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食養生インデックス | |||||||||||||||
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食養生03 |
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食養生04 |
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04-01 | 142号 | 食養生についての断想(12) 心身ともに健やかに | |||||||||||||
04-02 | 143号 | 食養生についての断想(13) 主として子供の養育について | |||||||||||||
04-03 | 144号 | 食養生についての断想(14) 有害食品時代に処して | |||||||||||||
04-04 | 145号 | 食養生についての断想(15) 主として食品の優劣について | |||||||||||||
04-05 | 147号 | 食養生についての断想(16) 主として妊婦の責任について | |||||||||||||
04-06 | 148号 | 食養生についての断想(17) 主として保健薬について | |||||||||||||
04-07 | 149号 | 食養生についての断想(18) 主として塩と砂糖について | |||||||||||||
04-08 | 151号 | 食養生についての断想(19) 主として油と酢について | |||||||||||||
04-09 | 152号 | 食養生についての断想(20) 主としてダシについて | |||||||||||||
04-10 | 153号 | 食養生についての断想(21) 主として食事の自主性について | |||||||||||||
04-11 | 155号 | 食養生についての断想(22) 主として主婦の食事責任について | |||||||||||||
04-12 | 157号 | 食養生についての断想(23) 主として種々の食養法について | |||||||||||||
04-13 | 158号 | 食養生についての断想(24) 主として栄養の知識と食養生の知恵について | |||||||||||||
04-14 | 159号 | 食養生についての断想(25) 主として時候の変わり目と病気について | |||||||||||||
食養生05 |
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04-01. 食養生についての断想(12) 心身ともに健やかに | |||||||||||||||
食べ物に好き嫌いがはげしく、毎日の食物に間違いが著しい人は、体が丈夫でないだけでなく、心も、どこか、はればれとしていないようだ。 | |||||||||||||||
04-02. 食養生についての断想(13) 主として子供の養育について | |||||||||||||||
子供のしつけのうち、最も重要なことは、まずもって正しく食べるように、どんぴしゃり、青野菜・青汁を好んで沢山食べるようにしつけることだ。しんから丈夫になり、毎度の食事がたのしく、おのずから身も心もはずんでくる。こうならなければ、どんなしつけも、とうてい、うまくいかない。 子供を丈夫に育てよう。しっかり食べさせようとつとめていない親はない。だが、実際は、意外とピントはずれ、間違ったことをしている場合が少なくない。その主要点は、菓子と砂糖が多すぎること、ごはんをヤタラと沢山食べさせること、青野菜が少なすぎること、そして既製の加工食品を使いすぎることだ。 この子は特異体質で、といって、しょっちゅう子供をつれて医者通いをしている親がある。なぜ、もっと本気になって正しい食べ方をしつけないのであろうか。間違った食べ方をさせていては、いくら医者通いをしても、ほんの一時おさえであり、そのうち、ちょっとやそっとの医療ではとうてい治らない、ほんものの特異体質になってしまう。 この子はこれこれの体質で、といって、なにかあきらめているような親がある。確かに体質には、遺伝的素質といったところがあり、これは、どうにも改めがたい。 だが、人々めいめい現に備えている体質は、この素質を土台としながらも、胎児の間から長い間の養育、とりわけ食養によって、だんだんと作りあげられたものであり、従ってまた、食養を改めたら、それ相応に改善できる。 成長期であればあるほど、その可能性が高いのだ。それに、こうして作りあげられる体質であるから、いったい遺伝的素質がどの範囲のものか、実は容易につかめないのだ。 こんな、つかみどころのないものを、とやかくいって、体質の改善を怠り、あきらめることなく、養育とりわけ食養によって改善できることに着目して、そこに、新たに工夫し努力することが肝要である。 子供だけに青汁をのませて丈夫に育てようとしても、それは、いささか見当ちがいであり、ムリというものだ。 いったい子供の体が弱いのは、ひとつには、親の食べ方が間違っているからであり、よくない食習慣が身についたためである。まずもって親みずから青汁をのみ、さらに食物全体を改めて、これに見習わせなければならない。 でないと、たとえ子供が青汁をのみ始めても、とかくクスリと考え、病気の間だけとなり、体具合がよくなると、やがてはやめてしまい、とうてい、よい食習慣が身につかず、本当に丈夫にはなれない。 好きなご馳走をタラフク食べ、マルマルふとっていて、なおムショウに食べたがる、といった慢性的飢餓状態に陥っている子供がある。おもしろくもない試験勉強にかりたてられているからでもあろうが、もっと重大なことは、体が本当に要求している青野菜をロクに与えず、もうそうほしくはないご馳走ぜめの上、なおヤタラと甘いお菓子を与えてキゲンをとるからだ。 かつては、医者の子は病気で死なず薬で死ぬ、といわれていた。この頃は、医者の子だけではなくなっている。だれでも容易に薬が手にはいるからだ。それも、素人判断では危い薬までもだ。それに、マスコミを通じて、これさえのめばと、盛んにのめのめと宣伝されている。ために、マトモな食養を怠って安易に薬をのませ、また、さして病気でもないのに薬をのませて、かえって病弱に育てている。 そして、また薬をのませ、ますます病弱にして、生命をちぢめているのだ。 「クスリヤよりヤオヤ」に走って、まずもって青野菜をしっかり食べさせることが養育の土台なのだ。 (付記)この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生がくりかえしお話しになっていること、それに学んで参会者が自ら体験して話しだしたことどもです。(友成) | |||||||||||||||
04-03. 食養生についての断想(14) 有害食品時代に処して | |||||||||||||||
健康の根本は、安全な食物で完全栄養をはかることにある。 この頃、ガン・高血圧その他の成人病について、早期発見・早期治療が強調され、その対策が講じられている。 まことにありがたく、けっこうなことであるが、さらに、その予防法を普及徹底してくれたら、もっとありがたい。 いわゆる科学的研究ではまだ断定しかねる点が多いのかも知れないが、ほぼ推定できること決して少なくないと思われるのであるが。 この食物については、「疑わしきは罰す」でなければならないはずだ。 この頃は、まさに殺人食時代だ、と言っては、言いすぎであろうか。 ほとんどすべての食品が、原材料からして、有害有毒な農薬や工場廃出物によって汚染されており、いよいよ多量に出廻っている加工食品には、有害有毒な添加料が加わっている。 だが、これは、決して不可抗的な天災ではなく、他に一定の目的をもって、人々の行なっていることである。広く社会的・政治的に運動を起こし、その危険を強調して、安全食品に改めねばならない。 原材料に残っている農薬といい、加工食品に含まれている添加料といい、一つ一つの食品については、ごく微量である。 けれども、ほとんどすべての食品に含まれているので、毎日食べこむ総量はかなりのものとなる。 といって、これとて、すぐ目に見えては、さして有毒作用は起さず、さしあたって、どうこういうことはない。 だが、どんなに微量でも、毒は毒であって、僅かながらも有毒作用をしている。 そして、これが毎日つみ重ねられていく間に、目に見える中毒を引き起こす。 これが、この頃目立ってふえてきた成人病の主たる原因の一つである、と思われる。 健康な人は、なにを食べても、おいしく食べられる、といわれている。 だが、この頃の食料事情では、なんでもおいしく食べていくわけにはいかない。 有害有毒な農薬や添加料のはいっているものが、まことに多いからだ。 これを判別するアタマと目・鼻・舌を養って、うまく選別して食べないと、やがては健康を損なう。 といって、これは、決してそう容易なことではない。 ビンづめ・カンづめその他の加工食品に、どんな添加料がはいっているか、レッテルを隅から隅まで虫めがねで調べてみると分かる。 だが「人工○○料添加」というふうに、はっきり書いてあるのは、ごく僅かであり、いわば良心的なものだ。 なにも書いてないものは、どんなものが、どれくらいはいっているか、皆目見当がつかず、これがクセものである。 戦前は、ほんの僅かでもサッカリンのはいっているものは、だれでも、舌先にピリッときたものだ。 だが、この頃は、ほとんどすべての人々は、舌も鼻も目もいたくマヒしているので、添加料の有無・多少が容易に判別できない。 けれども、それ相当、年月かけて、自然の純正食品だけを食べていると、ある程度まで判別できるようになる。 既製の加工食品が、どれを食べても、いっこうにピリッと舌先にこず、なんともイヤな後味が残らないような人は、あたかも杖を失なった盲目のようなものだ。 われわれは旅行するとき車中、飲食物に不便を感じる。駅売りの食べ物・飲み物の大部分が、舌先にピリッとくるし、食べた後味がなんともイヤだからだ。 それに、生の青野菜が全くついておらず、どうにも食事をした気持が起こらないからだ。 だが、この不便な感じは健康を守る杖と喜び、自家特製の弁当を持参するか、せいぜい、お茶や牛乳や南京豆などでことをすます。 (付記) この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返し強調されていること、それに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。 (友成)
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04-04. 食養生についての断想(15) 主として食品の優劣について | |||||||||||||||
友成 左近
われわれが、毎日毎度、いろいろな食品を取り合わせて食べるのは、見た目に変化をつけ、香りや味を好みにそって配合することも、さることながら、その根本は、完全栄養をはかるため、すなわち生きて働く体が必要とする各種の栄養を、必要なだけ十分とり、その間に過不足がないように、うまく調和をはかるためである。 | |||||||||||||||
04-05. 食養生についての断想(16) 主として妊婦の責任について | |||||||||||||||
人々だれでも、毎日の食物に、みずから責任をとって、細心の注意を払わなければならないが、とくに婦人は、さらに二重の意味で深い責任がある。それは、一家の台所を受持っているからであり。また子供を生んで育てるからである。 | |||||||||||||||
04-06. 食養生についての断想(17) 主として保健薬について | |||||||||||||||
この頃、病気の治療に予防に、また、よりいっそうの健康をはかるためにと、いろいろな保健薬を服用している人が極めて多い。はたして期待通りに効果が現われているのだろうか。 この頃の保健薬は殆んどすべて、ビタミンB1とかCとかアミノ酸といった栄養剤である。 栄養上これが不足すると障害が起こると、化学的に究明された、あれこれの成分を化学的に合成したもの、それを配合したものである。 だが、栄養はすべて、毎日の食物でとりいれるのが本筋である。 この食物に好き嫌いをいい、また横着をして、不足してきた成分を栄養剤で補なおうとするのは、一見いかにも賢明そうではあるが、実は、とんだ筋ちがいであり、それで効果を期待するのは、ムリというものであり、まことに愚かなことだ。 体具合がおかしくなるのは、この頃は殆んどすべて、毎日の食物にひどい間違いがあるからだ。白米飯や砂糖や菓子、切り身の魚や肉などを食べすぎ、野菜ことに青野菜はなにほども食べないからだ。 ために、カルシウムその他ある種のミネラルと各種のビタミンがひどく不足して、栄養に著しい不調和をきたしているからだ。その上、危険な食物、わけても市販の加工食品・インスタント食品を重宝して、ヤタラと有害有毒物を食べこんでいるからだ。 有名タレントをあやつって巧妙に宣伝している保健薬も、クスリである以上、当局は、なになに病に有効であるという博士先生方の実証に基づいて、その発売宣伝を認可しているのだ。 だが、どういうわけか、マカ不思議なことに、この実証が、本当に正しい科学的検証に裏づけられているものは殆んどないのだ。 いろいろある保健薬のなかには、確かに多くの人々の食物で不足している成分の栄養剤もあるが、別に不足はしていない成分や、体内で合成されて十分間にあっているような成分の栄養剤まである。 さらに、栄養剤として服用しても、胃腸で分解して無効となるようなものまでもあるのだ。 健康の土台である栄養に肝要なことは、既知未知すべての栄養成分を必要なだけ十分とり、うまく調和を保つことである。けれども保健薬メーカーは、別に不足はしていない成分までも、これが不足しているから、これが不足していてはと、巧妙に宣伝して、ヤタラと必要以上にとらせ、多ければ多いほど効き目が高く、副作用は少しもないと、盛んに売り込んでいる。 だが、正しい科学的研究によれば、栄養剤で必要以上にとりすぎると、栄養に新たにひどい不調和を引き起こして、意外な副作用をすることがある。 ビタミンA・Dといった脂溶性のものだけでなく、B1などといった水溶性のものでもだ。 たとえていえば、機材に油が必要であるからといって、余分にさしすぎると、付近にとんだ支障が起るようなものだ。 けれども、自然の食物である青野菜・青汁は、既知未知すべての栄養成分がうまく調和しているので、胃腸が耐える限り、どんなに多量にとっても、別に少しも副作用は起こらない。 ますます効き目が高く、青汁を毎日カップ15杯、もとの青野菜にして3〜4kgとって、糖尿病を併発していた肺結核患者が、両方とも治ったという実例もあるのだ。 保健薬が効くのは、多くの場合、その実際的効果よりも心理的効果のせいである。 ために、これを服用し重宝していると、いろいろ厄介なことを引き起こす。 ムダに金を使ったり、思わぬ副作用を引き起こしたり、といったことだけではない。 別にそう体具合は悪くないのに、さも悪いかのような錯覚を起こし、あげくに心理的な保健薬中毒に陥ってしまう。 また、なにか厄介な病気があるとき、それほど効きもしない保健薬で治るように、治ってきたかのように思っている間に、必要な治療を忘れて、その病気が意外と進行する。 さらに重大なことに、いたずらに保健薬にたよって、健康と栄養の土台である毎日の食物の改善を怠っている間に、病気にかかる素地が、根強く広がって、保健薬の心理的効果ではどうにもならない体となってしまう。 この頃盛んに宣伝して売り込まれる保健薬は、たいして効きもせず、また厄介なことも引き起こすものばかりである。 なぜ当局は、その発売・宣伝を許しているのであろうか。なぜ博士先生方は、その効果に提灯をかかげているのであろうか。なぜタレントたちは、その宣伝に顔とことばをかしているのであろうか。なぜその有効・無効・副作用の公正な科学的研究成果が、新聞雑誌その他で広く発表されないのであろうか。それはおそらく、ひたすら営利を追求している製薬メーカーのカネとニラミのせいではあるまいか。と共に、極めて多くの人々が、健康と栄養と食物について、あまりにも無知であるからではあるまいか。 | |||||||||||||||
04-07. 食養生についての断想(18) 主として塩と砂糖について | |||||||||||||||
健康と栄養の土台である毎日の食物を改善するにあたって、調味料をうっかりしていることがある。 うまいも・まずいも塩かげん、といわれている通り、塩は調味に重宝である。 また、食物の貯蔵にも好都合である。 だからといって、舌先にまかせて取りすぎると、胃炎・腎臓炎・高血圧その他厄介な病気を引き起こし、また、早老の原因ともなる。 であれば、健康の保持にも病気の治療にもできれば食塩はとらないほうが望ましく、とるとしても、いろいろ工夫して、つとめてひかえ目にすることだ。 それは、いうまでもなく、醤油・味噌・ソースその他の調味料や、漬け物・佃煮・塩物なども含めてだ。 それに、この頃の調味料は、昔ながらの醸造品は少なく、合成品が多く、調味上からも栄養上からも著しく劣り、その上、防腐剤・甘味剤・着色剤・香料などまではいっているので、有害無益といってもよいくらいだ。 生きた体に塩分が必要不可欠であることは、科学的な事実である。 だが、それは日に約3gであって、別に食塩で補なうほどの必要はない。 すべて食物には、自然のままで塩分が含まれており、毎日食べる食物全体で、ほぼ3g程度はまかなえるからだ。 それは、自然の動物はいうに及ばず、放牧中の家畜でも厩舎の家畜でも、別に食塩は与えなくても健全である通りだ。 といって、熱量や労働その他で、ひどく汗をかいたり、あるいは食あたりその他で、あげたりさげたりしたときは、ほどほどに食塩で補なう必要がある。 栄養基準量では、食塩は日に13gとなっている。だがこれは、栄養上これだけはとれ、という意味ではなく、調味上これくらいは使っているので、という意味での、食料行政上の数量である。 青野菜は、カリウムが多いため、ナトリウムの不足を引き起こすので、それ相応に食塩を加える必要がある、といわれている。だが、これは片手おちの見方であって、調味上の必要はあっても、栄養上の必要はない。でなければ、青草ばかり食べて、別にナトリウム不足症を引き起こさない動物について、どうにも説明ができない。 この頃、うまい・あまいの区別がつかないのか、料理にしろ飲み物にしろ、おいしくしようと、ヤタラと砂糖を、それも白砂糖を使う人が極めて多い。 また、健康にも病気の治療にもよくないからと、つとめて菓子はひかえているのに、調味には、あい変わらず砂糖を使っている人もある。 だが砂糖は、健康と栄養には、害こそあれ益は少しもない。 風邪・便秘・冷え症・ムシ歯から疲労・肩こり神経痛その他すべての病気の原因となる。 だからといって、サッカリン・シュガリンその他の甘味料を代用したり、これまで加えてダラ甘くするのは、全くもって危険千万。であれば、どうしても使わずにすませないなら、中白以下の粗糖や純粋の蜂蜜や飴を、それも、いろいろ工夫して、つとめて少な目に使うことだ。 生きた体に糖分が必要不可であることは、科学的な事実である。だが、これは別に砂糖の糖ではなく、米・麦・芋その他の食物も、体内にはいれば、砂糖と同様に、糖分に変わるのだ。そして実状、糖分は必要以上にとりすぎている場合が多く、これが生きた体の力に変わるとき、必要不可欠なミネラルとビタミンが著しく不足しており、白砂糖には、こうした成分は全くないのだ。 疲れたときに甘いもの、といって、砂糖湯を飲んで元気をつける人が少くない。確かにひどくくたびれたときには、効き目がある。それは、体内で糖分が一時欠乏しているからであり、砂糖は早く消化吸収して、糖分に変わるからだ。だが、それは、一時的なカラ元気であって、間もなく、さらにひどくくたびれてくる。絶えずこんなことをくりかえしていると、やがては体がダメになる。本格的なスポーツマンはみな、砂糖も菓子も厳禁なのだ。 砂糖の消費量は文化生活のバロメーターである、といわれている。だがこれは、砂糖を多量に使うのが文化的な生活である、という意味ではなく、文化的な生活はとかく砂糖を多量に使う、という意味だ。そして砂糖の消費量は多病短命のバロメーターとなっているのだ。文化生活の必要条件と随伴現象とを見分けて、砂糖会社の巧妙な宣伝に迷わないことが肝要である。 調味に塩や砂糖や、その他の調味料を使うのは、自然の食物が備えている本来の味わいを、うまく引きたてるためである。 だがこの頃は、ひいきのひきたおしで、食物本来の味わいまで抹殺するほど、濃厚に味つけしている場合が少なくない。 それは、ひとつには、人間の味覚は、動物とちがって、とくに塩と砂糖には容易に幻惑され、それが習慣化するからである。 であれば、とくに乳幼児には、砂糖も塩も極力与えないようにして、しゃんとした味覚を養なうことが肝要である。 また、いいかげん味覚の狂っている成人も、そこはアタマを働かせて極力うす味につとめ、食物本来の味わいが本当に分かる、マトモな味覚を取りもどしたいものである。 なにより大切な健康のために、そして、本当に毎日おいしく食べるために。 | |||||||||||||||
04-08. 食養生についての断想(19) 主として油と酢について | |||||||||||||||
友成 左近
青汁教室に、「グリーンサラダ」とよんでいる自慢の料理がある。 | |||||||||||||||
04-09. 食養生についての断想(20) 主としてダシについて | |||||||||||||||
この頃よく「おふくろの味」ということばをきく。 | |||||||||||||||
04-10. 食養生についての断想(21) 主として食事の自主性について | |||||||||||||||
この頃は、極めて高度に分業化した時代であり、貨幣経済の社会である。 いかにも、人々の栄養と健康に役立つように、うまいことをいっていても、まんざらうそばかりではあるまいが、まずもっと売るため、いな買わせて儲けるための方便である。 よっぽどマユにツバつけて、自主的に対処しないと、それを消費して生活する一人一人の栄養と健康には、全責任をもたない業者にふりまわされてしまい、その利潤のギセイとなる。 ために、栄養価の劣ったものばかりが出まわり、また、その本来の味も低下し、さらに、多かれ少なかれ有害有毒化さえしている。 けれども動物は、栄養成分に優れたものや有害有毒物を、うまく判別する強力な本能・好みを備えており、少々飼いならしても、これは、そうは容易に無力化もせず、変わりもしない。 だが、あわれなことに人間は、この本能が極めて微力であり、その好みは飼育によって容易に変わってくるので、巧みに業者に飼いならされる。 けれども、人体の生理と栄養は、自然の事実であって、そうはうまく変わってこないので、必然的に病弱を招く。 だが、一個の人間が健康に生きていくためには、各種各様の食料が必要であり、どんなものを、どう取り合わせて食べるかは、当人が自主的に、全体的綜合的に判断し対処しなければならないのだ。 業者としては、そこまで責任はもっていない。料理店とりわけ定食業者にしても、そうなのだ。やはり売らんがために、人々の栄養よりも好みに重点をおいている。 なかには、業者の無知か不注意か、なにかの事故で、ときに著しく有害有毒化しているものもある。 だが、人々はめいめい、各種各様の食料を取り合わせて食べるので、一つ一つの食料に、一応は安全である程度に、ごく微量ふくまれている有害有毒物が集積してくるため、毎日食べこむ総量は相当な量となり、その上、これが相乗的に作用して、健康を損なうようになるのだ。 であれば、自分の生命を健康に保っていくには、一つ一つの食料の安全度を確かめ、全体的綜合的に判断して、できるだけの安全食につとめなければならない。 だが、これは極めて消極的なものだ。とくに安全性については、安全であるという証拠がなければ許可しない、というのではなく、危険であるという明確な証拠がなければ禁止しない、といったいかにもへっぴり腰である。 そして、国民一人一人のかけがえのない生命と健康に重大問題が起こり、社会的にはげしい突き上げがなければ、まともな取り締まりもせず、規準の改正も行なわないのだ。 われわれ一人一人がしゃんとして、自分の生命と健康に全責任をもち、自主的に判断し対処しなければならないのだ。 こうした生活態度に突き動かされて初めて、政治も姿勢が正され、業者も誠実となるのだ。 この頃は、とみに狂っており、こと食事についても全くそうだ。 だが、狂った世間に調子を合わせていては、とうてい健康は保てない。 であれば、狂った世間にさおさして流されることなく、流れに抗して生きている魚に学んで、この世間に抗して生きていかねばならないのだ。 社会的に提供される食料、それも盛んに宜伝して売りこまれているものは格別、よく吟味して取捨選択することが肝要である。 また、これまで飼いならされた好み・習慣のままに食べていくことなく、「食は命なり」と心得て、これに打ちかち、生命と健康に本当に必要で安全なものを食べていくことが肝要である。 であれば、たとえ世の人々から、へそまがり・ものずきといわれようとも、自分自身、自主的に、まともな食事をしていくように、正しい知識を学んで賢明に工夫し、堅い信念をもって、たゆまず努力しなければならない。 そうして初めて、世の人々の味わい知らぬ真の健康を喜ぶことができ、へそまがりの食事が、この上もなくたのしく、またおいしくなるのだ。 | |||||||||||||||
04-11. 食養生についての断想(22) 主として主婦の食事責任について | |||||||||||||||
友成 左近
家族のうちそろって、ときに外食するのは、くらしのあやというものであろうが、亭主ひとり、しょっちゅう外でご馳走を食べたがるジンの女房は、とかく食事がヘタクソだ。 | |||||||||||||||
04-12. 食養生についての断想(23) 主として種々の食養法について | |||||||||||||||
この頃、各種団体の指導講習といい、まちの学校といい、テレビ放送といい、食改善・食養生・栄養料理について、いろとりどりにすすめている。このうち、料理専門家のすすめている、見た目に美しく、口先にうまい御馳走は、それなりになんらかの意味はあろうが、食養上たいした意味のないこと、また食品メーカーが裏であやつっているものは、たとえどんなに栄養量とうたっていても、そのままうのみにできないことはいうまでもない。 あれこれすすめられている食養法は、確かに理論的実際的な適正をねらっているわけではあろうが、反面、現に人々が身につけている習慣・好みを、なにか無条件に前提としているきらいがある。だがその習慣・好みに著しい間違いが少なくないので、どんなに適正をはかろうとしても、とかく不徹底となる。 であれば食養生のすすめは、まずもってその間違いを明きらかにして、そこをたたきなおすことから出発する必要がある。 青汁といい、イモ・マメ・ナッパといい、それはそのひとつの試みである。ために容易に広く人々に受け入れられないが、受け入れた人は、他のどんな食養法にもまして確実に効果をあげている。 健康保持の土台である食養生・食改善には、あれこれと必要な条件をととのえねばならないが、毎日の食物に、まずもって青野菜をそれ相当量(体重の1%以上)とりいれること、それも青汁にして(毎日カップ1杯〜2杯以上のんで)十二分にとりいれて栄養に調和をはかること、そしてこの青野菜は必ず安全で良質なものであることが必要不可欠である。 これは、人々とだれでも、どう考え、どうやりくりしても、侵すことのできない自然の理である。従って、それにモンクをつけて行なわず、他にあれこれやりくりしても、とうてい十二分に健康は保っていけない。 けれども、たとえ疑いながらでもよい、とにかくそうつとめていけば、まちがいなく、おのずから病気は治り、うまく健康が保持され向上していく。青汁が、それも日にカップ1杯や2杯が飲める飲めないというのは、たとえばこれこれの仕事やスポーツが出来る出来ないというのとは、意味が全く異なる。 仕事やスポーツは、人その人が身につけている体力と知識技能に深い係わりがあるので、人によっては、さしあたり出来る出来ないのちがいが起こる。けれども青汁は、みずから飲む意思があるかどうかに係わることであって、人々だれでも、いつでも飲む意思はもつことができ、飲めるだけの胃袋を備えているのだ。もっとも飲み始めの頃は、人により、ときにムカムカしたり・あげたり・さげたりすることはあっても、飲む意思をもって飲み続けていたら、間もなくなれるにつれて、そうおいしいものとはならないまでも、おのずから体が要求して、けっこう毎日たのしく飲むようになる。 食養生・食改善については、理論的な理解に立脚し、またみずから身をもって体験し、さらに毎日その通りに実行し実証している真の専門家に聞き従うことが肝要である。それも、世間の仕来りや流行を乗り越え、自分の常識や好みをかなぐりすて、すなおに心を開いて聞き従うことが大切である。自分の常識で分かるところ、自分の習慣や好みにあった点ばかり聞き従っていては、とうていマトモな食養生はできない。 | |||||||||||||||
04-13. 食養生についての断想(24) 主として栄養の知識と食養生の知恵について | |||||||||||||||
ある有名な禅寺で、栄養士を入れて栄養改善をはかったら、栄養失調におちいる雲水がふえてきた、という話がある。 ある有名な生化学者・栄養学者が、高血圧にかかって最高の医療はうけたが、どうもすっきりと治らず、毎日の研究と生活にも不便であるので、たまたま人のすすめもあって毎日の食物を全面的に改めたら、意外と順調に治って、いまさらながら食養生の重要性を痛感し、人にも話して苦笑いした、という話がある。 どんな病気でもそうであるが、とくに高血圧といった慢性的な病気にかかるのは、ひとつには毎日の食物にひどい間違いがあったからであって、その治療に肝要なことは、この毎日の食物の改善であり、この食養生を土台として初めて、医療がその本来の効果をあげるのだ。この食養生には、そのよりどころとして栄養の知識が必要不可欠であることはいうまでもないが、栄養の知識があるからといって、必ずしも常に立派な食養生ができるとは限らないのだ。 その知識をふまえて、めいめいみずから毎日の食物を見きわめて、実際的具体的にうまく工夫していく知恵が肝要なのである。 スモン病にかかって全く歩けなくなり、それ相応に信用のある大学病院でできうる限りの診療をうけたが、いっこうに治らず、ワラをもつかむ思いながら、青汁を取り入れた徹底的な食養生につとめたら、数ヶ月でほぼ治ってきた青年がある。 たまたまある大学病院で念のため詳しく診察してもらったら、スモン病は治らない病気であり治った例もない、スモン病に以た他の病気もあるので、それをスモン病と誤診されたのであろう、といわれたそうだ。 あるいはそうかも知れないし、そうではなく本当にスモン病であったかも知れないが、いずれにしても、スモン病のような厄介な症状が見当たらないくらい治っていることは確かなのであろう。 それはともかく、大学病院の医師としては、まずもって科学者として発言し、従って、スモン病は治らないというのは一応当然のことであろう。だが、科学的に究明されている医療には一定の限界があり、この医療で治らないといわれている病気でも、他の療法と、とりわけ正しい食養生で治ることがあるのだ。 であれば医師たるもの、そこを謙虚にわきまえて、この食養生が別に何も治療の妨げとならなければ、そこにも最善の努力を払うことを決して忘れてはなるまい。でなければ、病人を絶望に追いこむ恐れがある。 食養生・栄養改善といえば、その道の専門家でも、熱量はともかく、蛋白質を、それも動物性蛋白質をもっとふやすように、あるいはさらに脂肪ももっとふやすように、従って肉・魚・卵などをもっと沢山食べるようにすすめ、そしてなにかつけたし的に、牛乳や野菜果物を、それもつとめて緑黄色のものを忘れずにと言い添えている場合、そう聞きとっている場合が少なくない。 人によっては、それもそう間違いではない場合もあろうが、肉・魚・卵、牛乳・果物といったものは、ふつう、それ相応にカネがあれば、すすめられなくても、めいめい常識と習慣と好みによって必要なだけは十分食べる。いな必要以上に食べすぎ易いのだ。 だが、ほとんどすべての人々で、カネが十分あっても、なくても、必要なだけ十分とっていないのが、カルシウムその他ある種のミネラルと各種のビタミンであり、それが最も豊富な緑色の濃い青野菜である。 このため、カネが十分あるなしにかかわらず、クスリその他の医療では容易に治らない厄介な病気にかかり易いのであって、すべての人々にまずもってすすめなければならないことは、この青野菜をもっともっと沢山食べることである。 食養生・栄養改善には、まずもっと青野菜を、それも青汁にして十二分にとるようにすすめると、その道の専門家でも、なにもわざわざあんなまずいものを飲まなくても、栄養剤をとればよいと、いっこうに耳を傾けない人、反対する人さえ少なくない。 こんな人は、そうした栄養剤の成分以外に、なお必要不可欠なものが数限りなく、そうした栄養がすべて最も豊富であると推測されるのが青野菜であり、これに代わり、これにまさるものは他にない、ということを忘れているのだ。 こんな科学主義者は、自分自身ばかりでなく、他人の健康までも損なう。 本当の学者・専門家は、科学的に究明された知識におごることなく、まだよく分かっていないことが限りなく多いのだと、謙虚に慎重に対処するはずである。 栄養学の説くところを、心を開いて、よく考えてみると、昔の食べ方のほうが、はるかに理にかなっているところが多いようだ。 食養生の話をすると、昔の人はみなそうしていたと、口にも出して答える人はあっても、自分自身、実際に毎日の食物を改め始める人は極めて少ない。 栄養学はそれ相当に進歩しているようであるが、それを活用しているのは、主として薬品・食品・化粧品などの企業であって、人々の毎日の食物には、それほど活用されていないようだ。これは、いったい、どういうわけなのであろうか。 食養生の知恵は、食事の習慣や好みではなく、必ず常にまず第一に健康をねらい、宣伝や流行ではなく、必ず栄養の化学的な調査研究に基づき、云い伝えや迷信ではなく、賢明に古人の知恵に学び、今さしあたりの無事に安心することなく、よく考えて今後起こるかも知れないことがらを予測し、自分自身の毎日の食物全体をとくと見きわめて、綜合的に判断し対処するところにある。 しかも、自分ひとりで判断するのではなく、良き師について、すなおに指導をうけるところにある。 | |||||||||||||||
04-14. 食養生についての断想(25) 主として時候の変わり目と病気について | |||||||||||||||
人々だれでも、春秋その他の時候の変わり目には、多少とも体に変調を感じるものであるが、この頃は、これを強く感じ、あれこれと病気にかかる人が少なくないようである。 生きた体というものは、それをつくりあげている各種各様の物質が、栄養として化学変化・新陳代謝を営んで、その健康を保っているのであるが、この場合、いろいろ必要な条件があり、そのうち、体温が一定していることが重要である。 ところが、生活環境の温度、とりわけ気温はたえず変化しているので、生きた体、わけても皮膚は、たえずこれに抵抗して体温を一定に保って、順応していかねばならないのだ。 けれども、それには、なれということがあって、とくに春秋のような時候の変わり目には、なれるまで、それ相当に日にちがかかるので、だれでも、どうしても多少は体に変調が起こるわけである。 生きた体、わけても皮膚が環境の温度の変化にうまく順応するかどうか、ということは、ひとつには、平素からきたえてあるかどうかに深い関係がある。 いまひとつには、それには生きた体をつくりあげている各種各様の物質・栄養が必要なのであって、この栄養が体内に必要なだけ十分あるかどうかに深い関係があるのだ。 この頃は、冬夏の暖冷房設備や被服その他が発達して、しぜん平素から、体・皮膚が寒さ暑さにあまりきたえられないようになっている。 それに、スポーツを見て、それも、テレビで見て楽しむ人は多いが、みずから汗を流して楽しむ人、ましてや、毎日つとめて薄着をし、また体操・乾布マサツ・冷水マサツその他で積極的に体・皮膚をきたえている人は少なくなっている。 ある民俗学者の説によると、日本人がかぜをひきやすくなったのは、木綿の着物をきるようになってからだそうである。 なるほど木綿は、それ以前にきていた麻などに比べて、はるかに保温に好都合であり、それだけ平素、体・皮膚がきたえられなくなったわけだ。 この頃は、生活水準が向上し、わけても食事の内容が著しく豊富になって、栄養が目立って向上してきた、といわれている。 だがそれは、熱量・蛋白質わけても動物性蛋白質・脂肪といった一部の栄養の増加であって、そうした栄養が、栄養として役立つために、化学変化・代謝をするとき、なくてはならないカルシウムその他のミネラルと各種のビタミンは、それにつりあって、別に少しも増加せず、むしろ逆に減少しているのであって、極めて不調和・不完全な栄養となっているのだ。 それというのは、熱量や蛋白質や脂肪の多い米・麦・砂糖・肉・魚・油といったもの、その加工食品は沢山食べるようになったが、カルシウムとビタミンが最高に多い緑色の濃い青野菜、それも、その生ものは、なにほども食べなくなったからである。 なるほど、ビタミンやカルシウムの給源である野菜果物はあれこれと豊かに出まわり、わけても、促成・抑制栽培をした野菜や加工した果物まで、季節にはおかまいないしに出まわっているが、いずれも栄養の至って貧弱なものばかりであり、青野菜に比べたら、材木に比べたツマようじのようなものだ。 青野菜、わけてもカルシウムとビタミンの最も豊富な緑食の濃い青野菜は、ホウレンソウ(こうした青野菜のうちでは最低である)を除いては、人々が好んで食べないためか、いっこうに積極的に栽培されず、年々、種類も数量も少なくなっている。 ために、とくに1〜3月と7〜9月には、なにほども出まわってこずしぜん人々もいっこうに食べないわけである。 であれば、とくに春秋の時候の変わり目に体の変調を強く感じ、あれこれと病気にかかり、持病の出る人が多くなったのは、いわば当然の成り行きである。 春秋の変わり目に、しっしんその他の持病の出る人は、ほとんど例外なく、青野菜が大嫌いであり、そうでなければ、へいそ事実なにほども食べず、わけても1〜3月と7〜9月の頃には、ほとんど全く食べていない人である。 その上、年末年始以来、モチ・菓子・酒・肉・魚などを平素より沢山食べている場合が多く、また、7〜8月の暑い頃は、食がすすまないままに、好み、それも栄養上著しく偏った好みにまかせて、あっさりしたものばかり食べている場合が多いのだ。 時候の変わり目に持病が出る人は、私はアレルギー体質で、といって、なにかあきらめている場合が多い。 確かにそうであって、時候の変化その他特定の物質に強く感じ易く、うまく抵抗し順応していけない、だらしのない体質となっているのだ。 だがそれは、別に決して、どうにも変えることのできない性質のものではない。平素から栄養が著しく不調和不完全であり、その上、体をいっこうにきたえていないからなのであって、そこを改めたら、それ相当に日にちはかかるが、必ず体質は変わってくる。 それには、まずもって青汁を、毎日2合3合と飲み、とくに1〜3月、7〜9月には、もっと沢山飲むことが肝要である。 そして、菓子・砂糖・米や肉・魚を極力へらして、芋・雑穀や大豆にかえ、また人工の甘味料・着色料・防腐剤その他の添加物のはいった既製の加工食品を極力食べないことが、また同様に重要である。こうすれば、長年の間、私はアレルギー体質でと、なかばあきらめていた人でも、すっかり体質が変わって、時候の変わり目でも別に、持病は出なくなる。 この子は親ゆずりのアレルギー体質で、といって、時候の変わり目には、必ずといってよいくらい、医者通いのお伴をしている親がある。 この子はこれこれのものが体にあわず、それを食べたら必ず病気になる、これも親ゆずりと、なかばあきらめて、あれこれと食べ物を制限している親がある。 じょうだんじゃない。自分のあやまった食習慣で子供を育てた結果なのだ。 早くみずから反省して、まずもって自分の食習慣を改め、それを見習わせて、子供に食習慣を改めさせないと、ちょっとやそっとでは改善できないアレルギー体質になってしまう。 その上、万事みずから改めていこうとする積極的な心がまえと知恵の芽をつみとって、なんともいくじのない人柄になってしまう。 | |||||||||||||||
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