健康と青汁タイトル小
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04-01 142号 食養生についての断想(12) 心身ともに健やかに
04-02 143号 食養生についての断想(13) 主として子供の養育について
04-03 144号 食養生についての断想(14) 有害食品時代に処して
04-04 145号 食養生についての断想(15) 主として食品の優劣について
04-05 147号 食養生についての断想(16) 主として妊婦の責任について
04-06 148号 食養生についての断想(17) 主として保健薬について
04-07 149号 食養生についての断想(18) 主として塩と砂糖について
04-08 151号 食養生についての断想(19) 主として油と酢について
04-09 152号 食養生についての断想(20) 主としてダシについて
04-10 153号 食養生についての断想(21) 主として食事の自主性について
04-11 155号 食養生についての断想(22) 主として主婦の食事責任について
04-12 157号 食養生についての断想(23) 主として種々の食養法について
04-13 158号 食養生についての断想(24) 主として栄養の知識と食養生の知恵について
04-14 159号 食養生についての断想(25) 主として時候の変わり目と病気について
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04-01. 食養生についての断想(12) 心身ともに健やかに

     食べ物に好き嫌いがはげしく、毎日の食物に間違いが著しい人は、体が丈夫でないだけでなく、心も、どこか、はればれとしていないようだ。
     毎日せっせと青汁を飲み、さらに、だんだんと食物を改めていくと、必ず丈夫になる。とともに、おのずから心もおだやかになり、ヤタラとハラがたたなくなる。そして、毎日はればれと仕事に精が出る。
     しょっちゅうあちこち体具合が悪いといって、うかぬ顔をしているのに、どんなに青汁をすすめ、また食改善をすすめても、なんとかかんとかいって、いっこうに聞き入れようとしない人がいる。別に体具合が悪いこと、うかぬ心をたのしんでいるわけではあるまい。じめじめとした頑固な心にわざわいされて、人のすすめがすなおに聞けないのであろう。
     毎日の食物を改め、わけても、せっせと青汁を飲んでいると、必ず、だんだんと体が丈夫になる。これは、科学的にも十分解明されている、人の体の自然の事実であって、これに従った人々が、等しく身をもって実証しているところである。
     たとえ、そのわけがよく分からなくてもよい、疑いながらでもよい、とにかく、心を開いて、すなおに従わねばならないことがらであって、どんな事由をつけようとも、これに従わなければ、とうてい体は丈夫になれないのだ。
     とにかく毎日せっせと青汁を飲み、さらに、だんだんと食物を改めていくと、おのずから体が丈夫になり、心もおだやかに、はればれとしてくる。とともに、自然の事実に、心を開いて、すなおに従う知恵が養なわれてくる。とりわけ青汁は、とくに初めの間は、なんともまずく飲みずらいだけに、みずからわがままに打ちかって、この知恵が深く体験されるようだ。
     毎日せっせと青汁を飲み、さらに広く食改善につとめて、だんだん心身ともに健やかになってくると、おのずから接する人の健康を気づかい、欲得なしに青汁をすすめ、食改善をすすめて親切をつくすようになる。
     そして、いよいよ食改善に精出して、ますます心身ともに健やかになり、いよいよもって青汁キチガイとなる。欲得なしに人に親切をつくしていると、おのずから心ゆたかに健やかとなる。これは、人の世の心の真実であって、青汁キチガイどもは、ささやかながらも、これを体験しているようだ。
     いったい、神経病や心身症にかかって、別に体に、これといった異状はないのに、さも異状があるかのように、ヤタラと気やみしたり、また、そのあげく、いよいよ異状が起こってくるのは、もともと、平素の食べ方に間違いが多く、栄養状態が悪く、体のあちこちが神経過敏となっているからである。
     そして、正しい上手な健康法に理解と信念を欠ぎ、いたずらに、あれこれと健康に気を使うからだ。その上、自分のことばかり考えて、いっこうに他人のことには気を配らず、人の親切なすすめに、ありがたく耳を傾けず、人に親切をつくす心のゆとりがないからである。
     すなわち、わがままというか、なにか自分の考えにこだわる頑固なところがあり、これを打ち破って、人の体の自然の事実にも、人の世の心の真実にも、すなおに従わないからだ。
     そして、それが自分によく分かっていないのである。

     (付記)この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生がたえずお話しになっていること、それに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。




04-02. 食養生についての断想(13) 主として子供の養育について

     子供のしつけのうち、最も重要なことは、まずもって正しく食べるように、どんぴしゃり、青野菜・青汁を好んで沢山食べるようにしつけることだ。しんから丈夫になり、毎度の食事がたのしく、おのずから身も心もはずんでくる。こうならなければ、どんなしつけも、とうてい、うまくいかない。


     子供を丈夫に育てよう。しっかり食べさせようとつとめていない親はない。だが、実際は、意外とピントはずれ、間違ったことをしている場合が少なくない。その主要点は、菓子と砂糖が多すぎること、ごはんをヤタラと沢山食べさせること、青野菜が少なすぎること、そして既製の加工食品を使いすぎることだ。

     この子は特異体質で、といって、しょっちゅう子供をつれて医者通いをしている親がある。なぜ、もっと本気になって正しい食べ方をしつけないのであろうか。間違った食べ方をさせていては、いくら医者通いをしても、ほんの一時おさえであり、そのうち、ちょっとやそっとの医療ではとうてい治らない、ほんものの特異体質になってしまう。

     この子はこれこれの体質で、といって、なにかあきらめているような親がある。確かに体質には、遺伝的素質といったところがあり、これは、どうにも改めがたい。
     だが、人々めいめい現に備えている体質は、この素質を土台としながらも、胎児の間から長い間の養育、とりわけ食養によって、だんだんと作りあげられたものであり、従ってまた、食養を改めたら、それ相応に改善できる。
     成長期であればあるほど、その可能性が高いのだ。それに、こうして作りあげられる体質であるから、いったい遺伝的素質がどの範囲のものか、実は容易につかめないのだ。
     こんな、つかみどころのないものを、とやかくいって、体質の改善を怠り、あきらめることなく、養育とりわけ食養によって改善できることに着目して、そこに、新たに工夫し努力することが肝要である。

     子供だけに青汁をのませて丈夫に育てようとしても、それは、いささか見当ちがいであり、ムリというものだ。

     いったい子供の体が弱いのは、ひとつには、親の食べ方が間違っているからであり、よくない食習慣が身についたためである。まずもって親みずから青汁をのみ、さらに食物全体を改めて、これに見習わせなければならない。
     でないと、たとえ子供が青汁をのみ始めても、とかくクスリと考え、病気の間だけとなり、体具合がよくなると、やがてはやめてしまい、とうてい、よい食習慣が身につかず、本当に丈夫にはなれない。

     好きなご馳走をタラフク食べ、マルマルふとっていて、なおムショウに食べたがる、といった慢性的飢餓状態に陥っている子供がある。おもしろくもない試験勉強にかりたてられているからでもあろうが、もっと重大なことは、体が本当に要求している青野菜をロクに与えず、もうそうほしくはないご馳走ぜめの上、なおヤタラと甘いお菓子を与えてキゲンをとるからだ。

     かつては、医者の子は病気で死なず薬で死ぬ、といわれていた。この頃は、医者の子だけではなくなっている。だれでも容易に薬が手にはいるからだ。それも、素人判断では危い薬までもだ。それに、マスコミを通じて、これさえのめばと、盛んにのめのめと宣伝されている。ために、マトモな食養を怠って安易に薬をのませ、また、さして病気でもないのに薬をのませて、かえって病弱に育てている。
     そして、また薬をのませ、ますます病弱にして、生命をちぢめているのだ。
     「クスリヤよりヤオヤ」に走って、まずもって青野菜をしっかり食べさせることが養育の土台なのだ。

     (付記)この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生がくりかえしお話しになっていること、それに学んで参会者が自ら体験して話しだしたことどもです。(友成)




04-03. 食養生についての断想(14) 有害食品時代に処して

     健康の根本は、安全な食物で完全栄養をはかることにある。
     だが、この筋道を理解することは、まことにむつかしく、たとえ理解しても、そう改善することはよりいっそうむつかしい。
     それは、ひとつには、食習慣というもの、わけても好きなものを好きな通りに食べたい、というこだわりが、たとえどんなに間違っていても、なんともしつこいからであり、いまひとつには、食品の生産と供給がほとんどすべて、人々の真の健康よりも、とかく営利を優先して行なわれているからであろう。

     * 


     この頃、ガン・高血圧その他の成人病について、早期発見・早期治療が強調され、その対策が講じられている。
     まことにありがたく、けっこうなことであるが、さらに、その予防法を普及徹底してくれたら、もっとありがたい。
     いわゆる科学的研究ではまだ断定しかねる点が多いのかも知れないが、ほぼ推定できること決して少なくないと思われるのであるが。
     この食物については、「疑わしきは罰す」でなければならないはずだ。

     * 


     この頃は、まさに殺人食時代だ、と言っては、言いすぎであろうか。
     ほとんどすべての食品が、原材料からして、有害有毒な農薬や工場廃出物によって汚染されており、いよいよ多量に出廻っている加工食品には、有害有毒な添加料が加わっている。
     だが、これは、決して不可抗的な天災ではなく、他に一定の目的をもって、人々の行なっていることである。広く社会的・政治的に運動を起こし、その危険を強調して、安全食品に改めねばならない。

     * 


     原材料に残っている農薬といい、加工食品に含まれている添加料といい、一つ一つの食品については、ごく微量である。
     けれども、ほとんどすべての食品に含まれているので、毎日食べこむ総量はかなりのものとなる。
     といって、これとて、すぐ目に見えては、さして有毒作用は起さず、さしあたって、どうこういうことはない。
     だが、どんなに微量でも、毒は毒であって、僅かながらも有毒作用をしている。
     そして、これが毎日つみ重ねられていく間に、目に見える中毒を引き起こす。
     これが、この頃目立ってふえてきた成人病の主たる原因の一つである、と思われる。

     * 


     健康な人は、なにを食べても、おいしく食べられる、といわれている。
     だが、この頃の食料事情では、なんでもおいしく食べていくわけにはいかない。
     有害有毒な農薬や添加料のはいっているものが、まことに多いからだ。
     これを判別するアタマと目・鼻・舌を養って、うまく選別して食べないと、やがては健康を損なう。
     といって、これは、決してそう容易なことではない。

     * 


     ビンづめ・カンづめその他の加工食品に、どんな添加料がはいっているか、レッテルを隅から隅まで虫めがねで調べてみると分かる。
     だが「人工○○料添加」というふうに、はっきり書いてあるのは、ごく僅かであり、いわば良心的なものだ。
     なにも書いてないものは、どんなものが、どれくらいはいっているか、皆目見当がつかず、これがクセものである。

     * 


     戦前は、ほんの僅かでもサッカリンのはいっているものは、だれでも、舌先にピリッときたものだ。
     だが、この頃は、ほとんどすべての人々は、舌も鼻も目もいたくマヒしているので、添加料の有無・多少が容易に判別できない。
     けれども、それ相当、年月かけて、自然の純正食品だけを食べていると、ある程度まで判別できるようになる。

     * 

     既製の加工食品が、どれを食べても、いっこうにピリッと舌先にこず、なんともイヤな後味が残らないような人は、あたかも杖を失なった盲目のようなものだ。

     * 


     われわれは旅行するとき車中、飲食物に不便を感じる。駅売りの食べ物・飲み物の大部分が、舌先にピリッとくるし、食べた後味がなんともイヤだからだ。
     それに、生の青野菜が全くついておらず、どうにも食事をした気持が起こらないからだ。
     だが、この不便な感じは健康を守る杖と喜び、自家特製の弁当を持参するか、せいぜい、お茶や牛乳や南京豆などでことをすます。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返し強調されていること、それに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。
    (友成)




04-04. 食養生についての断想(15) 主として食品の優劣について

     友成 左近 

     われわれが、毎日毎度、いろいろな食品を取り合わせて食べるのは、見た目に変化をつけ、香りや味を好みにそって配合することも、さることながら、その根本は、完全栄養をはかるため、すなわち生きて働く体が必要とする各種の栄養を、必要なだけ十分とり、その間に過不足がないように、うまく調和をはかるためである。
     それは、いうまでもなく、どんな食品でも、ただ1種類で、栄養上うまく調和したものはなく、それそれ成分にかたよりがあるからだ。
     どんなに優れた食品でも、ただ1種類で、栄養が完全に調和したものはない。
     ただそれだけ食べて、栄養と健康が十分保てる、といったもの、ただこれだけは、どんなに沢山食べても、別に栄養と健康に障害が起こらない、といったものは、ひとつもない。
     乳児に最も優れた母乳でも、ミネラルの一部が不足しており、ただ母乳だけで育てていると、たとえ十二分にのませていても、半年もすれば、栄養失調を起こし、貧血をおこし、イジも悪くなる。
     健康に美容に、また食事療養に、よく、あれがよい、これがよい、といわれる。そう宣伝して盛んに売り出している食品もある。
     だが、それは、毎日めいめい実際に食べている食物全体について、栄養上うまく調和をはかるのに、他のあるものに比べて都合がよい、という意味である。
     例えば、白米に比べて小麦粉が、小麦粉に比べてイモが、砂糖に比べて蜂蜜が、肉魚に比べて卵が、卵に比べて大豆が、リンゴに比べてミカンが、といった具合だ。
     どこまでも相対的に優れているのであって、別に決して、これだけ食べれば大丈夫、これならいくら食べても差し支えない、といった絶対的な意味ではない。
     どんなに優れた食品でも、ただそれだけで完全栄養となるものはない。また、どんなに優れた食品を、あれこれ取り合わせても、ただ一つ青野菜を加えなければ、とうてい完全栄養とはならない。
     けれども、どんな食品でも、青野菜をそれ相当量加えたら、ただそれだけで、一応、完全栄養となる。
     だからこそ、青汁にしてまでして、青野菜を十二分にとろうとしているのだ。従ってまた、青野菜が十二分にとれないときは、これが少なくても、よりいっそう完全栄養がはかれるような食品を、あれこれ取り合わせて食べることが大切なのだ。
     イモ・マメ・ナッパという試み、これに牛乳、小魚を加える試みは、ここから生まれたものである。
     それ相当量、青汁を飲んでいても、さらに毎日の食物全体を改めたら、よりいっそう健康となる。
     熱量食品としては、白米を、だんだんと小麦粉や雑穀粉に、さらにサツマイモやジャガイモにかえたらよい。
     蛋白食品としては、魚や肉の切り身を、だんだんと小魚や内臓に、あるいは卵に、さらに大豆にかえたらよい。
     調整食品としては、白い野菜や果物を、できるだけ黄色のものに、さらに緑色の濃いものにかえることだ。
     その他、菓子や砂糖や酒や食塩は極力ひかえ、つとめて乳を沢山のむことだ。
     栄養上どんなに優れた食品、例えば牛乳でも、度はずれて沢山とっていると、やはり牛乳病といった障害が起こる。
     だが、完全清浄に栽培したケールその他の無害無毒の青野菜で作った青汁は、どんなに沢山とっても、別に障害は起こらないようだ。
     それどころか、現代の医療でお手あげになったような病気でも、毎日、6合以上のみ、これ以外いっさいの食物を断っていると、すなわち青汁断食をしていると、数日で快方に向ってくることがある。
     だが、人間の胃腸能力には限度があるので、牛のように、ただ青野菜・青汁だけでは、十分労働できる健康体は保持していけないようだ。
     (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返し強調されていること、それに学んで、参会者が自ら体験して話し出したことどもです。(友成)




04-05. 食養生についての断想(16) 主として妊婦の責任について

     人々だれでも、毎日の食物に、みずから責任をとって、細心の注意を払わなければならないが、とくに婦人は、さらに二重の意味で深い責任がある。それは、一家の台所を受持っているからであり。また子供を生んで育てるからである。
     人々だれでも、心身ともに健やかであることが、なにより大切であるが、それには子供の間に心身ともに健やかに育てられることが重要である。さらに肝要なことは、生まれたとき五体健全であるだけでなく、成長するにつれて障害が現われてくるような素地をもっていない、シンから心身ともに健やかな子供として生まれることである。

     心身ともに健やかな子供が生まれるかどうかは、両親の遺伝的素質にも深い関係はあるが、妊婦の健康と栄養に極めて深い関係がある。そしてこれは、社会的な生活環境にも深い関係はあるが、当人個人が、みずから責任をもって保持しなければならないことがらである。
     また、生まれた子供は、もし心身になにか障害があれば、その幸福のために、医師その他が直接協力してくれるが、胎児の間は、妊婦ただ一人が直接責任を負うているのだ。まことに妊婦の責任は、人間尊重の根源に培って、極めて重大である。

     奇形児とか精薄児といった心身になにか障害のある子供が生まれて育った場合、これまでとかく家の血統や職業や、なにかのたたりのせいにしていた。
     だが、科学的研究が進歩するにつれて、それは、両親の遺伝的素質にも関係はあるが、極めて多くの場合、母親が妊娠中、著しく栄養不良であったり、あるいは梅毒や風疹といった病気にかかったり、食物や医薬その他で有毒物をとったり、病気の診療その他で放射能に当たったため、ということがだんだんわかってきた。それも、胎児の体の各部分ができそろう妊婦初期2〜3ヶ月の間にそうしたことがあると、心身障害児が生まれる割合が多くなることが分かってきたのだ。

     まことにいたましいことながら、戦時中の俘虜収容所では、心身障害児の生まれる割合が多かった。それは、不可抗的に食物全体が著しく少なく、また一部に偏っていたため、栄養総量が極度に不足し、また不調和であったからだ。
     動物実験によれば、熱量や蛋白質はそれ相当量とっていても、ミネラルやビタミンの一部が著しく不足していると、奇形児が生まれる。
     人間については、こんな実験は許されないが、無脳症といった子供をつづけて二人も生んだ母親が、医師の指導で、これまで著しく不足していたカルシウム・燐・鉄・銅その他のミネラルを十二分にとり、さらに栄養の調和と完全をはかったところ、三人目は心身ともに健やかな子供が生まれた、という実例がある。

     人々だれでも、とりわけ貧困でない限り、熱量と蛋白質がそう不足することはない。けれども、貧富にかかわらず、とかく不足するのは、カルシウムその他ある種のミネラルと各種のビタミンである。
     米・麦・砂糖・芋・油や大豆・魚・肉・卵などは好んで食べても、野菜・果物、とりわけ各種のミネラルとビタミンが、他のどんな食物にもまして、ケタちがいに多い青野菜は、とかく嫌って、なにほども食べないからだ。
     であれば、とくに妊婦は、心身ともに健やかな子供を生むため、つとめて沢山青野菜を食べること、結婚前から、青野菜を好んで沢山食べるように習慣づけることが肝要である。

     この頃どことも毎日の食物に、市販の加工食品、ことにインスタント食品をいよいよ多量に使っている。だがそれには、ほとんどすべて、多かれ少なかれ、防腐剤・甘味剤・着色料・香料その他の添加物がはいっており、これは、もともと有害有毒物なのである。
     ために、たとえ母体にこれといった障害が起こらなくても、胎児にはいろいろと障害を引き起こす。これはすでに動物実験で証明ずみであり、人間についても実例は少なくない。
     であれば、とくに妊婦はできるだけ市販の加工食品は食べないように心がけること、結婚前から、つとめて純正食品ばかり食べて、加工食品が舌にピリッときて、大嫌いになるように、マトモな判別力を養なっておくことが肝要である。

     中性洗剤を台所に使うのは極めて危険であることは、すでに度々報道されているのに、あいも変わらず、これで食物や食器を洗っている人が少なくない。たとえ母体に障害が起こらなくても、胎児には極めて危険である。これも動物実験で証明ずみであり、ヤタラと洗剤を使って清潔に心がけていた人が、ついに奇形児を生み、これをやめたら、健全児が生まれたという実例もある。
     であれば、とくに妊婦は、なんのために洗うのか、その目的を正しく理解して、わざわざ有毒物をしみこませるような洗い方はしないことが肝要である。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返し強調されていること、それに学んで、参会者が自ら体験して話し出したことどもです。(友成)





04-06. 食養生についての断想(17) 主として保健薬について

     この頃、病気の治療に予防に、また、よりいっそうの健康をはかるためにと、いろいろな保健薬を服用している人が極めて多い。はたして期待通りに効果が現われているのだろうか。
     お気の毒ながら、巧妙な宣伝で、効くと思いこまされた心理的な効果はあっても、生理的・実際的な効果はあまり期待できない。それどころか、厄介なことが起こる場合もあるのだ。


     この頃の保健薬は殆んどすべて、ビタミンB1とかCとかアミノ酸といった栄養剤である。
     栄養上これが不足すると障害が起こると、化学的に究明された、あれこれの成分を化学的に合成したもの、それを配合したものである。
     だが、栄養はすべて、毎日の食物でとりいれるのが本筋である。
     この食物に好き嫌いをいい、また横着をして、不足してきた成分を栄養剤で補なおうとするのは、一見いかにも賢明そうではあるが、実は、とんだ筋ちがいであり、それで効果を期待するのは、ムリというものであり、まことに愚かなことだ。

     体具合がおかしくなるのは、この頃は殆んどすべて、毎日の食物にひどい間違いがあるからだ。白米飯や砂糖や菓子、切り身の魚や肉などを食べすぎ、野菜ことに青野菜はなにほども食べないからだ。
     ために、カルシウムその他ある種のミネラルと各種のビタミンがひどく不足して、栄養に著しい不調和をきたしているからだ。その上、危険な食物、わけても市販の加工食品・インスタント食品を重宝して、ヤタラと有害有毒物を食べこんでいるからだ。

     有名タレントをあやつって巧妙に宣伝している保健薬も、クスリである以上、当局は、なになに病に有効であるという博士先生方の実証に基づいて、その発売宣伝を認可しているのだ。
     だが、どういうわけか、マカ不思議なことに、この実証が、本当に正しい科学的検証に裏づけられているものは殆んどないのだ。

     いろいろある保健薬のなかには、確かに多くの人々の食物で不足している成分の栄養剤もあるが、別に不足はしていない成分や、体内で合成されて十分間にあっているような成分の栄養剤まである。
     さらに、栄養剤として服用しても、胃腸で分解して無効となるようなものまでもあるのだ。

     健康の土台である栄養に肝要なことは、既知未知すべての栄養成分を必要なだけ十分とり、うまく調和を保つことである。けれども保健薬メーカーは、別に不足はしていない成分までも、これが不足しているから、これが不足していてはと、巧妙に宣伝して、ヤタラと必要以上にとらせ、多ければ多いほど効き目が高く、副作用は少しもないと、盛んに売り込んでいる。
     だが、正しい科学的研究によれば、栄養剤で必要以上にとりすぎると、栄養に新たにひどい不調和を引き起こして、意外な副作用をすることがある。
     ビタミンA・Dといった脂溶性のものだけでなく、B1などといった水溶性のものでもだ。
     たとえていえば、機材に油が必要であるからといって、余分にさしすぎると、付近にとんだ支障が起るようなものだ。
     けれども、自然の食物である青野菜・青汁は、既知未知すべての栄養成分がうまく調和しているので、胃腸が耐える限り、どんなに多量にとっても、別に少しも副作用は起こらない。
     ますます効き目が高く、青汁を毎日カップ15杯、もとの青野菜にして3〜4kgとって、糖尿病を併発していた肺結核患者が、両方とも治ったという実例もあるのだ。

     保健薬が効くのは、多くの場合、その実際的効果よりも心理的効果のせいである。
     ために、これを服用し重宝していると、いろいろ厄介なことを引き起こす。
     ムダに金を使ったり、思わぬ副作用を引き起こしたり、といったことだけではない。
     別にそう体具合は悪くないのに、さも悪いかのような錯覚を起こし、あげくに心理的な保健薬中毒に陥ってしまう。
     また、なにか厄介な病気があるとき、それほど効きもしない保健薬で治るように、治ってきたかのように思っている間に、必要な治療を忘れて、その病気が意外と進行する。
     さらに重大なことに、いたずらに保健薬にたよって、健康と栄養の土台である毎日の食物の改善を怠っている間に、病気にかかる素地が、根強く広がって、保健薬の心理的効果ではどうにもならない体となってしまう。

     この頃盛んに宣伝して売り込まれる保健薬は、たいして効きもせず、また厄介なことも引き起こすものばかりである。
     なぜ当局は、その発売・宣伝を許しているのであろうか。なぜ博士先生方は、その効果に提灯をかかげているのであろうか。なぜタレントたちは、その宣伝に顔とことばをかしているのであろうか。なぜその有効・無効・副作用の公正な科学的研究成果が、新聞雑誌その他で広く発表されないのであろうか。それはおそらく、ひたすら営利を追求している製薬メーカーのカネとニラミのせいではあるまいか。と共に、極めて多くの人々が、健康と栄養と食物について、あまりにも無知であるからではあるまいか。





04-07. 食養生についての断想(18) 主として塩と砂糖について

     健康と栄養の土台である毎日の食物を改善するにあたって、調味料をうっかりしていることがある。
     ために、毎日せっせと青汁を飲み、さらに食物全体もあれこれと改善につとめているのに、どうもすっきりと体具合がよくならない、という場合がある。

     * 


     うまいも・まずいも塩かげん、といわれている通り、塩は調味に重宝である。
     また、食物の貯蔵にも好都合である。
     だからといって、舌先にまかせて取りすぎると、胃炎・腎臓炎・高血圧その他厄介な病気を引き起こし、また、早老の原因ともなる。
     であれば、健康の保持にも病気の治療にもできれば食塩はとらないほうが望ましく、とるとしても、いろいろ工夫して、つとめてひかえ目にすることだ。
     それは、いうまでもなく、醤油・味噌・ソースその他の調味料や、漬け物・佃煮・塩物なども含めてだ。
     それに、この頃の調味料は、昔ながらの醸造品は少なく、合成品が多く、調味上からも栄養上からも著しく劣り、その上、防腐剤・甘味剤・着色剤・香料などまではいっているので、有害無益といってもよいくらいだ。

     * 


     生きた体に塩分が必要不可欠であることは、科学的な事実である。
     だが、それは日に約3gであって、別に食塩で補なうほどの必要はない。
     すべて食物には、自然のままで塩分が含まれており、毎日食べる食物全体で、ほぼ3g程度はまかなえるからだ。
     それは、自然の動物はいうに及ばず、放牧中の家畜でも厩舎の家畜でも、別に食塩は与えなくても健全である通りだ。
     といって、熱量や労働その他で、ひどく汗をかいたり、あるいは食あたりその他で、あげたりさげたりしたときは、ほどほどに食塩で補なう必要がある。

     * 


     栄養基準量では、食塩は日に13gとなっている。だがこれは、栄養上これだけはとれ、という意味ではなく、調味上これくらいは使っているので、という意味での、食料行政上の数量である。

     * 


     青野菜は、カリウムが多いため、ナトリウムの不足を引き起こすので、それ相応に食塩を加える必要がある、といわれている。だが、これは片手おちの見方であって、調味上の必要はあっても、栄養上の必要はない。でなければ、青草ばかり食べて、別にナトリウム不足症を引き起こさない動物について、どうにも説明ができない。

     * 


     この頃、うまい・あまいの区別がつかないのか、料理にしろ飲み物にしろ、おいしくしようと、ヤタラと砂糖を、それも白砂糖を使う人が極めて多い。
     また、健康にも病気の治療にもよくないからと、つとめて菓子はひかえているのに、調味には、あい変わらず砂糖を使っている人もある。
     だが砂糖は、健康と栄養には、害こそあれ益は少しもない。
     風邪・便秘・冷え症・ムシ歯から疲労・肩こり神経痛その他すべての病気の原因となる。
     だからといって、サッカリン・シュガリンその他の甘味料を代用したり、これまで加えてダラ甘くするのは、全くもって危険千万。であれば、どうしても使わずにすませないなら、中白以下の粗糖や純粋の蜂蜜や飴を、それも、いろいろ工夫して、つとめて少な目に使うことだ。

     * 


     生きた体に糖分が必要不可であることは、科学的な事実である。だが、これは別に砂糖の糖ではなく、米・麦・芋その他の食物も、体内にはいれば、砂糖と同様に、糖分に変わるのだ。そして実状、糖分は必要以上にとりすぎている場合が多く、これが生きた体の力に変わるとき、必要不可欠なミネラルとビタミンが著しく不足しており、白砂糖には、こうした成分は全くないのだ。

     * 


     疲れたときに甘いもの、といって、砂糖湯を飲んで元気をつける人が少くない。確かにひどくくたびれたときには、効き目がある。それは、体内で糖分が一時欠乏しているからであり、砂糖は早く消化吸収して、糖分に変わるからだ。だが、それは、一時的なカラ元気であって、間もなく、さらにひどくくたびれてくる。絶えずこんなことをくりかえしていると、やがては体がダメになる。本格的なスポーツマンはみな、砂糖も菓子も厳禁なのだ。

     * 


     砂糖の消費量は文化生活のバロメーターである、といわれている。だがこれは、砂糖を多量に使うのが文化的な生活である、という意味ではなく、文化的な生活はとかく砂糖を多量に使う、という意味だ。そして砂糖の消費量は多病短命のバロメーターとなっているのだ。文化生活の必要条件と随伴現象とを見分けて、砂糖会社の巧妙な宣伝に迷わないことが肝要である。

     * 


     調味に塩や砂糖や、その他の調味料を使うのは、自然の食物が備えている本来の味わいを、うまく引きたてるためである。
     だがこの頃は、ひいきのひきたおしで、食物本来の味わいまで抹殺するほど、濃厚に味つけしている場合が少なくない。
     それは、ひとつには、人間の味覚は、動物とちがって、とくに塩と砂糖には容易に幻惑され、それが習慣化するからである。
     であれば、とくに乳幼児には、砂糖も塩も極力与えないようにして、しゃんとした味覚を養なうことが肝要である。
     また、いいかげん味覚の狂っている成人も、そこはアタマを働かせて極力うす味につとめ、食物本来の味わいが本当に分かる、マトモな味覚を取りもどしたいものである。
     なにより大切な健康のために、そして、本当に毎日おいしく食べるために。





04-08. 食養生についての断想(19) 主として油と酢について

     友成 左近 

     青汁教室に、「グリーンサラダ」とよんでいる自慢の料理がある。
     ほどよく冷やした生の青野菜を、食べる直前に食卓にはこび、ほどほどに手でちぎって皿にもり、まず生の油をかけ、つぎに塩をごく少量ふりかけ、この塩をよくとかすように酢をかけ、さらに好みによって、生タマネギ・ニンニク・ショウガなどのみじん切りや、コショウといった香辛料をほどほどに加え、箸で簡単にまぜて調味し、ハッパがピンとはっている間に、よくかんで食べるのだ。
     グリーンサラダは青野菜の最も正しい上手な食べ方であり、しかも、これは、むした芋や煮た大豆といっしょに食べて、まことによく合う。イモ・マメ・ナッパがうまいのは、このためである。また、これはパンにもよく合い、薄く切ったパンに、食卓でめいめい、これをタップリはさんで食べると、まことにうまい。教室では、これを即席「グリーンサンド」とよんで、自慢料理のひとつにしている。だが、これは白米飯にはどうもうまく合わない。ために、グリーンサラダを好んで食べていると、だんだんと白米飯は食べなくなる。これがまた、教室料理のねらいのひとつだ。
     
     油は、調味料として重宝であるだけでなく、栄養的にも重要である。脂肪分として必要不可欠であると共に、青野菜その他に含まれているビタミンAの吸収を促進するからだ。といって、この油には、ゴマ油・ナタネ油・ダイズ油といった液状の植物油が最も望ましく、この生なら、少々多量にとっても別に差し障わりは起こらない。だが、たとえ植物油でもマーガリンのように固形化したものや、バター・ラード・ヘッドといった動物油は、ほどほどにしないと差し障わりが起こる。とくに中年以後の人や高血圧の人は、できるだけ液状の植物油にすることが大切である。
     同じく油・脂肪といっても、動物性とりわけ陸棲のものは、血管内壁のコレステロールを高めるが、植物性のものは、これを逆に低めるからだ。アメリカでは、ここ十数年間に、動物性油の消費量が急速に減少し、逆に植物性油が増加しているそうである。
     使い古した油で調理すると、味が悪くなるだけでなく、胃腸の具合がおかしくなり、ムカムカしたり、サゲたりすることがある。油は、日光や空気にさらされると酸化して変質し、これに熱が加わると、さらに変質がはげしくなり、胃腸をひどく刺激する毒物も生じるからだ。このため、グリーンサラダには必ず生の新しい油を使うのであり、人の話によれば、著名なレストランやホテルでは、一度使った油は、二度と使わずに売り払う由。さて、この油の行方はどうなのか。
     油は、日光や空気にふれないように、保管に気をつけることが大切である。テンプラやフライなどには、必要最少量の油を使い、一度使ったら、必ず別の容器に入れて、まだ使っていない生の油とまぜないことが肝要である。そして、あげもの、いためもの、その他で早く使ってしまうことだ。何度も使って使い古した油に、新しい油を足し加えて、あげものをするのは愚かなことだ。
     この頃の油は殆んどすべて、いろいろな化学薬品を使って精製したものばかりである。ために、見た目も美しく、口ざわりもよいが、精度が高くなると、それだけ、もともとあった大切な成分がなくなってくる。また、どんなことで、危険な薬品が残っているかも知れない。であれば、調味に油の原材料を使うことは、まことにけっこうである。ゴマはそのよい例であり、よくすりつぶしたイリゴマは大いに活用したいものだ。
     
     スッパイものが好きな子は丈夫に育つ、妊婦はおのずからスッパイものを好む、といわれているように、酢は、調味料として重宝であるだけでなく、栄養上からも重要である。生きた体の熱量発生に、ビタミンBと共に必要不可欠であり、また、カルシウムの作用を促進して、体液の酸性化を防ぎ、疲労の回復に役立つからだ。酢はスッパイので、体液を酸性化するのではないかと思う人があるかも知れないが、心配無用である。食酢でも果物の酸味でも、体内にはいればアルカリ性となるのだ。
     体液を酸性化するのは、主として、米や肉などに多量に含まれているリンであり、また、熱量代謝で、ビタミン不足その他によって生じる焦性ブドウ酸その他の酸性中間産物である。そして、これを防止するのが青野菜であり、これに格別多量に含まれている良質カルシウムである。この頃の酢は殆んどすべて、錯酸を主原料とした化学的合成品である。ために、昔ながらの醸造酢とちがって、調味料としても、また栄養上からも著しく劣り、さらに体液内のカルシウム作用を促進するかどうかも疑問である。それに、殆んどすべて、甘味剤・着色剤などが添加されており、これは体に有害である。であれば、昔ながらの醸造酢・米酢を使うこと、また季節によっては、ダイダイその他の果物を使うのが賢明である。値段は少しはるが、消費は知れたものだ。
     
     マヨネーズは、卵の黄味と、油と酢と塩を主材料としたものであり、調味に重宝である。グリーンサラダに、油と酢と塩を主材料としたフレンチドレッシングよりも、マヨネーズの方を好む人も少なくない。だが、ふつう市販のものは、どんな油や酢を使っているか分からないし、それに、変質を防ぐために、どんな安定剤を加えているか、またさらに、どんな添加物がはいっているかも分からない。であれば、これは、できるだけ家庭で、良質な材料をえらび、安全で、しかも好みに合ったものを作ることが大切である。これを平素使っていると、ふつう市販のものを使った料理は、食べて、なんとも後味が悪い。
     マヨネーズの代わりに、昔ながらの酢みそを使うことも大いにけっこうである。みそは、大豆を主原料としたものであり、卵黄と同様に、蛋白質と油が多量に含まれているからだ。だが、みそは塩気がきついので、そこは、よく気をつけねばならない。また、この頃のみそには、大豆の少ないもの、防腐剤・甘味剤その他危険な添加物のはいっているものが多いので、そこは、よく吟味することが大切である。
     (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返し強調されていること、それに学んで、参会者が自ら体験して話し出したことどもです。(友成)




04-09. 食養生についての断想(20) 主としてダシについて

     この頃よく「おふくろの味」ということばをきく。
     主として中年以上の人が、子供のころ母の作ってくれた料理の味をなつかしんでいることばである。さて、このころ育っている子供は、中年以上になったとき、はたしてどういうふうに、おふくろの味をなつかしむであろうか。

     旅をたのしむ人々に、この頃よく、どこへ行っても似たような料理が出るし、それがまた似たような味であると、なんとも淋しがる人が少なくない。
     それは、食料の促成・抑制栽培や、貯蔵・加工や輸送・流通の著しい発達に伴なって、どこでも、いつでも同じ食料が手に入るからであり、また、地方特有の食料が軽視されてきたからであり、さらに、調味料とりわけ化学調味料の普及によって、調理とりわけ調味の仕方がどことも平均化してきたからであろう。

     料理とりわけ煮物・汁物の味わいは、材料の種類や質やその取り合わせ方と共に、調理の仕方とりわけ調味料の使い方できまることは、いうまでもないが、この調味料のうち、目にはよく見えないダシの使い方に深い関係がある。おふくろの味には、このダシの使い方に独特の知恵があり、料理の名人には、これに秘法があるようだ。

     これまでわが国では、ダシといえば主として、だしいりこ・こんぶ・かつおぶし・とりのガラ・さかなのアラなどが使われ、料理によって、うまく取り合わせ、使いわけていた。ところがこの頃は、こうした原材料からダシをとることがだんだんすたれて、化学調味料の使用に傾いてきたようである。それは、ひとつには調理に手数を省くためであろうが、ために料理に、豊な深い、そしてまろやかな個性のある味わいが少なくなり、また栄養上からも著しく劣ってくることを、決して忘れてはならない。

     これまで使われてきたダシの原材料には、この頃ふつうに食べている食物に少ない、各種のミネラルとビタミンと、良質の蛋白質が多量に含まれており、これは、完全栄養をはかるために必要不可欠なものだ。
     戦時中、外地のある捕虜収容所で、日本人はとりの肉を食べ、捕虜は骨でスープを作って食べていたところ、日本人より捕虜の方が栄養状態がよくなった、という話があるほどだ。この頃は、いろいろな化学調味料が発売されているが、かつては「味の素」ただひとつであった。これは、こんぶの味ともいわれ、小麦・大豆・糖蜜などを醗酵させ分解して取り出したグルタミン酸ナトリウムであり、日本人が発明し日本人が企業化して成功した代表的な商品である。
     この頃、「旭味」「日東味の精」その他の商品名で発売されているものも、このグルタミン酸ナトリウムである。また「ハイミー」「ミタス」その他の商品名で発売されているものも、これを主成分とし、さらに、かつおぶしの味とよぶイノシン酸ナトリウムや、とりガラの味とよぶクエン酸ナトリウムや、しいたけの味とよぶグアニル酸ナトリウムその他を、いろいろ配合したものである。
     「味の素」といえば、かつては極めて高価品であり、そう広くは使われていなかったが、この頃の化学調味料はすべて、別にそう高価品ではなく、どことも広く使われている。それは、化学技術の急速な発達によって、かつてのように小麦・大豆その他の、供給に限りがある植物性物質ではなく、石油精製の途中に出る、安価でいくらでも安定して供給される副産物を原料として製造するようになったからだ。

     けれども、こうして製造したものも、化学的に構造が同じであるから、調味にも変わりはなく、また有害でもないそうである。だが、はたしてそうであるか、また、製造工程で使った有害物が残存しているようなことは起こらないか、何十年かたってみなければ、今のところ、なんともいえないことだけは、一応アタマに入れておく必要はあろう。
     この頃はさらに、化学調味料やダシの原材料を使って作ったという「ダシのもと」といった、宣伝ではまことに重宝なインスタント調味料も発売されている。
     だが、はたして本当にうまい味つけができるのか、もっと重大なことに、変質防止・味・色・香その他に、どんな危険な添加物がはいっているか、とくと吟味して使用の可否をきめる必要がある。この頃よく、台所で、また食卓でヤタラと化学調味料を使っている人を見かける。だが、はたしてそれだけ味がよくなっているのであろうか。多くの場合、ただそう思って習慣的になっているためであり、事実、化学調味料は、一定量の使用で調味効果の限度に達し、それ以上は、いくら使ってもムダなのだ。また、別に使わなくても、たいして味わいに変わりのないことも少なくないのだ。
     それは、いうまでもなく、化学調味料は、もともと食物がしぜんに備えている数限りない味のもとのうち、ほんのごく一部を科学的に製造したものであり、本当の味わいは、数限りない味のもとが相互に作用し合って生じるものであり、ただ一種か数種の化学調味料を加えても、そうはうまくいくものではないからだ。
     いったい、調味とりわけダシの使い方は、食物がしぜん備えている味わいを引き立てることが本筋であり、その上、栄養によりいっそうの完全をはかることが望ましく、決して有害化してはならない、ということはいうまでもない。
     であれば、いたずらに化学調味料にたよることなく、古来の知恵にならって、少々手数はかかっても、ダシの原材料をあれこれと、それもよく吟味して、正しく上手に使うことが賢明である。そして、その味わいが本当に分かる健康なからだと、しゃんとしたマトモな味覚を養うことが肝要である。
     と共に、本当によい味を備えている食料をえらぶことも決して忘れてはならない。だが、この頃の食料には、栽培・飼育その他に手数を省いて、いたずらに増産をはかるためか、昔ながらの味わいを備えているものが少なくなっているようで、これはなんとも残念である。




04-10. 食養生についての断想(21) 主として食事の自主性について

     この頃は、極めて高度に分業化した時代であり、貨幣経済の社会である。
     こと食料についても同様、その生産も流通も、数限りない業者によって行なわれ、農家においても、自給する食料はごく僅かである。
     ために、食料はいろとりどりと豊かに提供されて、食事はまことに便利であり、カネさえ十分あれば、何不自由はない。
     だが、それに万事まかせきって、はたしてことはすむものであろうか。
     食欲はしんそこ十二分にみたされ、栄養と健康に間違いは起こらないであろうか。
     断じてそうはいかない。なにを、どう食べるか、めいめい自主的に、全体的総合的に判断して対処し、ことを誤らないようにしなければならないのだ。

     この頃は、カネがものをいう経済至上の世の中であり、企業が優先する利潤追求の社会である。こと食料についても同様、ただもう儲けようとのみ考えて、これを作り、これを売っており、これを買い、これを消費して生活する人々の栄養と健康については、まんざら考えないことはないのであろうが、二のつぎだ。
     いかにも、人々の栄養と健康に役立つように、うまいことをいっていても、まんざらうそばかりではあるまいが、まずもっと売るため、いな買わせて儲けるための方便である。
     よっぽどマユにツバつけて、自主的に対処しないと、それを消費して生活する一人一人の栄養と健康には、全責任をもたない業者にふりまわされてしまい、その利潤のギセイとなる。
     この頃の食料生産は、原材料にしろ、また、いよいよ多様化し、増加している加工食品にしろ、量産と、見た目のよさや口先のうまさと、日もちや輸送の便が第一義とされ、そうした食料ばかりが生産され、また化学肥料と農薬が多量に使われ、さらに不必要な加工までされている。
     ために、栄養価の劣ったものばかりが出まわり、また、その本来の味も低下し、さらに、多かれ少なかれ有害有毒化さえしている。
     この頃、人々は、まるで食料業者に飼いならされた家畜のようなものだ。
     けれども動物は、栄養成分に優れたものや有害有毒物を、うまく判別する強力な本能・好みを備えており、少々飼いならしても、これは、そうは容易に無力化もせず、変わりもしない。
     だが、あわれなことに人間は、この本能が極めて微力であり、その好みは飼育によって容易に変わってくるので、巧みに業者に飼いならされる。
     けれども、人体の生理と栄養は、自然の事実であって、そうはうまく変わってこないので、必然的に病弱を招く。
     個々の業者が提供する食料の一つ一つは、それ相応に、人々の栄養に必要なものである。といって、なかには、巧みに飼いならされた好みにはそっていても、栄養上およそ無意味なものもある。
     だが、一個の人間が健康に生きていくためには、各種各様の食料が必要であり、どんなものを、どう取り合わせて食べるかは、当人が自主的に、全体的綜合的に判断し対処しなければならないのだ。
     業者としては、そこまで責任はもっていない。料理店とりわけ定食業者にしても、そうなのだ。やはり売らんがために、人々の栄養よりも好みに重点をおいている。
     この頃の食料は殆んどすべて、原材料にしろ加工品にしろ、多かれ少なかれ有害有毒化している。といって、一つ一つについては、国の定めた安全規準もあって、それほど危険ではなく、一応は安全である。
     なかには、業者の無知か不注意か、なにかの事故で、ときに著しく有害有毒化しているものもある。
     だが、人々はめいめい、各種各様の食料を取り合わせて食べるので、一つ一つの食料に、一応は安全である程度に、ごく微量ふくまれている有害有毒物が集積してくるため、毎日食べこむ総量は相当な量となり、その上、これが相乗的に作用して、健康を損なうようになるのだ。
     であれば、自分の生命を健康に保っていくには、一つ一つの食料の安全度を確かめ、全体的綜合的に判断して、できるだけの安全食につとめなければならない。
     市販されている食料については、その栄養性や安全性について、国は一定の規準を作って指導と取り締まりを行なっている。
     だが、これは極めて消極的なものだ。とくに安全性については、安全であるという証拠がなければ許可しない、というのではなく、危険であるという明確な証拠がなければ禁止しない、といったいかにもへっぴり腰である。
     そして、国民一人一人のかけがえのない生命と健康に重大問題が起こり、社会的にはげしい突き上げがなければ、まともな取り締まりもせず、規準の改正も行なわないのだ。
     この頃の食料が殆んどすべて、栄養価が低下し、その上、多かれ少なかれ危険なものになっているからといって、業者はけしからん、行政当局はだらしがない、政治が貧困であると、ただ非難したところで、それで問題がうまく解決するものではない。
     われわれ一人一人がしゃんとして、自分の生命と健康に全責任をもち、自主的に判断し対処しなければならないのだ。
     こうした生活態度に突き動かされて初めて、政治も姿勢が正され、業者も誠実となるのだ。
     いつの時代でも、世間は多少とも狂っている。
     この頃は、とみに狂っており、こと食事についても全くそうだ。
     だが、狂った世間に調子を合わせていては、とうてい健康は保てない。
     であれば、狂った世間にさおさして流されることなく、流れに抗して生きている魚に学んで、この世間に抗して生きていかねばならないのだ。
     社会的に提供される食料、それも盛んに宜伝して売りこまれているものは格別、よく吟味して取捨選択することが肝要である。
     また、これまで飼いならされた好み・習慣のままに食べていくことなく、「食は命なり」と心得て、これに打ちかち、生命と健康に本当に必要で安全なものを食べていくことが肝要である。
     食事の習慣といい好みといい、この頃は、全くもってひんまがっている。
     であれば、たとえ世の人々から、へそまがり・ものずきといわれようとも、自分自身、自主的に、まともな食事をしていくように、正しい知識を学んで賢明に工夫し、堅い信念をもって、たゆまず努力しなければならない。
     そうして初めて、世の人々の味わい知らぬ真の健康を喜ぶことができ、へそまがりの食事が、この上もなくたのしく、またおいしくなるのだ。




04-11. 食養生についての断想(22) 主として主婦の食事責任について

     友成 左近 

     家族のうちそろって、ときに外食するのは、くらしのあやというものであろうが、亭主ひとり、しょっちゅう外でご馳走を食べたがるジンの女房は、とかく食事がヘタクソだ。
     亭主の栄養も好みもマトモに考えず、ただもう倹約ばかりして、ロクなものを食わさないケチンポウか・炊事に手をぬいて、ヤタラと既製の加工食品を使う怠けものか・亭主の好みにはおかまいなしに、自分の好みだけで料理をつくるわがままものか・しゃれた料理はつくるが、栄養も味もなっていないものまねやか・食事の度にグチをこぼす不心得ものか・あるいは。

     食事の責任が一家の主婦にあるのは、人の世のならわしである。であれば主婦たるもの、家族一同、心身とに健やかに生活していく土台づくりに、極めて重大な責任がある。この責任をはたすのに、一家の収入や生活環境その他に、いろいろ厄介な条件がつきまとってはいるが、それでもなお、自分の努力で、あれこれ勉強し工夫していけることがらは決して少なくない。

     勤勉と倹約は、古来わが国の美徳である。だが倹約といえば、「食うものも食わずに」と、まずもって食費をきりつめている場合が少なくないようだ。この場合、食事の内容に、栄養上できる限りの配慮を払っているのであれば、ともかく、無分別にきりつめていると、やがては一家に病弱を招き、仕事に精が出なくなる。いかにも分かりきったことではあるが、これが本当には分かっていない場合が案外少なくないのではあるまいか。大根を買って、ネッコだけ食べるのと、ハッパもうまく調理して食べるのとでは、同じ代金を払っていても、栄養には格段の開きがある。肉や魚と大豆に、あるいはリンゴとミカンに、同じ費用を使っていても、その栄養上の値うちには著しい差がある。

     この頃、家庭電器・化粧品・衣料・自動車・ピアノ・教育・レジャーその他で消費支出がドギツク刺激されている。それに、消費物価が収入の増加を追い越すよう著しく上昇している。ために、人目につきにくい食事への支出を、とかくひどくきりつめている場合が少なくないようだ。このため、消費支出に占める食費の割合が少なくなっているが、だからといって、エンゲルの法則に従って、生活が向上していると考えては大間違いである。

     カネがものをいい、カネですべてがまかなえる世の中である。だからといって、主婦たるもの、食事に必要な手をぬいて、ただもうカネばかりかせぐのは、いささか考えちがいである。ヤタラと既製の加工食品を使い、栄養にも好みにもマトモな配慮をしない料理ですますようになり、やがては一家に病弱を招き、その上、なにかわけの分からない不満が起こり、ついには一家を不幸におとしいれる。だがこれは、とうていカネではつぐなえない。主婦の家事労働のうち、食事の占める割合はかなりのものである。これを軽くするため、既製の加工食品を使うのは確かに便利である。この頃は、食事とくに炊事に手を労する必要がないくらい、ありとあらゆるものが市販されている。
     だがこの場合、それには殆んどすべて、多かれ少なかれ、万病のもととなる有害有毒物がはいっていることをとくとわきまえて、そこは賢明に善処することを決して怠ってはならない。またそれは、いかにも万人むきの味つけであるため、もともと極めて個性的である食の好みにはうまく合わないことをよくわきまえて、うまく調味しなおすことを怠ってはならない。さらにそれが、どんなに栄養満点と宣伝されていても、極めて偏った不完全なものであることを深くわきまえて、あれこれ他に必要なものを加えて栄養に調和をはかることを怠ってはならない。

     この頃は、まちの学校といい講習会といい、またテレビ放送といい、料理講習がまことにはなやかである。 だがこれは、ほとんどすべて、たとえ栄養料理と銘うっていても、やはり誤った習慣に従い、見た目の美しさに走っているきらいがあり、事実、栄養上、程度の差こそあれ、不調和・不完全である。その上、味つけが、いいかげんに狂っている口先・舌先にあわせたものであって、事実、塩気と砂糖気が多すぎる。あるいは、裏でメーカーが糸を引いて、自社製品を宣伝するために開いている場合もあり、そして、その製品を使った料理が栄養上不完全であるだけでなく、その製品には、多かれ、少なかれ、有害有毒物がはいっている。

     毎日の食事に、ただもう見た目や口先にうまい料理ばかりつくる女房は、おしゃれや社交はうまいが、しょたいのもてない女房のようなものだ。ちょっとはよいが、あとで困る。栄養上、毎日どんなものをどれくらい食べたらよいか、ということは一人一人かなりちがっており、食の好みはなおさらである。であれば主婦たるもの、毎日の食事に、そこをよく見きわめて、心を尽さなければ、それはとうてい満足できないはずである。
     亭主たるもの、女房がそうして作った料理が最高においしく、それで毎日いよいよ仕事に精が出るはずである。世の亭主どもには、正しい食べ方の話をすると、それは女房どもが心得ていたらよいと、まことに無関心なのがいる。こんな亭主はえてして、女房が心を尽して作った料理のありがたさが分からず、その相談相手にもならず、ただもう女房の料理はまずいものと決めてかかり、とかくしょっちゅう外食する。そして、こうした亭主の好む外食には、栄養的配慮は極めて少ないので、やがては健康を損なう。その上、意外に多額の費用がかかり、それが家族の食費にシワよせされて一家の食事が粗略とり、家族の健康までも損なう。
     正しい食べ方は、亭主も女房も、さらに家族一同、深く感心をよせて、よく心得、互いに相談して、たゆまず努力していかねばならぬことがらである。




04-12. 食養生についての断想(23) 主として種々の食養法について

     この頃、各種団体の指導講習といい、まちの学校といい、テレビ放送といい、食改善・食養生・栄養料理について、いろとりどりにすすめている。このうち、料理専門家のすすめている、見た目に美しく、口先にうまい御馳走は、それなりになんらかの意味はあろうが、食養上たいした意味のないこと、また食品メーカーが裏であやつっているものは、たとえどんなに栄養量とうたっていても、そのままうのみにできないことはいうまでもない。
     ところが、とくに食改善・食養生・食餌療法と銘うって、その道の専門家がすすめているものにも、多かれ少なかれ、理論的にも実際的にも、まだまだ不十分なところが少なくない。

     どんな病気もそうであるが、とくに高血圧・動脈硬化・糖尿病・胃潰瘍・肝臓病・腎臓病・神経痛・アレルギー等々といった慢性的な病気の治療には、クスリその他の医療と共に、みずから食養生につとめて完全栄養をはかること、それもすべて安全な食品ではかることが肝要であり、それには、それ相当量の安全で良質の青野菜が必要不可欠である。
     けれどもほとんど、その道の専門家がすすめている食養生・食餌療法には、その青野菜が極めて少なく、理論上どうみても、なにかおかしなところがある。また、あれこれと多種多様の材料を取りそろえたり、手に入れにくい材料を使ったり、ヤタラと手のかかる調理を必要としたりして、実際上どうもむずかしいところがある。病院で指導している食餌療法は、どことも青野菜が少なく、従って事実、各種のミネラルとビタミンにかなり不足しているものがあって、栄養が不調和・不完全となっている。
     それはおそらく、こういうわけであろう。

    • まず第一に、厚生省・保健所の指導監督する給食基準は、いわば熱量と蛋白質と脂肪だけであって、これを基準量までみたすと、入院費中の食費がいっぱいになるからである。
    • そして第二に、これだけの栄養がとれるように、まあ常識に従って、あれこれと食品を取りそろえたら、その他の栄養もおのずから十分とれるだろうと、そうは深く考えずにすごしているからである。けれども少し深く考えたら、そうはいかず、ビタミンがあれこれとかなり不足していることは、すぐ分かる。
    • そこで第三に、この不足している栄養は、栄養剤を与えて補なおうとしているからである。けれどもそれは、いささかあさはかなことであり、謙虚に広く深く考えたら、それ相当量の青野菜が必要不可欠であることが分かるはずである。
    • ところが第四に、この青野菜の栄養価値に案外と未知であり、ふつうそう御馳走といわれていないので栄養価値の少ないものと、ここは全く素人判断をしているからである。けれども青野菜の栄養価値は、手近にある食品成分表をみれば、だれでもすぐ分かることだ。
    • とすれば第五に、青野菜は、自分自信そう好きでもないし、患者もまたみなそうなので、つい無意識のうちに自他ともにあまやかしているからである。
    • でなければ第六に、少々ことわけを説明して、いっこうに食べてくれないので、仕方なく次善の試みをしているからである。

     あれこれすすめられている食養法は、確かに理論的実際的な適正をねらっているわけではあろうが、反面、現に人々が身につけている習慣・好みを、なにか無条件に前提としているきらいがある。だがその習慣・好みに著しい間違いが少なくないので、どんなに適正をはかろうとしても、とかく不徹底となる。
     であれば食養生のすすめは、まずもってその間違いを明きらかにして、そこをたたきなおすことから出発する必要がある。
     青汁といい、イモ・マメ・ナッパといい、それはそのひとつの試みである。ために容易に広く人々に受け入れられないが、受け入れた人は、他のどんな食養法にもまして確実に効果をあげている。
     健康保持の土台である食養生・食改善には、あれこれと必要な条件をととのえねばならないが、毎日の食物に、まずもって青野菜をそれ相当量(体重の1%以上)とりいれること、それも青汁にして(毎日カップ1杯〜2杯以上のんで)十二分にとりいれて栄養に調和をはかること、そしてこの青野菜は必ず安全で良質なものであることが必要不可欠である。
     これは、人々とだれでも、どう考え、どうやりくりしても、侵すことのできない自然の理である。従って、それにモンクをつけて行なわず、他にあれこれやりくりしても、とうてい十二分に健康は保っていけない。
     けれども、たとえ疑いながらでもよい、とにかくそうつとめていけば、まちがいなく、おのずから病気は治り、うまく健康が保持され向上していく。青汁が、それも日にカップ1杯や2杯が飲める飲めないというのは、たとえばこれこれの仕事やスポーツが出来る出来ないというのとは、意味が全く異なる。
     仕事やスポーツは、人その人が身につけている体力と知識技能に深い係わりがあるので、人によっては、さしあたり出来る出来ないのちがいが起こる。けれども青汁は、みずから飲む意思があるかどうかに係わることであって、人々だれでも、いつでも飲む意思はもつことができ、飲めるだけの胃袋を備えているのだ。もっとも飲み始めの頃は、人により、ときにムカムカしたり・あげたり・さげたりすることはあっても、飲む意思をもって飲み続けていたら、間もなくなれるにつれて、そうおいしいものとはならないまでも、おのずから体が要求して、けっこう毎日たのしく飲むようになる。
     食養生・食改善については、理論的な理解に立脚し、またみずから身をもって体験し、さらに毎日その通りに実行し実証している真の専門家に聞き従うことが肝要である。それも、世間の仕来りや流行を乗り越え、自分の常識や好みをかなぐりすて、すなおに心を開いて聞き従うことが大切である。自分の常識で分かるところ、自分の習慣や好みにあった点ばかり聞き従っていては、とうていマトモな食養生はできない。




04-13. 食養生についての断想(24) 主として栄養の知識と食養生の知恵について

     ある有名な禅寺で、栄養士を入れて栄養改善をはかったら、栄養失調におちいる雲水がふえてきた、という話がある。
     この栄養士とて、おそらく、それ相応に栄養の知識を学び、栄養士の経験もそれ相当つんでいたのであろうが、いったいどういうわけなのであろうか。
     全くもって無責任な推察ではあるが、古い大きな禅寺という特殊な生活と毎日の食物全般の実状を的確に把握し、開祖以来長年の間つみ重ねている食養生の知恵を謙虚に学んで、慎重に対処しなければならなかったのに、それを怠って、あさはかにも傲慢にも、自分の知識と経験をふりかざして、いきなり毎日の食物を改めたのではあるまいか。


     ある有名な生化学者・栄養学者が、高血圧にかかって最高の医療はうけたが、どうもすっきりと治らず、毎日の研究と生活にも不便であるので、たまたま人のすすめもあって毎日の食物を全面的に改めたら、意外と順調に治って、いまさらながら食養生の重要性を痛感し、人にも話して苦笑いした、という話がある。
     どんな病気でもそうであるが、とくに高血圧といった慢性的な病気にかかるのは、ひとつには毎日の食物にひどい間違いがあったからであって、その治療に肝要なことは、この毎日の食物の改善であり、この食養生を土台として初めて、医療がその本来の効果をあげるのだ。この食養生には、そのよりどころとして栄養の知識が必要不可欠であることはいうまでもないが、栄養の知識があるからといって、必ずしも常に立派な食養生ができるとは限らないのだ。
     その知識をふまえて、めいめいみずから毎日の食物を見きわめて、実際的具体的にうまく工夫していく知恵が肝要なのである。

     スモン病にかかって全く歩けなくなり、それ相応に信用のある大学病院でできうる限りの診療をうけたが、いっこうに治らず、ワラをもつかむ思いながら、青汁を取り入れた徹底的な食養生につとめたら、数ヶ月でほぼ治ってきた青年がある。
     たまたまある大学病院で念のため詳しく診察してもらったら、スモン病は治らない病気であり治った例もない、スモン病に以た他の病気もあるので、それをスモン病と誤診されたのであろう、といわれたそうだ。
     あるいはそうかも知れないし、そうではなく本当にスモン病であったかも知れないが、いずれにしても、スモン病のような厄介な症状が見当たらないくらい治っていることは確かなのであろう。
     それはともかく、大学病院の医師としては、まずもって科学者として発言し、従って、スモン病は治らないというのは一応当然のことであろう。だが、科学的に究明されている医療には一定の限界があり、この医療で治らないといわれている病気でも、他の療法と、とりわけ正しい食養生で治ることがあるのだ。
     であれば医師たるもの、そこを謙虚にわきまえて、この食養生が別に何も治療の妨げとならなければ、そこにも最善の努力を払うことを決して忘れてはなるまい。でなければ、病人を絶望に追いこむ恐れがある。

     食養生・栄養改善といえば、その道の専門家でも、熱量はともかく、蛋白質を、それも動物性蛋白質をもっとふやすように、あるいはさらに脂肪ももっとふやすように、従って肉・魚・卵などをもっと沢山食べるようにすすめ、そしてなにかつけたし的に、牛乳や野菜果物を、それもつとめて緑黄色のものを忘れずにと言い添えている場合、そう聞きとっている場合が少なくない。
     人によっては、それもそう間違いではない場合もあろうが、肉・魚・卵、牛乳・果物といったものは、ふつう、それ相応にカネがあれば、すすめられなくても、めいめい常識と習慣と好みによって必要なだけは十分食べる。いな必要以上に食べすぎ易いのだ。
     だが、ほとんどすべての人々で、カネが十分あっても、なくても、必要なだけ十分とっていないのが、カルシウムその他ある種のミネラルと各種のビタミンであり、それが最も豊富な緑色の濃い青野菜である。
     このため、カネが十分あるなしにかかわらず、クスリその他の医療では容易に治らない厄介な病気にかかり易いのであって、すべての人々にまずもってすすめなければならないことは、この青野菜をもっともっと沢山食べることである。

     食養生・栄養改善には、まずもっと青野菜を、それも青汁にして十二分にとるようにすすめると、その道の専門家でも、なにもわざわざあんなまずいものを飲まなくても、栄養剤をとればよいと、いっこうに耳を傾けない人、反対する人さえ少なくない。
     こんな人は、そうした栄養剤の成分以外に、なお必要不可欠なものが数限りなく、そうした栄養がすべて最も豊富であると推測されるのが青野菜であり、これに代わり、これにまさるものは他にない、ということを忘れているのだ。
     こんな科学主義者は、自分自身ばかりでなく、他人の健康までも損なう。
     本当の学者・専門家は、科学的に究明された知識におごることなく、まだよく分かっていないことが限りなく多いのだと、謙虚に慎重に対処するはずである。

     栄養学の説くところを、心を開いて、よく考えてみると、昔の食べ方のほうが、はるかに理にかなっているところが多いようだ。
     食養生の話をすると、昔の人はみなそうしていたと、口にも出して答える人はあっても、自分自身、実際に毎日の食物を改め始める人は極めて少ない。
     栄養学はそれ相当に進歩しているようであるが、それを活用しているのは、主として薬品・食品・化粧品などの企業であって、人々の毎日の食物には、それほど活用されていないようだ。これは、いったい、どういうわけなのであろうか。

     食養生の知恵は、食事の習慣や好みではなく、必ず常にまず第一に健康をねらい、宣伝や流行ではなく、必ず栄養の化学的な調査研究に基づき、云い伝えや迷信ではなく、賢明に古人の知恵に学び、今さしあたりの無事に安心することなく、よく考えて今後起こるかも知れないことがらを予測し、自分自身の毎日の食物全体をとくと見きわめて、綜合的に判断し対処するところにある。
     しかも、自分ひとりで判断するのではなく、良き師について、すなおに指導をうけるところにある。




04-14. 食養生についての断想(25) 主として時候の変わり目と病気について

     人々だれでも、春秋その他の時候の変わり目には、多少とも体に変調を感じるものであるが、この頃は、これを強く感じ、あれこれと病気にかかる人が少なくないようである。
     なかには、その度毎に、必ずといってよいくらい、しっしん・ぜんそく・結膜炎その他の持病が出て、医者通いまでする人がある。

     * 


     生きた体というものは、それをつくりあげている各種各様の物質が、栄養として化学変化・新陳代謝を営んで、その健康を保っているのであるが、この場合、いろいろ必要な条件があり、そのうち、体温が一定していることが重要である。
     ところが、生活環境の温度、とりわけ気温はたえず変化しているので、生きた体、わけても皮膚は、たえずこれに抵抗して体温を一定に保って、順応していかねばならないのだ。
     けれども、それには、なれということがあって、とくに春秋のような時候の変わり目には、なれるまで、それ相当に日にちがかかるので、だれでも、どうしても多少は体に変調が起こるわけである。

     * 


     生きた体、わけても皮膚が環境の温度の変化にうまく順応するかどうか、ということは、ひとつには、平素からきたえてあるかどうかに深い関係がある。
     いまひとつには、それには生きた体をつくりあげている各種各様の物質・栄養が必要なのであって、この栄養が体内に必要なだけ十分あるかどうかに深い関係があるのだ。

     * 


     この頃は、冬夏の暖冷房設備や被服その他が発達して、しぜん平素から、体・皮膚が寒さ暑さにあまりきたえられないようになっている。
     それに、スポーツを見て、それも、テレビで見て楽しむ人は多いが、みずから汗を流して楽しむ人、ましてや、毎日つとめて薄着をし、また体操・乾布マサツ・冷水マサツその他で積極的に体・皮膚をきたえている人は少なくなっている。
     ある民俗学者の説によると、日本人がかぜをひきやすくなったのは、木綿の着物をきるようになってからだそうである。
     なるほど木綿は、それ以前にきていた麻などに比べて、はるかに保温に好都合であり、それだけ平素、体・皮膚がきたえられなくなったわけだ。

     * 


     この頃は、生活水準が向上し、わけても食事の内容が著しく豊富になって、栄養が目立って向上してきた、といわれている。
     だがそれは、熱量・蛋白質わけても動物性蛋白質・脂肪といった一部の栄養の増加であって、そうした栄養が、栄養として役立つために、化学変化・代謝をするとき、なくてはならないカルシウムその他のミネラルと各種のビタミンは、それにつりあって、別に少しも増加せず、むしろ逆に減少しているのであって、極めて不調和・不完全な栄養となっているのだ。
     それというのは、熱量や蛋白質や脂肪の多い米・麦・砂糖・肉・魚・油といったもの、その加工食品は沢山食べるようになったが、カルシウムとビタミンが最高に多い緑色の濃い青野菜、それも、その生ものは、なにほども食べなくなったからである。
     なるほど、ビタミンやカルシウムの給源である野菜果物はあれこれと豊かに出まわり、わけても、促成・抑制栽培をした野菜や加工した果物まで、季節にはおかまいないしに出まわっているが、いずれも栄養の至って貧弱なものばかりであり、青野菜に比べたら、材木に比べたツマようじのようなものだ。

     * 


     青野菜、わけてもカルシウムとビタミンの最も豊富な緑食の濃い青野菜は、ホウレンソウ(こうした青野菜のうちでは最低である)を除いては、人々が好んで食べないためか、いっこうに積極的に栽培されず、年々、種類も数量も少なくなっている。
     ために、とくに1〜3月と7〜9月には、なにほども出まわってこずしぜん人々もいっこうに食べないわけである。
     であれば、とくに春秋の時候の変わり目に体の変調を強く感じ、あれこれと病気にかかり、持病の出る人が多くなったのは、いわば当然の成り行きである。

     * 

     春秋の変わり目に、しっしんその他の持病の出る人は、ほとんど例外なく、青野菜が大嫌いであり、そうでなければ、へいそ事実なにほども食べず、わけても1〜3月と7〜9月の頃には、ほとんど全く食べていない人である。
     その上、年末年始以来、モチ・菓子・酒・肉・魚などを平素より沢山食べている場合が多く、また、7〜8月の暑い頃は、食がすすまないままに、好み、それも栄養上著しく偏った好みにまかせて、あっさりしたものばかり食べている場合が多いのだ。
     時候の変わり目に持病が出る人は、私はアレルギー体質で、といって、なにかあきらめている場合が多い。
     確かにそうであって、時候の変化その他特定の物質に強く感じ易く、うまく抵抗し順応していけない、だらしのない体質となっているのだ。
     だがそれは、別に決して、どうにも変えることのできない性質のものではない。平素から栄養が著しく不調和不完全であり、その上、体をいっこうにきたえていないからなのであって、そこを改めたら、それ相当に日にちはかかるが、必ず体質は変わってくる。
     それには、まずもって青汁を、毎日2合3合と飲み、とくに1〜3月、7〜9月には、もっと沢山飲むことが肝要である。
     そして、菓子・砂糖・米や肉・魚を極力へらして、芋・雑穀や大豆にかえ、また人工の甘味料・着色料・防腐剤その他の添加物のはいった既製の加工食品を極力食べないことが、また同様に重要である。こうすれば、長年の間、私はアレルギー体質でと、なかばあきらめていた人でも、すっかり体質が変わって、時候の変わり目でも別に、持病は出なくなる。

     * 


     この子は親ゆずりのアレルギー体質で、といって、時候の変わり目には、必ずといってよいくらい、医者通いのお伴をしている親がある。
     この子はこれこれのものが体にあわず、それを食べたら必ず病気になる、これも親ゆずりと、なかばあきらめて、あれこれと食べ物を制限している親がある。
     じょうだんじゃない。自分のあやまった食習慣で子供を育てた結果なのだ。
     早くみずから反省して、まずもって自分の食習慣を改め、それを見習わせて、子供に食習慣を改めさせないと、ちょっとやそっとでは改善できないアレルギー体質になってしまう。
     その上、万事みずから改めていこうとする積極的な心がまえと知恵の芽をつみとって、なんともいくじのない人柄になってしまう。




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