健康と青汁タイトル小
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11-01 291号 青汁食養生で考えること(1)
11-02 292号 青汁食養生で考えること(2)
11-03 293号 青汁食養生で考えること(3)
11-04 294号 青汁食養生で考えること(4)
11-05 295号 青汁食養生で考えること(5)
11-06 296号 養生のかなめ
11-07 296号 青汁食養生で考えること(6)
11-08 297号 青汁食養生で考えること(7)
11-09 298号 青汁食養生で考えること(8)
11-10 299号 健康に望ましい食生活は
11-11 299号 青汁食養生で考えること(9)
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11-01. 青汁食養生で考えること(1) 食物選択の自由について

     友成 左近 


     真理は汝らに自由を得さすべし マタイ伝8・32

     幸い縁あって、遠藤先生にご指導いただいて青汁食養生に心がけていますが、それがいとぐちになって、食養生や広く健康の保持増進に直接かかわること以外のことがらについても、あれこれとあらためて考えなおすようになりました。それで、人生で最も重大な課題である自由についても、あらためて考えなおしているのですが、それを食物選択についていうと、おおよそつぎの通りです。

    人々めいめい思うがまま自由に選択しているが
     当節どこでも食物が、原材料も加工品も、そしてとくに加工品では、以前は家庭でしていた調理の段階にまで及んでいる既製品が、多種多様にわたって、まことに豊富に市販されています。また、飲食店や弁当屋なども至るところに開かれて、各種各様の料理が豊富に提供されています。

     そして他方、広く人々の生計が向上し、生活困窮者には社会保障がまだ不十分ながらも普及しています。従って、人々めいめい(といって、生計その他の事情によって、人その人で様子は多少ちがいますが、それはともかく)以前とは比較できないほど、食べたいと思うものを、食べたいと思うときに、思うがまま自由に選んで、しごく手軽に、そして、存分に食べています。そうして、かつてのように、食に飢える、というようなひとは全くなくなっているのであって、人々だれしも心の底から最も強く希求している自由のうち、生活物資の欠乏からの解放は、こと食物については、これまでになく享受しているのが実情です。
     
     けれども、それで食欲が日々十分みたされているかというと、必ずしもそうではない人々が多く、なかには、なにかもっとうまいものはないかと、空しく探し求めている人々も少なくないようです。もっと重大なことは、それがひとつの主要原因になって、人生なにより大切な健康がおかされ、それも、医療の進歩普及にもかかわらず、その効果が予防にも治療にも及びかねる厄介な病気にかかっている人々が、これまでになく多くなっています。

    生来の習慣や好みのままに選択している
     それはいったい、どういうわけでしょうか。食物選択には、主として食物の個人的な志向と市販の動向が、相互に呼応して関与しています。そこで、まず個人的志向の点からみると、それはひと口でいえば、思うがまま自由に選択するというのは、実情めいめい生来身につけてきた習慣、とりわけ好き嫌いのままに選択することであるからです。
     そしてそこでは、毎日の食物について、その本来の目的や方法を自ら確かと筋道たてては考えていないのです。いうまでもないことですが、食物は本来、食べて味わいを楽しむことなどもさることながら、なによりもまず、めいめい生きた体に必要な栄養分を十分とりいれて、人生なにより大切な健康をはかっていくためのものです(つづく)




11-02. 青汁食養生で考えること(2) 食物選択の自由について

     友成 左近 


     そしてそこには、これこれのものを、こういうふうに取り揃えて食べなければならない、これこれのものは食べてはいけない、という自然の厳然とした法則があります。
     そして、そうした法則に適合した食べ方をして初めて、食欲が日々シンソコみたされるのです。
     ところで、こうした法則に実情最もうまく適合しているのが、民族それそれの伝統的な食べ方であり、さらに細かくいえば各地方の食です。
     といって、(そこには種々の事情があって)あれこれと不備なところがあり、従ってまた、時代と共に変遷していることはいうまでもありません。
     そして人々めいめい、ふつうは生来こうした食べ方に準じて食べ、その間に食習慣を身につけ、また、それが感情的に着色した好みも併わせて身につけていきます。
     が、(そこには種々の事情があって)この食習慣や好みは、人その人によって程度の差はありますが、伝統的な食べ方からだんだんとはずれ、食物本来の法則には、ますます適合しないようになっている場合が多いのが実情です。
     そこで栄養学では、そうした習慣食や伝統食を科学的に調査して、食物本来の法則を究明しているのですが、まだ究明されていないことが数限りないのはいうまでもありません。
     従って、毎日の食物について、その本来の目的や方法を筋道たてて考える、というのは、当面市販の食物に対処して、栄養学ですでに究明されていることを手がかりにして(そしてそこでは、まだ究明されていないことが数限りないことを弁えて)めいめい自分の習慣食を反省すると共に、民族それそれの伝統食に学ぶことです。
     けれども人々だれしも、なにか特別な機縁にめぐりあわなければ、毎日の食物について、その本来の目的や方法を別にそう深くは考えず、生来身につけてきた習慣に従って食べ、それもとかく好き嫌いのままに食べているのが実情です。
     そして、(そこには種々の事情があって)ただそれだけでは満足できず、なにか変わったもの、それもとかく、世間で高級で美味しいとか、あるいは栄養豊富といわれているものが食べたく、また、炊事などの手数をそうかけずに食べたいと思っているのが、これまた実情です。
     従って当節、そうしたものが多種多様にわたって豊富に市販されるようになったので、いよいよもって思うがまま自由に選択して食べているわけです。
     けれども、こうした食べ方は、(つぎにみるような市販の動向と呼応して)個々の食物の成分面や安全面についても、また食構成面についても、伝統的な食べ方からも、また食物本来の法則からも、ますますはずれています。
     従って、毎日の食物を思うがまま自由に選択していては、とうてい食欲は日々十分みたされず、もっと重大なことは、めいめい生きた体に必要な栄養分が十分とれず、そのうえ有害有毒物も食べこむようになるのであって、人生なにより大切な健康が保てず、あれこれと厄介な病気にかかるのは当然の帰結です。

    (つづく)




11-03. 青汁食養生で考えること(3) 食物選択の自由について

     友成 左近 

    選択する由りどころが企業にあやつられている
     つぎに市販の動向の点からみると、まずひと口でいえば、思うがまま自由に選択するにあたって、(まえにみたように、そこでは食物本来の目的や方法を自ら確かと筋道たてては考えていないため)、あれが食べたい、これが食べたいと思う自分が、自らそう思う由りどころが、実は市販業者、とりわけ大企業にあやつられているからです。
     いうまでもないことですが、農家もさることながら非農家では、食物はすべて市販で調達しています。
     そして、この流通も販売も、殆んどすべて大小様々の企業が営んでいますが、当節この企業に大規模なものが増加し、また流通が全国的に広域化しています。
     また、市販には当節、加工品が、それも以前は家庭でしていた調理の段階にまで及んでいる既製品が、多種多様にわたって著しく増加していますが、これも殆んどすべて大小様々の企業が製造し、これにも大規模なものが増加しています。
     ところで企業は、もともと専ら営利を目的にしているのですが、当節(そこに種々の事情があって)この営利追求がこれまでになく露骨になっています。
     また、現材料の大部分は農家が(その他は大小様々の企業が)生産していますが、その自家用はともかく市販用は、当節(ここにも種々の事情があって)以前とは比較できないほど営利追及に走り、そして農協は、その経営管理が企業と大差ないようになっています。
     従って、市販の食物は殆んどすべて、広く市販にかなって営利がはかれるもの、すなわち人々の好みに、さらには、あれが食べたい、これが食べたいという選択志向に迎合したものになっています。
     そして、とくに大企業は、テレビその他のマスコミを通して、そうした思いを刺激もして、自社製品がいかにも高級で美味しく、あるいは栄養豊富であるかのように、また炊事などの手数をそうかけずに食べられると、いかにも巧妙な情報を流して盛んに宣伝しています。
     ために人々が、あれが食べたい、これが食べたいと思うのは、(そこに企業との心理的な力関係その他の事情があって)、企業のそうした情報宣伝によって、そう思いこまされている場合が多いのです。
     従って、思うがまま自由に選択するといっても、そこで自ら思う由りどころが、食物本来の目的や方法について、自ら確かと筋道たてて考えてのことではなく、実は企業にあやつられている場合が多いのです。

     * * * 

     そして、企業にあやつられて思うがままに、毎日の食物を選択していては、まえにみたようなしだいで、とうてい健康は保てず、また食欲も日々シンソコみたされないのですが、念のため、それを補足すると、こうです。
     まず企業は、広く市販にかなって営利がはかれるものを扱うのですが、栄養上ぜひ食べなければならないものには、そうした商品には不向きなものが少なくないのです。(成分の優れた良質青野菜、それも危険な農薬などの残留していないものは、その最もたるものであって、実情殆んど全く市販されていません)。
     そして企業が主として扱うものは、広く人々の好みにあったものや、世にいう高級で美味しいもの、あるいは炊事などの手数をそうかけずに食べられるもの、そして総じて、長期間の保存や遠距離への輸送に耐えるものです。
     が、そうしたものには、もともと成分の劣ったもの(たとえばコマツナなどの青色野菜に比べたキャベツなどの白色野菜)や、高度に精製して成分が著しく劣ったもの(たとえば黒砂糖に比べた白砂糖)が多く、また殆んどすべて、栽培に農薬を使って、それが残留し、さらに加工に保存料などを使って、それ相等に有害有毒化しています。
     そのうえ企業は、とくに加工品の製造には、極力原価の低減をはかるため、その経営方針や技術水準によって相異はありますが、多くの場合、粗悪材料を使ったり、代用品を加えたり、そして、それをごまかすために着色料その他の添加物をあれこれと使っているため、さらに成分が劣り、有害有毒化しています。(この詳細は省略)。
     ために、思うがまま自由に(実は企業の情報宣伝にあやつられて)毎日の食物を選択していると、栄養上ぜひ食べなければならないものを、つい選び落とすようになります。
     そして選びとったものには、味わいはともかく、成分が著しく劣り、また有害有毒化しているものが多くなります。
     従って、必要な栄養分が十分とれず、そのうえ有害有毒物を食べこむので、必然体力とりわけ病気に対する抵抗力が低下して、あれこれと病気に、それも医療の効果が予防にも治療にも及びかねる厄介な病気にかかるようになるわけです。
     また食欲は、もともと必要な栄養分を十分とりいれるための生理的心理的な欲求であるので、たとえ一時は満足しても、とうていシンソコ満足できず、なにかもっとうまいものはないかと空しく探し求めるようになるわけです。
    (つづく)




11-04. 青汁食養生で考えること(4) 食物選択の自由について

     友成 左近 


    青汁食養生に心がけるのは
     けれども、青汁食養生に心がけている私たちは、幸い縁あって良師の指導にあずかって、毎日の食物について、まだ至って不行届きながらも、その本来の目的や方法を自ら筋道たてて考えています。
     そして、これまでの食物を反省して、まだ不十分ながらも、まずもって青汁を飲んで、青野菜を、それも良質で安全なものを毎日しっかりと食べ、さらにその他の食物も「イモ・マメ・ナッパ」を合言葉にして改めています。(その意義や方法の詳細は省略)。
     ところで、この青汁はいうまでもなく、その他の食物で改めているものも殆んどすべて、おそらくだれにも、生来食べ慣れて好きになっているものではなく、むしろ嫌いなものの最たるものでしょう。
     けれども、こういうものを食べなければ、とうてい栄養分は十分とれないと自ら考えて、食べ慣れて好きになっているものが食べたい、という人々ふつうの思いを辛抱しているわけです。(といって、それは初めの間のことで、しばらく食べ続けているうちに、別にそう辛抱するほどのことではなくなり、やがては好みがだんだんと変わってきて、改めたものの方がかえって美味しくなっています。
     とくに青汁は、その性質上だれにも多少は不味いのですが、別にそう不味くはなく、いうなれば、えもいえぬ味わいになって、毎日飲まねばモノたりないようになっています)。
     また、こうしたものは殆んどすべて、世間では低級で不味いものといわれ、そして市販では、世にいう高級で美味しいもの、それに炊事などの手数をそうかけずに食べられるものばかりであり、そしてそれが盛んに宣伝されています。
     けれども、そうした市販の動向や宣伝にあえて抵抗して、そんなものを食べていては、栄養分が十分とれず、有害有毒物も食べこんで、なにより大切な健康を損なうと自ら考えて、人々から時代おくれ・変わりものといわれても、別に意に介せず、みずから自信をもち、また食物の調達や炊事の手数もいとわず、毎日食べていかねばならないと自ら考えているものを食べているわけです。
     そして、もしそう心がけなかったら、とうてい得られない(と自ら考え、また人々もそう思う)健康を保っているのであり、また食欲にも日々そう不満は感じていないのです。

    (つづく)




11-05. 青汁食養生で考えること(5) 食物選択の自由について

     友成 左近 

     こういうわけで、食物選択の自由というのは、それも、人々だれしも本性心の底から希求している本当の意味での自由は、食物本来の目的や方法を自ら確かと筋道たてて考えて、それを由りどころにして選択することです。
     そしてそれは、食物本来の目的や方法には自然の厳然とした不変の法則があるからです。従って、食物が多種多様にわたって豊富に供給されているからといって、それをよいことに、あれが食べたい、これが食べたいと、ただ思うがままに選択する自由では、とうてい本当の自由は享受できず、従って、心身ともに健やかに生活していくことはできないのです。
     あれが食べたい、これが食べたいと思うのは、自らそう思う由りどころが、めいめい生来身につけてきた習慣、とりわけ好き嫌いであり、さらにそれが市販の動向、とりわけ専ら営利を目的にしている企業の情報宣伝にあやつられているからです。そしてそれは、たえず移り変わっていき、それも傾向として、食物本来の法則からますますはずれていくからです。
     ところで、こういってしまえば、それはだれにもよく分かっていることであるかも知れませんが、本当の自由は、ただ分かっているだけで享受できるものではなく、日々の実践によって初めて享受できるようになるのです。けれども、この実践はそうは決して容易なことではなく、あれが食べたい、これが食べたいという思いに、絶えず抵抗していかねばならず、そしてこの思いは、たとえば仏教でいう悪業、キリスト教でいう原罪のように、なんとも執拗なのです。であれば、幸い縁あって青汁食養生に心がけている私たちは、こうした本当に自由な食物選択の意義を、より深く理解もし自覚もして、よりいっそう行き届いて心がけたいものです。(つづく)




11-06. 養生のかなめ

     医学博士 遠藤 仁郎 

     Natura sanat Medicus curat.(自然が癒し、医師は手当をする)ということばがある。これは、病気や傷をなおすのは自然で、医者はただその手伝いをするだけだ。治してやったなどと思い上ってはならぬ。という医者へのいましめであり、また、治るのは自然だ。医者や薬だけにたよりきってはならぬ、という病人へのいましめでもある。
     では、何もせず、ただなりゆきにまかしておればよいということかというと、決してそうではない。この「自然」というのは、からだにそなわった自然の力。健康をまもり、病気や傷をなおす自然の力。自然の抵抗力・回復力、すなわち健康力(生命力)のことであって、自然の正しい生き方によってあたえられる神(自然)の恵み、というべきものだ。

    自然の正しい生き方
     自然界の動物は自然のおきてにすなおにしたがい、かれらにとって正しい生き方をし、それを終生つづけている。そして、あのたくましい健康力(生命力)をあたえられている。しかし、われわれ人間は、人間にとっては自然でも、それは人為的にゆがめられたものであり、本当に正しい自然の生き方はしていない。たとえば食べもの。

    何でも食べる
     自然界の動物は、かれらの適した、かれらにとって完全なもの以外は決して食べない。
     それをかれらは本能的に知っており、また、本能的にためによくない有害有毒なものをみわける能力をもっている。人間は本当に何を食べてよいか知らず、ためによくないもの、有害有毒なものをみわける能力もなく、食べられるものであれば、うまいものであれば、食べよく、便利で手数がはぶければ、何でも食べる。

    食べものの由来
     自然の動物は、草食獣の草木葉、肉食獣の動物にしても、すべて、自然にあるもの、そだったものを、そのまま食べる。われわれは、自然のものももちろん食べるが、多くは栽培し飼育したものであり、その栽培法・飼育法ははなはだ不自然になっている。

    農作物の栽培
     むかしは、山の木が落葉・朽木を肥料として自然にそだつ、それをならった堆肥と、土をよく耕やす自然農法であった。いまは、便利な化学肥料と耕耘機にたよった労力の少ない不自然農法になった。
     いやいや、それどころか、石油をうんとつかって抑制・促成栽培といったことまでやる。そこに育つ作物は軟弱・不健康となり、病・虫害をうけやすいので、強力な農薬の支えによって辛うじて生産をつづけている、というわけだ。そして、作物の成分が劣っている(ミネラル・ビタミンに乏しいだけでなく、蛋白質も劣質化している)だけでなく、農薬に汚染されたものとなってしまっている。

    家畜の飼育
     いぜんは、よい環境の中で自然の飼料をあたえられ、家畜はみな丈夫にそだった。いまは、不自然な環境の下(通風・日光に乏しい狭い畜舎、はなはだしくは暗室の中で)に、不自然不完全な合成飼料、さらに肥肉剤さえもあたえられ、不健康・病弱な家畜となってしまい、繁用される防疫用薬剤の汚染もまぬかれない、という始末で、肉も卵も乳もただ質的に劣っているばかりか、有害にさえなっている。水産物また同様。

    加工
     そのうえ、多くの食品は高度に加工(精製・調理)されており、そのさい、さらに大切な栄養分(ミネラル、ビタミン、蛋白質、繊維など)を失ううえ、有害なもの(発癌性のものや過酸化脂肪など)を生ずるおそれもある。

    調味
     自然の動物は、いかにもうまそうに、満足しきって食べている。それは、かれらが空腹を覚えてはじめて食べ、腹をみたせばやめる、という自然の法則をまもっているからだ。人間は、少なくとも今のわれわれは、いつも腹いっぱい食べ、腹のすくひまがないから、いきおい食欲をそこなう。そして、雑多な調味料(糖・塩・脂肪・香辛料、化学調味料など)で調味し、食欲をそそり飽食に飽食をかさねている、という不自然なことをあえてしている。

    出来あい食品
     さらにはなはだしいのは便利で安くてうまいとよろこばれている出来あい食品、インスタントものの氾濫。食品メーカーは、その需要をみたすために、いや、いやが上にも利潤をあげるため、あらゆる知識・技術を駆使するわけだが、そこに使用される製法、薬剤その他の添加物にはいかがわしいものも少なくない。事実、犬や猫、いや、蟻さえ食べようとしないものもいっぱいある。

    その結果
     というしだいで、いまや、すべての食品が、栄養的に劣質化しているだけでなく、有害有毒化されており、また、されつつあり、良質安全な自然食品は殆んどないといっても、少しもいいすぎではあるまい。世はまさに殺人食時代だ。

    バランスのみだれ
     しかも、食糧が豊富になり、経済的にゆとりのできた現在、毎日の食べものは、うまい穀・肉・卵・糖・酒にかたよったご馳走ばかり。その結果、カロリー、蛋白質が多すぎ、それに釣りあわねばならないミネラル・ビタミンの給源である野菜、ことに良質ナッパ類は殆んど食べないかごく少量、というあまりにもバランスのみだれ(アルカリとくにカルシウムその他のミネラルやビタミン類の不足)のはなはだしい不完全(欠陥)食になっている。

    血のにごり
     このようにして、われわれ人間は、栄養的に不完全であり、かつ、有害有毒食品も少なくないという、あまりにも不自然、反自然的な食べ方をやっているわけであり、ために代謝がうまくゆかず、血のにごりを生じ、諸機能の不調、ひいて健康力(抵抗力・回復力)の減衰をまねき、不健康となり、病気しやすく、治りにくくなっている、とかんがえられる。
     人間も所詮は動物、原始の時代には、自然の動物と同様、本当に正しい自然の生き方をしており、旺盛な健康力(生命力)をもっていたにそういあるまいが、なまじ知恵の木の実を食ったばかりに、そして、貪欲のとりことなったばかりに、こうして、自分で自分のからだをさいなみつづけ、自然の力(健康力・生命力)を発揮することができなくなり、医者よ薬よと、医療にたよることが多くなってしまった。

    現代医療と青汁
     有力な新薬、新しい手術や放射線技術の開発と、現代医学の進歩はまことにすばらしい。にもかかわらず、いわゆる見放された難病が少なくないのはなぜだろう。
     また、そういう難病が、青汁あるいは青汁を中心とする食養(緑葉食・青汁、イモ・マメ・ナッパ・青汁食)によってよくなり、時には奇蹟といいたいほどの効果をみるのはなぜだろうか。
     それは、この食養法(ミネラル・ビタミン類を十分補給すること、およびなるべく安全な自然食品をとるよう心がけること)で、習慣食のまちがいをなおすだけのことによっても自然の力(健康力・生命力)がもり上ってくることをしめすものであり、現代医学の有力な治療法(薬剤、メス、放射線など)にしても、この自然の力(健康力・生命力)のたすけなしには、十分の効果をあげえないことをしめすものではないか。
     そして、正しい食、適度の運動・鍛錬、便通、睡眠をよくし、性の節制、労働と休養のバランス、心のやすらぎと強化など、正しい自然の生き方、すなわち正しい養生がいかに大切であるかをおしえるものであり、昔から「一に養生二に薬」といわれているいわれや、Natura sanatということのアカシといってもよいであろう。

    これが本筋
     青汁で病気や傷のなおりがたしかによくなる。また、医薬や手術や放射線などの効果がたかめられ、それらの副作用も防がれる。で、私は、はじめ青汁を医療の有力な補助手段とかんがえていた。
     けれども、青汁だけでよくなるものが少なくないこと、現代医療の及ばないものさえもが救われる事実を知った今では、これなしには真の治療はありえないこと、青汁中心の正しい食養をはじめとする正しい日常生活、すなわち正しい養生法こそ治療の本筋であり、したがって、病気は自分でなおすべきもの、そう努力しなければならないこと。それは、自然のおきてに素すなおにしたがい、正しい養生法をまもることであり、そうするならば、医者も薬もいらない、いや、その以上の力をもつこともできる、ということを認めざるをえなくなった。
     つまり、自然の力(健康力・生命力)は自然からあたえられるのではなくて、自らの努力、すなわち正しい養生によってかちとるべきものであり、その中心になるものは正しい食。正しい食の中心は十分の良質ナッパをとること。そして、青汁は、これを可能ならしめるものだ。したがって、青汁は正しい養生法のカナメであり、たくましい自然の力(健康力・生命力)の源泉ある、ともいえよう。
     しかし、その効の完全を期するためには、材料が良質安全であり、分量が十分でなければならず、同時に食べものすべてが良質安全であり、バランスがよくとれていなければならない。そして、生涯つづけられなければならないこと、を忘れてはならない。

    (55・5)




11-07. 青汁食養生で考えること(6) 食物選択の自由について

     友成 左近 

    食物選択の自由について
    ロボット化時代の自己堅持に最も重要

     毎日の食物を自由に選択する、というのは、その本当の意味では、これまでみてきたように、その本来の目的や方法を自ら確かと筋道たてて考えて、それを由りどころにして、(それはすなわち、食物本来の厳然とした不変の法則を把えて、それに適合するように)選択することです。そこでこれは、情報化時代とかロボット化時代、人間疎外時代とか自己喪失時代といわれている当節、めいめいかけがえもなく大切な自分自身を堅持していくのに、最も重要なことですが、それはつぎのような意味あいからです。

    ロボット化時代というのは
     私たちは当節、広く社会生活もさることながら、とくに職業生活では、農業その他の自営業者である場合もさることながら、とくに企業その他の諸団体の労働者である場合、巷間広くいわれているように、その職場の仕事が高度に規格化・機械化・自動化され、また職場関係も強力に組織化・管理化されています。ために職場では、めいめい自由な意思行動は極度に制限されて、あたかも巨大なロボットの部品であるかのように操作されています。
     けれども人々だれしも、それと意識しているかどうかはともかく、内心最も強く欲求しているのは、一個の人間として、自ら自由に考えて行動することであり、そういう自分自身を堅持していくことです。従って、職場では、そういう自由が極度に制限されているため、しぜん欲求不満が内攻して、やがては仕事に意欲がうすらぎ、また職場関係も阻害されるようになりがちであり、そうなっては、めいめいにも、また企業にも重大問題です。そこで企業は、そうした欲求不満を解消しようと、職場の内外であれこれと施策しているのですが、その経営管理の原則から、またことがらの性質からもそこには限りがあります。
     ために人々めいめい、職場外で、とりわけ家庭の日常生活では、つとめて自ら自由に考えて行動しなければ、とうてい一個の人間として、自分自身を堅持していくことができないのが実情です。ところで当節、この家庭の日常生活に必要なものもサービスも、企業をはじめ各種団体によって、生活各面にわたって、こと細かく提供されています。
     そして、とくに企業は、専ら営利を目的にしているため、それを、いかにも巧妙な情報を流して盛んに宣伝しています。そして人々は、それをよしと思ってか、時勢の流れとさおさしてか、とにかく安易に提供されるままに受けいれている場合が多く、ためにここでも、自ら自由に考えて行動していると思っていても、結果的には企業その他によって、あたかもロボットのように操作されて、自分自身を喪失する仕儀になっています。
     そこで人々めいめい、意識的にも無意識的にも、どうにかして自分自身を取りもどそうと、いろいろ工夫しているのですが、(その具体的なことは省略しますが、この自分自身が内心最も強く欲求している自由の意味を的確に把えていないため)首尾よく取りもどしていない場合が多いようです。
     とりわけ、(まえにみたように、毎日の食物選択が企業にあやつられて、それがひとつの主要原因になって)自分自身の存在根源である生命をおびやかす病気にかかっている人々が多く、そして、療養にあれこれと心がけても、ここでも企業その他の情報化にわざわいされて、順調に治ってこない場合が、これまた多いのが実情です。
     けれども、幸い縁あって青汁食養生に心がけている私たちは、まえにみたように、こと食物については、(まだ至って不行届きながらも)こうした情報化・ロボット化攻勢に抵抗して、自ら自由に考えて選択しています。そして、もしそう心がけなかったら、とうてい得られない健康を保っているのであって、これは、あいにく病気にかかって療養する場合には、とくに際立っています。従って、こうした食物選択自由は、ロボット化時代といわれている当節、めいめいかけがえもなく大切な自分自身を堅持していくのに最も重要なのですが、それはどういう意味あいからか、というと、ここではその主要点を2点、簡単にあげてみることにしましょう。(つづく)




11-08. 青汁食養生で考えること(7) 食物選択の自由について

     友成 左近 

    自分自身の存在根原を培う意味で
     まずひとつには、いうまでもないことながら自分自身の存在根原は、まえにもふれたように、めいめいの生命であり、生きた体であって、この生きた体の健康をはかるには、毎日の食物を、その本当の意味で自由に選択して、そこに必要な栄養分を十分補給する、それも安全な食物で補給することが、その土台として最も重要であるからです。
     ところで当節、人々だれしも生命尊貴は口にし、また「生命と健康を守る」ということが市民運動などで盛んに叫ばれています。が、そこに、(経済優先、貨幣至上といった社会的風潮その他諸般の情勢にわざわいされてか)なにか実感が伴なわず、ために、生命と健康を守ることが、社会的政治的にも、また個人的にも、実際は二のつぎになっている場合があります。
     また、ふつう自分自身の堅持という場合、自己主張や自己顕示、すなわち自分の意見や財産や社会的な地位や名声などに重点をおいて、その存在根原である自分の生命と生きた体を、つい疎かにしていることがあり、ときにはその健康を軽視さえしている場合もあります。
     そして、生命と健康を重視する場合でも、(医学研究や健康保険制度の欠陥その他の事情によってか)とかく病気の治療に偏り、この治療にあたっても、(最近の医学の進歩に眩惑されてか)とかく専ら医療わけても薬剤に依存して、その最も重要な土台が毎日の食物であることを、つい忘れている場合が多く、テンから度外視している場合も少なくないようです。
     また、広く健康の土台として毎日の食物を重視するにしても、まえにみたように、その本当の意味で自由に選択していない場合、ために、めいめい生きた体に必要な栄養分が十分補給できず、そのうえ有害有毒まで食べこんでいる場合が少なくないのが実情です。
     こういうしだいで、毎日の食物を、その本当の意味で自由に選択することは、自分自身の堅持に、その存在根原を培うという意味で最も重要なのです。

    (つづく)




11-09. 青汁食養生で考えること(8) 食物選択の自由について

     友成 左近 

    生活各面に波及する意味で
     もうひとつには、毎日の食物を、その本当の意味で自由に選択していると、そういう選択の仕方が、しぜん生活各面に波及するので、そこを自ら積極的に採用すれば、自分自身をよりいっそう確かと堅持していけるようになる、という意味で、食物選択の自由は自己堅持に極め重要なのです。
     というのは、生活各面にも、そして生活全体にも、食物と同様に、その目的や方法に、任意に変えることのできない原則があるからです。(といって、食物のように科学的に究明しかねるところもありますが)
     従って、ただ思うがまま意のままに(といえば、ふつうは世の仕来りや流行のままに、あるいは場あたり的に気がむくままに)営むのではなく、その原則に適合するように、そこは自ら確かと筋道たてて考えて営まなければ、その本来の目的を首尾よく達成して、自分自身を堅持していくことができないのです。

    心の平安については
     そこで、ひとつ事例をあげると、内面生活における心の平安については、こうです。
     いうまでもないことですが心の平安は、自分自身を堅持していくのに、心身ともに健やかにと、体の健康と共に最も重要です。
     それは、人々だれしも、(たとえば体具合にどこか平素と変わったことが起こったとか、近親者や友人が病気にかかったとか、なにか新しい仕事にとりかかるとか、所用で見知らぬ人や目上の人に会うとか、その他)なんぞことあたっては、多かれ少なかれ不安を感じるのですが、そうした感情は不快で回避したく、それが高じると、なんとも耐えがたく、やがては毎日の生活に支障をきたし、また体の健康も損なうようになるからです。
     けれどもこの不安は、いうなれば「よく気つけて」という警告であって、人々だれにも、本性しぜんに備わっている心のはたらきであって、感じないようになろうとしても、それはムリというものであり、不可能なことです。
     従って、不安を感じたときは、それ相応に、そこに必要な配慮をして、不安を感じながらも、とにかく実際にことにあたれば、それだけ首尾よくことを達成することができ、そこに心の平安が得られるのです。
     けれども、不安が不快であるからといって、そうした心のはたらきの法則にそむいて、それをあたかも目の敵のように、あれこれとやりくりして回避したり解消したりしようとしても、また、ほかになにか特別な精神修養をして打ちかつようになろうとしても、実際にことにあたっていかなければ、そうはうまく解消することはできないのです。
     それだけではなく、かえって不安に注意が集中して、ますます強く感じるようになって、いよいよもってことにあたることができなくなり、いつまでたっても心の平安は得られないのです。
     ましてや、精神安定剤などにたよって不安を感じないようにしようとしても、それは一時的なことであるだけでなく、連用すれば、だんだんと心が鈍麻して、生き生きとした心の平安は得られないようになります。

    (つづく)




11-10. 健康に望ましい食生活は 楠本倉敷中央病院内科医長の講演から

     医学博士 遠藤 仁郎 

    野菜類をしっかり
     糖尿病の食事療法と食物線維の効用

     食事の欧米化がすすみ、病気も成人病が急増するなど、わが国も欧米と同じ悩みをかかえるようになってきた。
     健康と長寿のためには低カロリーの食生活が大切。
     最近「ダイエタリー・ファイバー(食物繊維)」の多い食事の良さが米国を中心に注目されている。
     野菜や穀物をしっかり食べよう−このほど岡山市内で開かれた「糖尿病の食事療法と食物線維の効用」と題する講演(日赤岡山県支部主催)の中で楠本亨・倉敷中央病院内科医長はこう訴えた。
     糖尿病食はすなわち健康食。
     楠本医長の話から、糖尿病に限らず、健康な体を保つための好ましい食生活のあり方を紹介しよう。

     戦後日本の食生活は、砂糖、脂肪、タンパク質が著しく増え、逆に米とか麦類、野菜が減った。
     それに比例して肥満の害、成人病が急増している。
     欧米ではすでに“食べ過ぎの害”の反省期に入っている。
     昔は肥満は富の象徴ともなっていたが、今では統計調査でもその逆になった。

    発生率高める動物性脂質
     動脈硬化と食事の関係をみると、食事の総カロリーが高いほど動脈硬化になりやすい。
     それも動物性脂質からの摂取が多いほど発生率が高く、植物性脂質からの摂取が多いと低い。
     砂糖の取り過ぎも問題だ。
     戦争時には日本でも欧米でも、糖尿病や動脈硬化の発生が極端に少ないという事実がある。

    アメリカ版望ましい食事
     アメリカで最近つくられた「望ましい食事の摂取目標」を紹介しよう。
     それは

    • 果実、野菜、穀類をたくさん食べよう
    • 肉を減らし、鶏肉や魚をふやそう
    • 脂質の多い食品を減らそう
    • 牛乳は脱脂乳に
    • コレステロールの多い食品はひかえる
    • 砂糖、塩分を減らす

     というもの。

    どんどんふえる砂糖摂取
     日本は世界有数の長寿国になった。
     これは現在の日本人のカロリー摂取量がちょうど適正なものはなっているためといえる。
     だが、たとえば砂糖の摂取量はどんどん増えつづけている。
     このままでは際限なく進んでしまうので、ブレーキをかける必要がある。

    飽食して動かなければ・・・
     鶏の肥育法で示唆的な話がある。
     鶏を肥育させるのに昭和30年140日かかっていたのが50年には半分以下の65日しかかからなくなった。
     どうするのかというと、鶏を空腹の極限状態においたあと、腹いっぱい食べさせる。
     そして真っ暗にして寝さす。
     これをつづけるとぶくぶく太る。
     しかしその肉はかすかすしてうまくない。
     人間も同じだ。飽食(ほうしょく)をつづけながら動かなければ成人病のもとをつくっているようなものだ。

    小学生に野菜ぎらい目立つ
     小学生のし好傾向の調査がある。
     それによると好きな食べ物の順位は
      1. くだもの(92%)
      2. 飲み物
     で、きらいなものは
      1. 海草(87%)
      2. 野菜
     野菜ぎらいが目立っている。
     人間のし好は20歳までに決まるといわれる。
     野菜ぎらいをなくすには離乳食の時からやるべきだ。子供の食生活には特にいい習慣をつけさせよう。

    野菜などに多い食物線維
     注目を集めているダイエタリー・ファイバーとはどんなものか。
     日本語で食物線維と呼ばれるもので、野菜や穀物などに多く含まれている。
     種類としてはセルロース、ヘミセルロース、ペクチン性物質など数多いが、詳細についてはまだわからぬことが多い。
     ただその効用は重大なものがある。
     おもな効用をあげると
    • 食物の腸内通過時間を短縮し、有害物質の排せつを促進する
    • 保水作用があるため、腸の内容、フン便量を3〜5倍に増量する
    • コレステロールなど吸着して、腸壁からの吸収を防ぎ、排せつを促す
    • 腸内菌のバランス面で有用菌を優勢にし免疫機能を刺激する
     など。
     すでに日本でも東京や大阪で“線維食パン”が市販されている。
     これは人為的にダイエット・ファイバーをパンに混入したものだ。
     ただ食物線維摂取の今後の課題としては
    • 適正な摂取量の決定
    • 野菜でとるか、精製された形でとるかという摂取形態の問題
    • 重金属の吸収障害など副作用の徹底研究
     などいそがねばならない。
    (55・10・28 山陽)




11-11. 青汁食養生で考えること(9) 食物選択の自由について

     友成 左近 

    家計の安定については
     もうひとつ事例をあげると、家計の安定については、それを主として支出面からみると、こうです。
     いうまでもないことですが家計は、家族めいめいの生活に必要なモノやサービスをまかなうことであって、その安定は、自分自身を堅持していくのに、その経済的な土台として極めて重要です。
     が、そこに肝要なことは、家族めいめい心身ともに健やかに生活していくのに必要なものを、まずもって十分まかなうことであって、これをおろそかにしていては、たとえ家計が豊かなようであっても、とうてい自分自身を堅持していくことはできません。
     ところで、広く家計でまかなっているものは多種多様にわたっていますが、それを、「心身ともに健やかに」という点から類別すると、そこにぜひ必要で不可欠なものと、それほどではないが、あればなお好都合、なければ少々困るものや、別にそう必要ではなく、なくてもそう困らないものや、あれば有害でさえあるものがあります。
     そしてこれを、支出額の点からみると、ぜひ必要なものや、あればなお好都合なものより、そう必要でないものの方がはるかに多く、また有害でさえあるものにも少なくない場合が多く、ために、支出には限りがあって、必要なものを、必要なだけ十分まかなっていない場合が少なくないのが実情です。
     それはおそらく、ぜひ必要なものや、あればなお好都合なものは、そう多種多様ではなく、また、そう高価でもなく、そして、ほぼ必要なだけまかなえば、それ以上は求めない、といった性質のものであり、従って市販では、別にそう宣伝していないからでしょう。
     それに引きかえ、そう必要でないものは、なんとも多種多様にわたっており、また高価でもあり、そして、これには欲求に際限がない、といった性質のものであるため、支出に都合がつく限り、ときにはムリまでして買い込むようになりがちであり、従って市販では、つぎからつぎと目先を変えて、盛んに宣伝して売り出しているからでしょう。
     そこで家計の安定をはかるには、市販の宣伝にあやつられて、あれがほしい、これがほしいと、ただ思うがままに支出するのではなく、家族めいめい心身ともに健やかに生活していくには、実際どんなものが必要なのか、そこを自ら確かと考えて、そうしたものを、まず第一にまかなうこと、そしてその上で、その他のものを、ほどほどにまかなうことが大切なのです。

    選択の自由というのは
     これまでみてきたように毎日の食物を、その本当の意味で自由に選択するというのは、あれが食べたい、これが食べたいと、ただ思うがままに(それは実情、生来身につけてきた習慣とりわけ好き嫌いのままに、またさらに市販の動向とりわけ企業の流す情報宣伝にあやつられて)、選択することではありません。
     その本来の目的や方法を自ら確かと筋道たてて考えて、それを由りどころにして(それはすなわち、めいめい生きた体の健康をはかるため、これこれのものを、こういうふうに取り揃えて食べなければならない、これこれのものは食べてはいけない、という厳然とした法則を把えて、それに適合するように)、選択することです。そして毎日の食物を、こういう本当の意味で自由に選択することは、情報化・ロボット化時代といわれている当節、めいめいかけがえもなく大切な自分自身を確かと堅持していくのに、極めて重要なのであって、それは、まずひとつには、自分自身の存在根源である生命と、その生きた体の健康を保っていくのに、その土台として最も重要であるからです。
     そして、もうひとつには、毎日の食物をその本当の意味で自由に選択していると、そういう選択の仕方が、しぜん生活各面に波及するので、そこを自ら積極的に採用すれば、それだけ確かと自分自身を堅持していくようになるからです。

     * * * 

     幸い縁あって遠藤先生にご指導いただいて、まだ至って不行届きながらも青汁食養生に心がけているうちに、それがいとぐちになって、哲学などには全く素人ながら、人生で最も重大な課題である自由について考え及ぶようになりました。
     そしてこれを、主として選択の自由についていうと、それはこれまでみてきたように、ことにあたって、そのことがら本来の目的や方法を自ら確かと筋道たてて考えて、そこに厳然とした法則を把えて、それに適合するように、そこに必要なものごとを選択することである、ということです。
     そして、こうした意味で自由に選択していくことは(それには非常な努力が必要ですが)、ロボット化時代といわれている当節、かけがえもなく大切な自分自身を堅持していくのに、いうなれば不可欠的に必要であると(そういってしまえば、しごく平凡なことのようですが)、自分なりに実感をもって考えるようになったのですが、いかがでしょうか。
    (おわり)




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