気の手当について、できるだけ適確な理解を深めて常識や習慣を改めて、実際によく気をつけることです。
     が、それを、体具合を思いわずらうようになる場合をあげ、そこに青汁を飲む理解と心がけを活用して、考えてみると、こうです。

    神経過敏な体質で心理的にも過敏になる
     それはまず、ちょっとしたことでも病気にかかりやすい神経過敏な体質である場合ですが、ただそれだけではなく、それを、どうにもならない困った体質だとひとりぎめして、心理的にも過敏になる場合です。
     いうまでもないことですが生きたカラダは、たとえば気温が変わったときの様子をみれば分かるように、体内体外の多種多様な環境の変化を感受し反応して、必要な生理作用を営んで健康を保っています。
     体具合といい病気というのは、こうした反応作用の総称であって、内外の環境は良し悪しにつけ、たえず変化していくので、体具合もまた、たえず良し悪しにつけ変化していきます。
     そして、ふつう正常な体質であれば環境が少しぐらい変化しても体具合は、悪くなったと気づくほどには変化せず、多少は気づく程度に悪くなっても、しぜんと間もなく治ってくるので、別にそう手当をするほどの必要はありません。
     が、神経過敏な体質であると、たとえば湿疹のでやすい体質の場合をみれば分かるように、ごく僅かな変化悪化でも、人一倍強く感受するので、人にも気がつくほどに反応して症状があらわれ、それが治るまでには、それ相当の日にちがかかり、手当も必要です。
     そして、これはなんとも苦痛で厄介であり、日常の生活にも差し支えることがあります。
     が、体質が改善されない限り、同じことをくりかえすので、とかく心理的にも過敏になって、環境の僅かな変化悪化の度毎に、実際に病気にもかかり、また気病みもして、どちらが原因か結果か分からず、相互に作用しあうようになっています。

    心身ともに神経過敏になるのは
     では、どうして神経過敏な体質になったのか、というと、多少とも生まれつきの素質であるかも知れませんが、生来、平素の養生わけても食養生をおろそかにしており、よく気をつけているつもりでも、それが間違っており、栄養が著しく不完全であるからです。
     そこでこれは、まずもって毎日の食事を改めて完全栄養をはかり、また養生全般にも心がけていけば、それ相当に月日はかかるが、やがては改善されます。
     ところが、心身ともに神経過敏になる人は、そこをよく理解せず、もうどうにもならない困った体質だとひとりぎめして、体験者や専門家のすすめにも容易に心を開かないのです。
     多少は理解してきても、身につけている習慣や好みに執着して、いっこうに実行しません。
     そして、環境の僅かな変化にもビクビク気病みもし病気にもかかり、その度毎に医者通いをして、厄介なことだと人にもグチをこぼすのです。

    青汁を飲み始めると
     けれども、縁あって青汁を毎日飲み始めると、食事全般も改めて食養生に精出し、また養生全般にも心がけるようになるので、神経過敏な体質であっても、だんだんと改善されて神経が正常おだやかになって、環境が少々変化悪化しても、そう病気にはかからず、かかっても軽くて早く治るようになります。
     そして、この体験から、食養生をはじめ広く養生全般によりいっそう精出すと共に、もうそうめったにかからない、かかっても早く治せると自信もついてくるので、かかることも、それで思いわずらうことも少なくなります。

    (つづく)




08-09. 続・青汁を飲む心(5) 食事以外にも波及して

     友成 左近 

     体具合の思い煩いが 少なくなる(つづき)
     健康でありたいと思って体具合によく気をつけるのは、人々だれにも備わっている心のはたらきですが、ほかならぬ人間であれば、この心のはたらかせ方をあやまって、体具合を思いわずらうようになるのは、とうていまぬがれません。
     それはまず、まえにみたように、ちょっとしたことでも病気にかかりやすい神経過敏な体質である場合であり、それも、これはどうにも改善できない困った体質とひとりぎめして、心理的にも過敏になる場合です。

     安易に医療にたよって 自分は養生を怠る
     もうひとつは、神経過敏な体質である場合も同様ですが、別にそうではなくても、体具合が悪くなると、とかく安易に医療にばかりたよって、自分は養生を怠る場合です。
     いうまでもないことですが、体具合が悪くなったか、病気にかかったか、と気づいたときは、素人なりにも判断して、家庭常備薬を使ったり、そこは専門家の医師の診療をうけることが大切です。が、同時に、いな、そのまえに大切なことは、「クスリヤよりヤオヤへ」といわれているように、養生わけても食養生に心がけることです。
     ところがこのごろ、医療が一見すばらしい効果をあげているためか、医療制度が普及してきたためか、クスリの宣伝が巧妙であるためか、そして人々に、そこが的確に分別できないためか、依存心が強いためか、体具合が悪くなると、とかく安易にクスリをのみ、医師の診療をうけ、ただそればかりにたよって、自分は養生を怠る傾向が強くなっているようです。
     けれども、それではとうてい、思うようには健康は保っていけず、たえず病気にもかかり、容易に治りもせず、体具合を思いわずらうようになります。

     健康保持の土台は 養生で養なう体力
     いうまでもないことですが、生活環境には病気を引き起こす原因が各種各様数限りなく充満しています。が、生きたカラダは、そうした病因に抵抗して病気を防ぎ、そして病気にかかっても、なお抵抗して治していく抵抗力・治癒力といった体力を備えています。
     体具合が悪くなるのは、この体力に比べて強力な病因に出くわしたためか、体力が低下してきたためか、とにかくこの防衛が少しむずかしくなった場合であり、病気にかかるのは、防衛しきれなくなった場合です。そして病気が治りやすいか治りにくいか、ということも、病因に対する体力の優劣によってきまります。いずれにしても健康保持の土台・原動力は、めいめい備えている体力です。
     そこで、病気を予防もし治療もして健康を保っていくには、ひとつには環境の衛生が必要ですが、これを完全にすることは実際上不可能です。従って肝要なことは、少々強力な病因にも抵抗していけるように体力を強化することです。
     そしてそれには、ほかでもなく養生わけても食養生が必要ですが、これは、いろいろ人の世話にはなりますが、つまりは自分でしなければならないことがらです。あげて、人に代わってもらうことはできません。

     医療は補助的なもの 副作用も伴なう
     そして医療は、クスリにしろ手術にしろすべて、どんなに有効なものでも、この体力の強化や、この体力による病気の防衛や治癒を補助するだけのものであって、そこをとって代わるものではありません。
     それに、このごろクスリがすばらしい効果をあげているといっても、それは、ごく一部の細菌性の病気についてであって、大部分の病気、なかでも体力の低下が主な原因でかかる病気、わけても最近目立って多くなっている成人病については、まだなにほども開発されていないのです。症状だけは一時やわらげるものが、いくらか開発されていますが、病気そのものを治すわけではありません。
     しかもクスリは、もともと毒物であって、よく効くものほど副作用も強いので、使い方をあやまると、ますます悪化したり余病を引き起こしたりします。これは、医家用だけでなく、一般に市販されている治療薬についても同様です。
     また、これさえ飲めば健康が保たれ、食事は好きなようにできるかのように宣伝されている保健薬・栄養剤は、いうほどの効果どころか、なにほどの効果もないものばかりであり、使い方をあやまれば副作用さえあるものもあります。
     従って、医療にばかりたよって自分のカラダは、病気にかからないように、かかっても治ろうと、たえずホネおっているのに、その手助けを人だのみにして、カンジンな自分はいっこうに手をうたず、そのジャマまでしているわけです。

     医療にばかりたよると
     そこで、医療にばかりたよって自分は養生を怠っていては(つとめているつもりでも、それが間違っていると)、病気の予防はいうまでもなく、治療も思うようにはいきません。一応は治ってきても、もともと病にかかった素地はそのままつづいているので、またなかに病因にでくわすと、また病気にかかります。
     が、多くの場合、まえにうまく治っているので、面倒くさい養生につとめなくてもと、また安易に医療にたよりますが、自分は養生を怠っている限り、同じことのくりかえしです。
     となると、クスリはうまく効かなくなる場合が多いので、たよる医療では期待通りに治ってこないようになります。そのうえ、副作用で余病にかかることがあり、また多少とも神経過敏な体質になってくるので、なおいっそう度々病気にかかるようになります。
     そしてやがては、たよる医療がたよりがいなくなると共に、心理的にも過敏になって、どうしてこうしょっちゅう病気にかかるのか、どうしてうまく治ってこないのかと、人にもグチをこぼして、体具合を思いわずらうようになります。

     青汁を飲んでいると
     けれども、緑あって青汁を飲みはじめ飲みつづけていると、病気の予防にも治療にも、自分で食養生をはじめ広く養生全般に精出して、体力を強化するとが肝要である、ということがカラダにもアタマにもよく分かってきます。と共に、ときに、いな度々、これを怠って体具合が悪くなることがある、ということもわきまえてきます。
     そこで、体具合が悪くなったときには、まずもって養生に、心をいれかえて精出すので、多くの場合、ただそれだけで治ってきます。が、もし病気にかかっても、医療がうまく効いて早く治ってきます。
     そして、こうした体験を重ねていくうちに、ショウコリもなく養生を怠って、体具合が悪くなっても病気にかかっても、こうすればうまく治ってくると、その方法も心得、自信もついてくるので、あれこれと体具合を思いわずらうことは少なくなります。 (つづく)




08-10. 続・青汁を飲む心(6) 食事以外にも波及して

     友成 左近 

     仕事の思い煩いが少なくなる
     まえにみたように人々だれでも、健康を思って体具合にはよく気をつけるのですが、体具合はときに、いなたえず多少とも悪くなり、また病気にもかかり、ために思いわずらいもするのが実状です。
     それは、なにぶんナマミのことであり、それに、思うほどには、よく考えもせず気をつけもしないからであり、それをタナにもあげるからです。が、青汁を毎日飲んで食養生に精出していると、体具合が悪くなることも病気にかかることも、また、それがために思いわずらうことも少なくなります。
     ところで、体具合によく気をつけて健康をはかるのは、ただ病苦をまぬがれて快適を喜ぶためだけではなく、さらに重大なことは、職場や家庭その他で、仕事にも人づきあいにも精出して、無事仕合わせに、生活していくためです。そして、この仕事をはじめ生活各面も、体具合と同様に、よく気をつけるのですが、とうてい思うようにはいかず、ときに、いなたえず困難もし失敗もし、ために、あれこれと思いわずらうのが実状であって、これは、とかく体具合に及んできます。
     が、青汁を毎日飲んで食養生に精出していると、その理解と心がけがこういうことにも波及して、困難や失敗はともかく、それがために思いわずらうことも、それが体具合に及んでくることも少なくなります。であればお互い、そのわけも考えて、そこを積極的にすすめたいものですが、まず最初に、人生最大の課題である仕事について考えてみましょう。(なお、仕事には常に人づきあいが伴ない、その思いわずらいは互いに深く関連しますが、それは後項で)

     仕事で思い煩うのは
     人々だれでも生きている限り、職場や家庭その他で、いろいろな意味で仕事に精出しています。そうしなければ、経済的に無事仕合わせに生活していけないからであり、たとえその必要はなくても、社会的に淋しく、精神的に生きがいがなくなって、どうにも耐えきれないからです。
     そこで仕事には、できるだけ好調に首尾よくと、よく気をつけるのですが、たえず大なり小なり困難したり失敗するのは、実状とうていまぬがれません。そして人間「感情の動物」であれば、その度毎にナサケなくなりハラがたちイヤケがさし、とにかく不安になるのですが、これは、どうにも耐えがたいことです。ために、困難や失敗を、なにかほかのせいにして、人前や自分をとりつくろい、やがては、なにか口実をあげて仕事を逃げだしたくなるのです。
     が、そこを辛抱もし工夫もして、当面の仕事に取り組んでいくのが人生というものであって、これは、だれにも備わっている心のはたらきです。とはいっても、ほかならぬ人間であり、それに仕事には心身ともに苦労が大きいので、つい不安やイヤケといった感情にかられて、そこを度々あやまります。
     けれども、なにか口実をあげて、困難や失敗をとりつくろい、また仕事を逃げだしても、感情は一時おさまるかも知れませんが、仕事がうまくいくようになるわけではなく、逃げだしてしまうことはできません。ために、仕事はしなければならず、かといって、その苦労もさることながら、困難や失敗の不安やイヤケは耐えられないと、思いわずらうようになるわけです。

     病気を口実にして仕事を逃げだす
     ところで、この思いわずらいが体具合に及んでくるのは、とかく病気を口実にして逃げだすからです。病気を口実にするのは、仕事の困難や失敗にかまけて不安やイヤケがつのると、体具合が多少とも悪くなったように思われ、それを口実にしようとすれば、そうした振る舞いもするので、なおそう思われるからです。
     そして心因的に実際に悪くもなることがあり、人によってはヒステリックに本当に病気にかかることもあるからです。また、病気といえば、人には判断しがたく、そうだとすれば仕事はムリであり、ムリをさせると変化するので、それで仕事を休むことは公然と許されるからです。
     けれども、病気を口実にして逃げだしても、逃げだしてしまうことはできず、かといって好調に首尾よくいくようになるわけではないので、また困難や失敗にでくわして不安やイヤケが起こってきます。
     で、ここで心のはたらきを立て直さなければ、また病気を口実にして逃げだし、それをくりかえすようになります。となると、仕事の能力も低下するので、困難や失敗がますます多くなり、不安やイヤケも強くなり、また、とかくそれを予想して、たえず逃げだすようになります。
     そして、その度毎に病気を口実にし、病人らしく振る舞い、また人からも病人扱いされていると、やがては本当に病気にかかって苦しむようになります。そこで当然、医者通いはしますが、もともと口実にしていたことであれば、マトモな療養はしないので、とうていすっきりとは治ってきません。治ってきても、たたいてホコリをだすように、またあれこれと病気を引き起こします。が、当人は、とかくそこはタナにもあげ忘れもしてしまうので、こんなに医者通いまでして気をつけているのに、どうしてこう病気にかかるのか、どうしてすっきり治ってこないのかと、人にもグチをこぼして思いわずらうようになります。

     病気を治すことに心がうばわれて
     そして、ここで心を立て直さなければ、病気を完全に治してから仕事に精出そうと、そのことばかりに心がうばわれて、ついには仕事を逃げだしてしまって、ますますひどく思いわずらうようになります。
     もともと仕事で体具合を思いわずらうようになったのは、内心では仕事に精出さねばと思っているのですが、その困難や失敗の不安やイヤケにかまけて、病気を口実にして逃げだしたからであり、ために本当に病気にかかり、それが容易に治ってこないからです。
     で、病気を完全に治してから、と思うのは、トンだ思いちがいです。まず、病気が治ったかどうかは実状そうはっきりとはメドがつかず、もとの逃げ腰を改めない限り、治ったとは容易に思いません。また、人間ナマミであれば、病気を完全に治して体具合快調万点になろうとしてもそれは、不可能です。
     ために、病気を治すことばかりに心がうばわれていると、毛を吹いて疵を求めるように病気を引き出し、それも治そうと、ますます心がうばわれてきます。さらに重大なことは、病気を治して健康をはかるのは、つまりは、かけがえのない生命を大切にするためですが、ただそれだけにとどまるのではなく、健康のゆるす限り仕事に精出すためです。
     そして仕事は、病気が多少残っていても、けっこう精出すことができ、そうすれば、かえって早く治ってきます。従って、病気を完全に治してからと、そのことばかりに心がうばわれているのは、不可能なことを求め、また人生に大切なものごとの順序をあやまっているわけであり、そんなことに全精力を浪費しているわけです。ために、いつまでたっても仕事に精出すようにはなれず、やがては逃げだしてしまって、たえずあれこれと病気を引き起こし、それが容易に治らず、ますますひどく思いわずらうようになるわけです。

     青汁を毎日飲んでいると
     が、青汁を毎日飲んで食養生に精出していると、体具合がしごく快調になるので、それだけ仕事も好調になり、困難しても失敗しても、元気を出して取り組んでいくため、そうひどく不安やイヤケを感じることは少なくなります。感じても、体具合が悪くなったと思うことは少なく、思えば、よりいっそう食養生に精出すので、それで仕事を休むことは少なくなります。
     とはいっても仕事には困難や失敗はまぬがれず、不安やイヤケを感じて逃げだしたくなるのは人情です。が、青汁を毎日飲んでいると、その理解と心がけがそこへ波及して、病気を口実にして逃げだし、ために体具合を思いわずらうことは少なくなります。
     まず、青汁を毎日飲むのは、なにより大切な生命と健康に必要不可欠なもの、その最も重要な決め手と理解して、まずくて飲みずらくても、それは辛抱して、と心がけているからです。そこで、この生命を大切にするには、健康のゆるす限り仕事に精出さねばと理解すれば(というよりも、理解しているからこそ青汁を飲んでいるので)、そこで不安やイヤケを感じても、それは辛抱して、と心がけるようになります。
     そして、こう心がけるのは、食事の好き嫌いといった感情は容易に改めがたいので、それはそのまま感じながら、まずはもって生きたカラダの健康と栄養の理法に従って、と心がけているわけです。そこで、仕事の不安やイヤケといった感情も容易に改めがたいので、それはそのまま感じながら、仕事が人生で最も重要な課題であるという真実に従って、それには精出して取り組まねば、と心がけるようになります。
     もうひとつ、多くの人々が嫌って飲まない青汁を、あえて毎日飲んで食養生につとめている以上、そのてまえ、イジからでも、病気を口実にして仕事を逃げだすわけにはいきません。というと、いささかコジツケかも知れませんが、して、できることであり、すればまことに意義深いことです。であれば、縁あって青汁を飲みはじめ飲み続けているのを、これ幸い、その理解と心がけを、こういうふうにも活用したいものです。(つづく)




08-11. 続・青汁を飲む心(7) 食事以外にも波及して

     友成 左近 

    人づきあいの思い煩いが少なくなる
     まえにみたように仕事で思いわずらうのは、一方では、これには精出さねばと心がけているが、他方で、心身ともに苦労が最大であるうえに困難や失敗がつきまとい、その不安やイヤケは耐えがたいので、つい逃げだしたくなるからです。
     そして、この思いわずらいが体具合に及んで神経症や心身症になるのは、不安やイヤケに耐えかねて逃げだすとき、とかく病気を口実にするからです。

    仕事の思い煩いは人づきあいからも
     ところで、仕事で思いわずらうのは、ただ仕事だけについてでなく、それに伴なう人づきあいでも思いわずらうからであり、実状この方が主となっています。
     人間「社会的動物」であれば、職場であれ家庭であれ仕事は必ずだれかと協力しているので、そこには当然その仲間との人づきあいが伴ないます。
     そしてこれには、仕事とはケタちがいに非合理なところが多いので、どう工夫したらよいか容易に見当がつかず、仕事よりもはるかに困難や失敗が多く、また不安やイヤケも強く感じます。
     で、とくに職場で、仕事に困難もし失敗もして不安やイヤケを感じるのは、ただ仕事だけについてでなく、実はそれ以上に、仲間のみる目や言葉や態度についてです。
     また、この仲間との人づきあいに困難もし失敗もして不安やイヤケを感じると、とかく仕事にも困難や失敗が多くなって、ますます強く仕事にも人づきあいにも不安やイヤケを感じるようになります。

     こうしたことは職場以外でも同様であって、そこは辛抱もし工夫もして人づきあいにつとめなければならないのですが、ほかならぬ人間です。つい怠って、人づきあいを、従って仕事も逃げだしたくなるのですが、それ相当の事由がなければ、社会的にも内心的にも許されないので、あれこれ思いわずらうようになります。

     そこで、とかく病気を口実に逃げだすのですが、やがては体具合まで思いわずらうようになるのは、まえにみた通りです。(なお、人によっては逃げださずに、人の弱点をついて不安やイヤケをとりつくらったり、無関心をよそおったり、その他さまざまですが、それで思いわずらいが解消して、人づきあいも仕事も好調になるわけではありません)

    病気を口実にして人に同情を求める
     ところで人づきあいは、こうした仕事以外に、なお多面にわたっていますが、いずれにしても、不安やイヤケといった感情にかられて逃げだすと、病気を口実にしようと、どんな事由をあげようと、感情は一時おさまるかも知れませんが、反面なんとも孤独になります。また、逃げださずに辛抱していくのも孤独なことであって、これはどうにも耐えがたいことです。
     そこで、どうにかして孤独はまぬがれようと人に同情を求めるのですが、その口実が、とかく病気です。が、その成り行きは、逃げ出した場合と同様です。(なお人によっては、幼児が寝小便をしたり、青年が変な服装をしたり、というふうに様々ですが、それでうまく孤独がまぬがれるわけではありません)
     まず、孤独はどうにも耐えがたいというのは、だれしも内心最も強く求めていることは、職場その他で平素いっしょに仕事をしている仲間と、互いに無事な顔をあわせて仲よく仕事に精出すことであり、また仕事以外でも、縁あってつきあっている友人知人と、互いに安否をたずねて無事を喜ぶことであるからです。
     それはすなわち、つねにだれかと互いに、関心をもち同情をよせ世話をしあって、心がかよっていなければ、職業生活も日常生活もさることながら、それ以上に精神的に、どうにも耐えられないのです。
     そこで、とかく病気といって人に同情を求めるのですが、それは、孤独になると、自分のことばかりに、それもとかく体具合に注意が集中するので、毛をふいて疵を求めるように、あれこれと病気にかかっているように思われるからです。
     また、人が病気といえば、ふつうだれでも同情をよせるので、その人情に甘えたくなるからです。
     で、人に病気といって病人らしく振る舞えば、人は同情をよせてくれるので、孤独は一応まぬがれます。が、それに味を占めて度重ねていると、やがては人もそうそうかまってくれなくなります。
     となると、医者通いもして、おおげさに病人らしく振る舞うようになり、ついにはウソからマコトが出て本当に病気にかかってしまいます。
     けれども、人の同情にあまえる心を改めない限り、どんなに療養をしても、とうていすっきりとは治ってきません。また不安やイヤケを感じる度毎に、いな、それを予想する度毎に、ヒステリックに病気にかかります。
     が、当人は、とかくそこはタナにもあげ忘れもしてしまうので、どうしてこう病気にかかるのか、すっきり治ってこないのかと、人をもうらんで思いわずらうようになります。

    人づきあいの心がけをあやまるのは
     ところで、こうなるのはもともと、人づきあいの心がけをあやまっているからですが、ほかならぬ人間であれば、だれしも程度の差こそあれ、こうしたことはとうていまぬがれません。
     いうまでもなく人づきあいというのは、相互に関心をよせて同情もし世話もしあうことですが、それには、まず自分の方からそうつとめることが肝要です。
     ところが人間、生後長い間もっぱら両親その他周囲の人々の世話になって成長するので、人に同情を求める自分中心の心が根強く養なわれます。が、その間、だんだんと社会的精神的に成長するにつれて、自分の方から人に同情をよせていけば、人も同情をよせてくることを学習します。
     そしてそのうち、人づきあいは、まず自分の方から同情をよせ、それも別に相手からの同情をアテにせずによせると共に、人からの同情はありがたく感謝して受けいれていく性質のものであり、そうして初めて内心深くみたされるのだ、ということを自覚して、そう心がけるようになります。

     とはいっても、もともと根強い自分中心の心にうちかって、自分の方から人に同情をよせていくのは至難なことです。
     それに、人がなにを求め、なにが本当に必要なのか、そこを的確に理解して同情をよせるのは、なおさらに至難です。
     で、どんなに親しい間柄でも、互いに深く心が通うことは少ないので、人づきあいには、たえず互いに不行届や行き違いが起こります。
     ために、自分自身ナサケなく不安になり、また人にハラがたってイヤケがさし、つい逃げだしたり孤独になったりして思いわずらうようになります。

    青汁を毎日飲んでいると
     そこで人づきあいには、ここをよくわきまえて、困難もし、失敗もしても、不安やイヤケを感じても、そこは辛抱して、心を新たに工夫していかねばならないのですが、青汁を毎日飲んで食養生に精出していると、この辛抱や工夫に多少とも役立ってきます。
     というと、ムリなコジツケと思われるかも知れませんが、事実ときに、人がそうなっていることに気がつき、人にいわれて自分も気づき、また自分自身ふと気がつくことがあります。
     そこでお互い、そのわけも考えて、極力そうなるように心がけたいものです。

    •  それはまず第一に、体具合がしごく快調になり、生理的にも心理的にも神経がおだやかになるからです。従って、相互に不行届や行き違いがあっても、自分自身ナサケなく不安になることも、人にハラだたしくイヤケがさすことも、また、それにかられることも少なくなるわけです。
       それに、生きていくのに大切な健康を思って、まずくて飲みずらくても、それは辛抱しているので、同じく大切な人づきあいであれば、不安やイヤケを感じても、そこは辛抱して、と心がけるようになります。

    •  第二に、まえにみたような人づきあいの心がけを多少とも体験するからです。青汁を飲むようになったのは、体験者が親身にすすめてくれたからです。それも、すなおにはきかなかったのを、辛抱強くすすめてくれたからです。そこで、その人には感謝して、格別深い心のかよい方でつきあうようになっています。そうなっているから、習慣や好みや、社会の風潮に流されずに毎日飲みつづけているわけです。
       他方、こうして青汁を飲んで健康を喜ぶようになると、これを人にも同様にすすめます。そしてこれは、人づきあいに好個な話題であり、本当に親切なことです。だれしも程度の差こそあれ健康は気がかりであり、それに最も有効適切な同情をよせるわけであって、その人とも、また同様につきあうようになります。
       といって、どんなに親身にすすめても、心を開いてきいてくれる場合は少なく、よけいなオセッカイと敬遠されることもあります。人それぞれに習慣や好み、考えや流儀があるからであって、自分もまえに経験したことです。
       そこで、オイソレときいてくれなくても、なお親身にすすめ、それでもきいてくれなくても、ハラはたてずに、またの機会をまつように心がけます。

    •  第三に、とはいっても、ほかならぬ人間であれば、人づきあいに困難もし失敗もして、不安やイヤケにかられて逃げだしもし、孤独に苦しみもすることは度々です。
       そして、つい体具合が気がかりにもなります。けれども、それを人に訴えて同情を求めるようなことはつつしみ、専門家や体験者に相談して、よりいっそう食養生に精出すように心がけるので、体具合まで思いわずらうことは少なくなります。
    (つづく)




08-12. 続・青汁を飲む心(8) 食事以外にも波及して

     医学博士 遠藤 仁郎 

    生計の思い煩いが少なくなる
     縁あって青汁を飲み始め飲み続けていると、これまでみてきたように、その理解と心がけを波及して、まず食事全般を改めて食養生によりいっそう精出すと共に、広く養生全般にもマトモに心がけるようになって、ますます体具合が快調になります。
     それだけではなく、体具合が悪くなっても、病気にかかっても、それで思いわずらうことも少なくなります。
     また、さらに広く生活全般にも波及して、仕事にしても人づきあいにしても、困難や失敗はともかく、それで思いわずらうことも、それが体具合に及んでくることも少なくなります。
     ところで、無事仕合わせな生活を思って、よく気をつけてはいるが、そこをあやまって思いわずらうようになるのは、仕事や人づきあい以外に、なお多面にわたっていますが、そのうち、だれにも最も深刻なのは生計でしょう。それは、やむをえない事情でひどく貧乏している場合もさることながら、多くの場合こういうわけです。

    生計で思い煩うのは
     いかにも分かりきったことながら、無事仕合わせな生活には、まずもって衣食住その他で、あれこれとものごと(物資やサービス)が必要です。が、その欲求は、あれもほしいこれもほしいと、際限もなく拡がっていくのが実状です。
     人々だれでも社会的に生活しているので、所有欲・優越欲その他いろいろな向上欲を備え、隣りの花は赤くみえ、欲の袋に底がないからです。とくに最近は、各種各様の企業があれこれとものごとを、これなしには無事仕合わせな生活はできないかのように巧妙に宣伝しているからです。
     けれども、収入には限度があるので、人それぞれ程度の差こそあれ、あれこれとほしいものごとは、とうてい思うにまかせないのが、これまた実状です。
     そこで大切なことは、だれでも心がけているように、その不如意を動機にして収入をはかると共に、あれこれとほしいものごとの性質を考えて、ほどよく順序をつけて充足していくことです。が、ほかならぬにんげんであれば、つい欲求にかられて、この心がけをあやまることは、程度の差こそあれ、容易にまぬがれません。
     そして、それが度を越すと、欲求不満がつのって、人をうらやみもして生計の不如意をなげき、あれこれと思いわずらって不仕合わせを招き、それが体具合にも及んできます。
     それは、こういうしだいです。まず、あれこれとほしいものごとには、人によって様子は多少ちがいますが、無事仕合わせな生活に、実際本当に必要不可欠なもの(必要条件)、あれば、よりいっそう役立つもの(十分条件)、なくても別にそう差し支えはないものや、ないほうが実は具合がよいもの(無用条件)といった性質があります。
     そして欲求は、必要条件については、たとえば食塩や肌着などのように、ほどほどで満足しますが、十分条件や無条件については、たとえば外出着や観光旅行や賭事などのように、際限もなく拡がって容易に満足しない性質があります。
     従って、あれこれとほしいものごとは、企業の広告や商店街をみれば分かるように、その大部分は十分条件や無用条件のものであって、必要条件のものは意外と少ないのが実状です。
     そこで、あれこれとほしいものごとは、こうした性質をよく分別したうえ、収入にみあって、ほどよく順序をつけて充足していかないと、生計の不如意をなげいて思いわずらうようになるわけです。
     それだけではなく、とかく必要条件のものをおろそかにして、生活が根底から崩れるようにもなります。
     わけても、人にみえない食事をおろそかにして、病弱を招きます。それに、ただ不如意をなげくだけで、それを動機にして収入をはからなければ、なおさらです。ことによっては非行にはしらないとも限りません。

    青汁を毎日飲んでいると
     が、青汁を毎日飲んで食養生に精出していると、その理解と心がけがここにも波及して、生計で思いわずらうことが少なくなります。それは、こういう意味あいからです。
     まず、青汁を毎日飲むのは、ただいたずらに体具合を気づかったり、病弱をなげいたりするのではなく、病気療養や健康保持の最も重要な土台である栄養をはかるためです。
     それも、それに必要不可欠であり、その最も重要な決め手である青汁を、まずくて飲みずらくても辛抱して飲んでいるわけです。また食事全般についても、イモ・マメ・ナッパというふうに、ふつうは粗食として嫌われているものでも、栄養上の性質をよく考えて、そうしたものをこそ、つとめて食べるように心がけているわけです。
     そして、こういうふうに食養生に精出していると、事実本当に健康になるだけでなく、こうしたものが、けっこうおいしくなります(青汁は、あい変わらずまずいが、別にそう妨げにはならず、そのまずいところがえもいえず、というふうになります)。
     そして、ふつう人々がご馳走として好んでいるもの、それも高価なものが、食べれば、やはりおいしいが、別にそう食べたいとは思わなくなります。
     なかには、食べたくなくなり、嫌いにもなるものがいろいろあります。
     従って、食欲が毎日ほどよく満足するだけでなく、食事も少なくなるので、それだけ生計の不如意をなげくことが少なくなります。そして、こうした体験はおのずと生計全般にも波及してきますが、そこをひとつ積極的にすすめたら、あれこれとほしいものごとは、その性質をよく考えて、まずもって必要条件のものから順序をつけて充足していくようになります。
     従って、ほどほどの収入であれば、それ相応に無事仕合わせに生計していけるので、いたずらに生計の不如意をなげいて思いわずらうことは少なくなります。
     また、生計の不如意をなげくまえに、それを動機にして収入をはかるようにも心がけるので、なおさらに少なくなります。

    (つづく)




08-13. 続・青汁を飲む心(9) 食事以外にも波及して

     友成 左近 

    社会的地位の思い煩いが少なくなる
     青汁を毎日飲んで食養生に精出して、病気が治り、また健康がよりいっそう向上してくると、その体験が、しぜんと食事以外にも波及してくるので、それを生活各面に積極的に活用していくと、無事好調になるかどうかはともかく、思うようにいかなくても(というよりも、そうはいかないのが、実状ですが)、それで思いわずらうことは少なくなります。
     ところで、毎日生活していく間に、だれにも深刻に思いわずらうようになるのは、これまでみてきたように体具合をはじめ、仕事や人づきあい、それから生計についてですが、もう一面、同時に思いわずらうようになるのは、社会的な地位についてです。
     そしてこれは、他の側面と少し様子がちがって、あからさまには人にいいにくいので、内心それだけ痛切になります。

    地位で思い煩うのは
     人々だれでも生きている限り、あの人のようになりたいと、いろいろな意味で社会的に、地位の向上を思い求めます。
     それはいうまでもなく、人間「社会的動物」であって、終生、上位・下位、指導・追従、支配・服従といった社会関係のもとに生活していくからです。
     そして人々だれしも、程度の差こそあれ、支配欲・優越欲・名誉欲といった社会的な向上欲を備えており、そのうえ実状、より上位に就けば、生計に有利であり、また自由に振る舞えるからであり、隣りの花は赤くみえるからです。
     それに今日は、この社会関係が、かつてのように宿命的に固定しがちなものではなく、めいめい自由に変え改めることができ、その意欲も強くなっているからです。
     けれども、それには、健康・学識・容貌・経歴・家庭事情その他数々の個人的条件が(めぐりあっている社会的条件に関連して)必要です。
     が、それがあれこれと、人によって程度の差こそあれ、だれにも不足しているので、とうてい思うようにはいきません。
     そこで肝要なことは、それを動機にして個人的条件の向上に努力すると共に、それを最大限に活用して、いま縁あって就いている地位で、仕事にも人づきあいにも精出すことであって、いかにも分かりきったことで、だれでもそう心がけているわけです。
     とはいっても、ほかならぬ人間であれば、ついそこをあやまるので、欲求不満がつのって、人をうらやんでは、みずからなげいて思いわずらうようになり、それが体具合にも及んでくるわけです。
     ところで、そこをあやまる、というのは、だれでもよく耳にもし口にもしていることですが、その主要点はこうです。

         まず第一に、個人的条件は、みずから工夫もし努力もすれば、それ相応に向上するのですが、とかく安易について努力を怠り、しかもそれをタナにあげて、ただいたずらに地位の向上を思い求めることです。
         また、とはいっても、当人自身どうにも改めがたい面もあり、どんなに努力しても向上には限度があるので、そこはそれなりに活用することが大切であり、それ以外に打つ手はないのですが、そこを分別せずに、思ってもかなわぬ地位を思い求めることです。

         第二に、社会的地位は、いま縁あって就いている地位で、こうして向上に努力した個人的条件を最大限に活用して、仕事にも人づきあいにも精出しているうちに、他から迎えられ与えられる性質のものであり、そうして得られた地位に就いて、初めて本当に地位欲がみたされるのですが、そこをわきまえずに、とかく安易に、一足とびに地位の向上を思い求めることです。
         それはすなわち、より高い地位は、それだけ社会的に責任が重いので、それがはたせるだけの個人的条件が、社会的に認められて与えられるのですが、そこをわきまえずに、地位欲にばかりかりかられることです。

         第三に、人々だれでも内心強く思い求めるのは生きがいですが、これは、ただ地位の向上だけで得られるものではなく、個人的条件をそれがたとえ人並遠く及ばなくても最大限に活用して、仕事にも人づきあいにも精出しているうちに、しぜんと味わえるようになるのですが、そこをわきまえずに、ただいちずに地位の向上に生きがいを思い求めることです。

         第四に、地位欲に不満がつのってきたとき、それを動機に転用せず、ただいたずらに社会的条件の不遇や個人的条件の不足を数えあげ、人にも訴えて、そのはけ口にすることですが、それが体具合の思いわずらいに及んでくるのは、その不調をあげて不満のはけ口にするからです。

    青汁を毎日飲んでいると
     が、青汁を毎日飲んで食養生に精出していると、その体験がこういうことにも波及してくるので、それを積極的に活用していくと、こうしたあやまり方が少なくなりますが、それはこういう意味あいからです。

         第一に、多くの人々が嫌って飲まない青汁を、あえて毎日飲み、また食事全般も、栄養の理法をよく考えて、イモ・マメ・ナッパというふうに、ふつうは粗食として好まれないものでも食べて、食養生に精出していると、そうしない人より、はるかに順調に病気が治り、また健康がよりいっそう向上してきます。

         そこであらためて体験することは、思い求める健康の回復も向上し、それに必要なことは、回り道のようでも、日数がかかっても、イヤでも面倒でも、みずから努力して初めて得られるのだ、ということです。

         第三に、前記のようなしだいの青汁食養生に、みずから精出して得られた健康は、格別に嬉しいので、おのずと仕事にも人づきあいにも精出すようになって、それがたとえ人並遠く及ばなくても、あらたに深く生きがいを体験します。
         また、こうして健康を喜ぶようになると、この食養生を、まえに人がすすめてくれたように、自分も人にすすめて喜ばれるようになるので、ささやかながらも、人に役立つ生きがいを体験します。

         第四に、人々に風変わりといわれる食養生に精出し、人にもそれをすすめている手前、ヘンな言い方ですが、そうそう病気にかかるわけにはいかず、ましてや欲求不満のはけ口に体具合の不調をもってくるわけにはいきません。
         その他いろいろ体験しますが、それを社会的地位に活用すれば、その向上はともかく、その欲求不満で思いわずらうことも、それが体具合に及んでくることも少なくなります。
         というと、ムリなコジツケと思われるかも知れませんが、して、できることであり、すれば意義深いことです。
         であればお互い、縁あって青汁を飲み始め飲み続けているのを、これ幸い、つとめてそう心がけたいものです。
    (つづく)




08-14. 続・青汁を飲む心(10) 食事以外にも波及して

     友成 左近 

     強迫観念といった 思い煩いが少なくなる
      毎日生活していく間に、無事快調にと思って、よく気をつけながらも、ついそこをあやまって思いわずらうのは、これまでみてきた体具合や、仕事や人づきあいや、生計や地位のほか、なお他面にわたっていますが、最後にもうひとつとりあげてみたいのは、わけても感情についてです。
     毎日生活していくというのは、当面必要なものごとに対処していくことですが、人間「感情の動物」であれば、その原動力は、当のものごとについての感情的な考えであって、このはたらかせ方をあやまると、脅迫的な観念をいだいて思いわずらうようになり、それが体具合をはじめ生活各面に及んでくるからです。

     強迫観念というのは
     ここで脅迫的な観念をいだくというのは、たとえば電車に乗るのが恐ろしいというふうに、ある特定のものごとに、恐ろしいとか気味が悪い、たたりがあるとか邪魔になる、といった感情的な考えがアタマにこびりつくことであって、これは、毎日の生活にあれこれと妨げになります。
     そこで、他の人は別にそう感じてはいないように考え、また理由のないバカげたことと思って、打ち消そう打ち勝とうとしても、しつこくうかんできて、さいなまれることです。
     また、こうした典型的なものとは少しちがって、たとえば縁起かつぎのように、理由があるのかどうか、他の人が感じ考えているかどうか、別にそう深くは考えず、ただひたすらそれに従って、あれこれと生活の妨げになっても耐え忍んでいくことです。
     そして、そのものごとは人その人によって、犬、蛇、雷、けが人、不潔、高所、暗所、尖端、刃物、乗物、上役、異性、赤面、雑沓、雑音、雑念、日柄、方角など、数えあげたら限りがないほど各人各様です。
     従って、強迫観念が高じると、そのものごとによっては、仕事にも人づきあいにも、また日常の生活にも著しくさしさわるので、当人として耐えがたく心苦しく、そのはけ口を体具合の不調に求めて、心身ともに苦しむようにもなります。

     強迫観念をいだくのは
     ところで、およそ人々が脅迫的な観念をいだくようなものごとは、いずれも、だれでも毎日の生活で、それ相当な意味で(なかには全く無意味なものもありますが)よく気をつけねばならないことがらであり、事実よく気をつけていくのです。が、ほかならぬ人間であれば、ついそこをあやまって、強迫観念をいだくようになり、それが高じてもくるのであって、それはこういうしだいです。
     まず、そうしたものごとについては、だれでも、たとえば電車事故のように、直接でくわして、ひどいめにあったり、人がそんなめにあっているのを見たり聞いたりして、程度の差こそあれ、何度か恐怖その他の不快は感じています。
     けれども、出勤その他の用達しに、電車に乗らねばならないのであれば、恐ろしくても辛抱して乗る、というふうに、当面対処しなければならないことには、恐怖その他の不快を感じていても、そこは辛抱もし、よく気をつけもして対処していくのです。従ってそのうち、別にそう強くは感じないようになり、感じても、別にそう妨げにはならないようになるのです。
     が、この心のはたらかせ方をあやまると、つい不快感にかられて、電車には乗らないとか、どうしても乗らねばならないときは伴れを求める、というふうに、当面のものごとを逃げまわり、逃げきれないときは、人の同情にあまえて援助を求めることがあります。
     が、ここで人並に心を立て直さず、そんなことをくりかえしていると、不快感がますます強くなり、辛抱する力も気をつける工夫も身につかず、やがては不快感のとりこになり、生活に不自由して思いわずらうようになります。
     そして、人の同情にあまえるとき、とかく病気を口実にすることが多いのですが、それをくりかえしていると、人もそうそう相手にしてくれなくなるので、ヒステリックに発作を起こして、心身ともに苦しむようにもなります。
     また、人によっては、他の人は精神修養ができているので不快は感じないのだと、ひとり思いこんで、自分もなんぞ修養をしてからと、対処をあとまわしにすることがあります。
     が、たとえば水泳を考えれば分かるように、恐怖その他の不快感は、そのまま感じながら、とにかく辛抱して、当のものごとに実際に対処していく間に、しぜんと感じなくなり、感じても、妨げにはならないようになる性質のものです。
     従って、まず修養などして感じなくなったら、ということでは、いつまでたっても対処することはできず、かえってますます強くなるばかりです。が、他方では早く対処しなければと思っているので、ひとり心苦しく思いわずらうようになるわけです。
     もうひとつ、こうしたしだいと少しちがって、仕事や人づきあい、その他日常の生活で困難したり失敗したりしたとき、人によっては、なにか特定のものごとを縁起にかついで、自分自身や人前をとりつくらうことがあります。が、そんなことをくりかえしていると、やがでは、そのものごとに出くわす度毎に、恐怖その他の不快感が起こって、心苦しく、生活にも差し支えるようになります。
     その他、あれこれとものごとに恐怖その他の不快感をもつのは、よく気をつけて対処する安全弁なのだ、という理解をかいたり、また、ある特定のものごとにひどく不快感をもつようになったいきさつを、みずからマトモに反省しなかったり、あるいは、自分は他の人とちがって特別なのだと、人々の心に共通性があることを忘れて、人の助言に心を開かなかったり、というふうに、強迫観念をいだくようになるしだいは様々です。

     青汁を毎日飲んでいると
     が、青汁を毎日飲んで食養生に精出していると、ここにも活用できる好個な心がけを体験します。
     それは要約、まずくて飲みずらい青汁を、思い求める健康に必要であり、実状その決め手であればと、体験者のすすめに従って、とにかく辛抱して飲み始めたことです。そして本当に、健康になるにつれ、その意義の理解にもつとめて飲み続けているうちに、まずいことは相変らずまずいが、別にそう妨げにはならず、そのまずいところがえもいえず、というふうにもなって飲み続けていることです。
     と共に、さらに食事全般も、イモ・マメ・ナッパというふうに、好みにあわない嫌いなものでも、健康のためにはと、その意義の理解にもつとめて食べ始め食べ続けているうちに、それがけっこうおいしくもなって、よりいっそうの健康を喜んでいることです。
     そこで、こうした体験を積極的に活用すれば、毎日生活していく間に、あれこれとものごとに恐怖その他の不快を感じても、それが無事快調な生活に必要なことであれば、そうした感情は辛抱して対処していくので、それで生活に不自由して思いわずらうようになることは少なくなります。
     また、すでにあるものごとに強迫観念をいだいていても、心を開いて人に見聞し、そうなったいきさつも反省して、人並同様に、不快は感じながらも、とにかく辛抱して対するようになるので、やがては解消してきます。 (つづく)




08-15. 続・青汁を飲む心(11) 生活各面に波及して

     友成 左近 


    前記を要約すると
     これまで長々と、毎号紙面を幅広くけがして、以前とは少し趣きのちがったことにもわたって駄文をものしてきましたが、要約すると、こうです。縁あって青汁を飲み始め飲みつづけて、意外と順調に病気が治り、また健康が向上してくると、その体験から分かってくる青汁の理解と心がけが波及して、まず食事全般を改めて食養生によりいっそう精出し、また広く養生全般にもつとめるようになって、なおいっそう順調に病気が治り、健康が向上してきます。
     そしてこの体験から、さらに深く分かってくる青汁食養生の理解と心がけは、しぜんと食事以外にも波及してくるので、それを積極的に生活各面に活用していくと、心身共に、よりいっそう健康になります。
     それはまず、ほかならぬ人間であり、それにナマミのことであれば、ときに、いな、たびたび体具合が悪くなり、また病気にもかかりますが、そんなときは、必要に応じて医療をうけると共に、食養生をはじめ養生全般によりいっそう気をつけて、有効適切に療養するので、それで体具合を思いわずらうことも、それが生活各面に及んでくることも少なくなります。また、仕事や人づきあいや、生計や社会的地位といった生活各面も、多少は無事快調にいくようになりますが、思うようにいかなくても(というよりも実状そうはいかないのですが)それで思いわずらうことも、それが体具合に及んでくることも少なくなります。
     さらに、心、わけても感情が、多少ともおだやかになってきますが、毎日の生活で恐怖その他の不快を感じても(というよりも感じるのが正常ですが)それで強迫的な観念をいだいて思いわずらうことも、それが体具合や生活各面に及んでくることも少なくなります。

    心身ともに健康な生活の基本的な心がけ
     ところで、こういうことに駄文をものしてみたのは、遠藤先生をはじめ、青汁食養生に精出している方々と話し合っていると、しぜんと話がこういうことにも及んでくるからです。そしてそれは、お互いシンソコからの念願は、心身共に健康に、毎日仕事をはじめ生活各面に精が出ることであり、青汁食養生に精出していると、その体験からわかってくる心がけが、しぜんとそこへ波及してくるからであり、積極的に活用していくのに好個な心がけであるからです。
     というのは、人間「心身一如」であって、その健康は互いに因となり果となり「健康な精神は健康な身体に宿る」からです。そして人間「一個の生活統一体」であって、いずれかある面での体験はしぜんと各面に及んでくるからです。そして青汁食養生は、身体の健康に最も重要な決め手であって、他のどんな養生にもまして、その効果が確実であるからです。
     が、これは人々ふつうの習慣や好みにあわず、何とも風変わりで、まずいものであり、だれでも食事の習慣や好みには、他のどんなことがらにもまして格別強く執着します。そこで、あえてこの青汁食養生に精出していると体験する心がけを、生活各面に積極的に活用していけば、他のどんな面からにもまして、心身ともに健康に、毎日精出して生活していくようになるわけです。
     が、これまでみてきたのは、生活のごく主要な側面についてであり、それもその主要点をかいまみた程度です。そこで、さらに多面にわたり、さらに詳しいことは、いずれ後日ということにして、ここでは、青汁食養生に精出していると体験する心がけ、そして生活各面に活用したい心がけのうち、ごく基本的なものをいくつかあげて、ひとまずおわりにしましょう。

    打開的に実行していく
     まず第一に、最も重要な心がけは、前向きに打開的に実行していくことです。いうまでもなく生活というのは、だれでも生きている限り備えている、生きていきたいという意欲が原動力になって、衣食住をはじめ各種各様の生活活動を実際に行なっていくことです。
     そしてこの生活活動は、自然的社会的な環境のもとで行なわれ、その拠りどころは習慣や、それが心理的に着色した好みです。ところで、この習慣や好みは、めいめい生来、めぐりあった環境のもとで各種各様の生活活動を実際に行なっているうちに、環境についての理解や感情を学習し、それに根ざして身につけてきたものです。が、いったん身についてくると、それで毎日の生活は、しごく簡便に、一応ことなくすごしているので、そんなことは殆んど全く意識しない自分自身といった性質をもってきて、これには強く執着します。
     けれども、この理解や感情には、多かれ少なかれ、不十分なところや間違ったところがあるので、習慣や好み通りの生活活動では、必ずしも常に的確に、環境に適応していけるとは限らず、毎日の生活に多少ともことかぎます。それに、生活環境はたえず移り変わっていくので、少しでも大きな変化があると、なおさらことかいで、あれこれと生活に困難して心身共に健康に生活していけなくなります。
     そこで大切なことは、平素もさることながら、とくに困難したときは、習慣や好みに従いながらも前向きに、どうしたら的確に適応していけるかと打開的に、当面そこで必要な生活活動を実際に行なっていくことです。そして、そのあとを反省し総括して、理解や感情を補正して習慣や好みを改めることです。
     もともと習慣や好みは、その根ざす環境の理解や感情と共に、こうして身につけてきたので、こうすれば、しぜんと改まってくるものであり、こうする以外に改める方途はないのです。
     従って他面、こうするために大切なことは、生活に困難したとき、ただいちずに習慣や好み通りにと固執しないこと、ましてや、あれこれ口実をあげ、わけても病気を口実にして、当面しなければならない仕事や人づきあい、その他の生活活動を逃げだしたり、人にあまえて同情や援助を求めたりしないことです。それで気は一時すむかも知れませんが、困難は少しも打開できず、かえってますます大きくなって、あれこれ思いわずらい、それが体具合に及んできて、本当に病気にもかかるようになるからです。(つづく)




08-16. 続・青汁を飲む心(12) 生活各面に波及して

     友成 左近 


    心身共に健康な生活の基本的な心がけ(つづき)

     縁あって青汁を飲み始め飲み続けていると、その間に体験する青汁食養生の理解や心がけが、しぜんと生活各面に波及してきますが、これは積極的に活用して、心身共に健康に、毎日精出して生活していくのに好個な心がけです。

     その第一は、これが最も重要なのですが、まえにみたように、平素もさることながら、とくに生活に困難したときには、ただいたずらに習慣や好みに執着せず、それに従いながらも前向きに、打開的に、当面そこで必要な生活活動を実際に行なっていくこと、そして、そのあとを反省し総括することです。

    体験者の親身なすすめはすなおにきく
     第二に、こういうふうに実行していくときに大切な心がけは、まず自分でよく考えたうえ、親しい人に相談すること、そして、とくに体験者の親身なすすめはすなおにきくことです。自分でよく考える、というのは、放送や新聞、雑誌や専門書、あるいは友人知人に見聞したことを参考にするが、つまりは自分自身で、どうしたら生活の困難が打開できるか、その実状に即して考えることです。が、これがまず大切なのは、生活には個人差が著しいので、どんなに見聞をひろめても、自分でよく考えなければ、困難の問題点も打開の手がかりも的確につかめず、実行していく意欲も起こってこないからであり、人に相談しても、先方としては的確な相談にのれないからです。
     人に、それも親しい人に相談するのは、どんなに自分でよく考えても、自分の習慣や好みのカラからぬけだして、困難打開の手がかりに考えつくのは容易でないのですが、「岡目八目」で、親しい人であれば、意外と的確な手がかりに考えつく場合が多く、親身に相談にのってくれるからです。であれば、別に相談しなくても親しい人から注意されたときは、ありがたく、こころよく耳を傾けることが大切です。
     自分のことは自分で気がつかない場合が意外と多く、親しい人であれば、それに早く気がつくことが多いからです。ところで、人に相談するのは、困難打開の手がかりを考えてもらうためですが、そこで大切なことは、その実状と自分の考えたことを、ありのままに伝えると共に、先方の考えてくれることをよくきいて、いっしょに考えて、自分に最も必要で、必ず実行できる手がかりを考えだすことです。
     であれば、とくに親しい体験者が親身に考えて、すすめてくれることは、すなおにきくこと、そして自分でよく考えなおして、必ず実行することが大切です。といって、これは実状そう容易なことではありません。人々だれでも、自分の習慣や好み、それが根ざしているものごとの理解や感情には、強く執着するからであり、それにそわないことには、なんとも不快や不安を感じるからです。

    自分の感情にこだわらず感じるままに感じながら
     そこで第三に大切な心がけは、こういうふうに自分で考え、また人に相談し、そして実行するとき、自分の好き嫌いや不安や恐怖といった感情にこだわって、あれこれと選り好みしないこと、といって、それを感じないようにと、始末をつけようともせず、感じるままに感じながら、とにかくことにあたることです。
     人間「感情の動物」であれば、なにごとにつけ、とかく自分の感情が先立ち、それにこだわって選り好みをします。
     が、生活の困難はもともと、この感情と、これに根ざしている習慣や好みが、生活環境という客観的な事実に即応していないからであって、それでは困難はいっこうに打開できず、かえってますます大きくなるばかりです。といって、この感情もまた、当人には主観的な事実であって、感じないようにと、意志的に理知的に始末しようとしても、とうてい始末しつくせるものではなく、かえってますます強く感じるようになります。
     けれども、考えることも相談することも、ましてや実行することは、主として意志や理知に基づくことであって、あれこれ感じながらも、して、できることであり、だれでもこの意志と理知を備えています。そこで大切なことは、好き嫌いや不安や恐怖といった感情は、感じるままに感じながら、とにかく当面必要なものごとにあたっていくこと、わけても今しなければならない生活活動を実行することです。
     そうすれば、はじめはなんとも耐えがたいようであっても、やがてはそう強くは感じないようになり、感じても、実生活には別にそう妨げにはならないようになります。感情というものは本来そうした性質のものなのです。

    自分の理解にこだわらず体験者のすすめに従って
     と共に第四に大切な心がけは、自分の理解にこだわらずに、体験者のすすめには、そのわけがよく分からなくても、とにかくきき従って実行することです。
     人間「理知の動物」というのは、他の動物では、環境に適応していく本能や習性が生得的に極めて強力に完備していますが、人間では、これが至って微弱である反面、動物とは比較できないほど高度に理知が発達しているからです。
     といって、これは(感情も同様に)生得的には可能性であって、生後長い間、両親その他周囲の人々と養育その他の社会生活を営んで、だんだんと発達し、その間に生活環境の理解をひろめ、それに根ざして習慣を身につけるのです。が、いったん身につくと、感情の場合と同様に、自分で考えるときも人に相談するときも、とかく自分の理解のワクで取捨選択するようになります。が、生活の困難はもともと、この理解が生活環境の事実に即応していないからであって、それでは困難はいっこうに打開できません。そこで大切なことは、とくに体験者の親身なすすめは、そのわけがよく分からなくても、たとえ疑いを抱いても、とにかくそれに従って実行していくことです。
     親身な人が体験したことであれば、個人差はあっても、実状そう大きな間違いはなく実行していけるからであり、そうすれば、いな、そうして初めて的確な理解が新たに身について、これまでの理解が補足修正されるのです。

    自分の生活は自分もちで
     もうひとつ最後に、こういうふうに実行していくとき、自分の生活は自分もちで、ということです。
     人間「社会的動物」であれば、各種各様の社会関係のもとで生活しており、実状、生活活動の殆んどすべては人々の世話になっています。
     が、それはごく一面ずつについてであって、それを選択もし補足もして総括して、一個の人間として生活していくのは、当人自身であって、それはだれにも代わってもらうことはできません。そしてその結果も、つまりは自分自身で負わねばならず、だれにも代わってもらうことはできません。
     昔から「イノチとベントウは自分もち」といわれている通りです。であれば、実行にあたって、人に相談し、とくに体験者のすすめにはすなおにきき従って、といっても、もし予期しなかった結果を招いても、人のせいにしてはなりません。また、自分が体験したことは人に親切にすすめることが大切ですが、こころよくきいてくれなくても、またの機会を待って、常に必ず先方の自主的な選択を尊重しなければなりません。

    (おわり)




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