健康と青汁タイトル小
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03-01 130号 食養生についての断想(1)
03-02 131号 食養生についての断想(2)
03-03 133号 食養生についての断想(3)
03-04 134号 食養生についての断想(4)
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03-08 138号 食養生についての断想(8)
03-09 139号 食養生についての断想(9)
03-09 140号 食養生についての断想(10) 主として育児について
03-10 141号 食養生についての断想(11) 主として安全食について
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03-01. 食養生についての断想(1) 

     友成 左近 

    イモ・マメ・ナッパ健康のもと
     これが青汁教室の合言葉である。
     毎日毎度の食べ物を、サツマイモ・ジャガイモその他のイモと、マメわけても、大豆と、なかのなかまで濃い緑色の青野菜を、主要三脚として構成しよう、そうすれば、病気は治り、よりいっそう丈夫になる、というわけだ。
     しょっちゅう病気にかかる人は、青野菜が大嫌いか、甘いものが大好きか、あるいは大飯くらいだ。
     病気療養は言うに及ばず、広く健康の根本は、食養生である。
     毎日毎度の食物で、各種の栄養素を必要なだけ十分とり、その間に過不足がないように、うまく調和をはかることだ。
     と共に、食物はすべて、有害毒物のはいっていない安全なものにすることだ。
     健康の根本である食養生には、まずはさておき、毎日、青汁を2合3合と、できるだけ沢山のむことだ。そして、菓子・砂糖・ごはん、さらには魚・肉などをひかえることだ。
     これ以外に、これに勝る妙手はない。
     健康のもとは完全栄養調和食であり、それには、さしずめ相当量の青野菜が必要不可欠である。
     これを嫌って、他になにか、うまいテを求めようとしても、それはムリというものだ。体具合が悪くとも辛抱せねばなるまい。
     主食といえば、ゴハンだ。せいぜい、パンやウドンだ。
     この言葉は、いろいろと誤解を招いている。食事といえば、まずもってゴハンを食べること、その他は、おそえであって、ゴハンをおいしく、しっかり食べる引き立て役と考え、ご馳走といえば、肉・魚などを、余分に食べるものと考えるようになっている。
     食物の構成は、もっとちがった言葉で言い表わす必要がある。
     食物の構成を、主食・副食といった言葉で言い表わしていると、いろいろと間違いを引き起こす。
     熱量源・蛋白源・調整源(これを、さらにミネラル源・ビタミン源)というふうに、少なくとも三つ、四つの枠組で考える必要がある。
     それは、たとえば写真機であれ机であれ腰掛であれ、支える脚が、少なくとも3本か4本なければならないのと同様である。
     健康のもとである完全栄養調和食を構成するには、熱量源と蛋白源、さらにミネラル・ビタミンといった調整源が、いずれも、それ相当量ずつ、そろっており、長短・強弱うまく均り合っていなければならない。
     それは、たとえば机の脚が、3本または4本、長短・強弱うまく均り合っていなければ、うまく安定しないのと同様である。
     だが実状、多くの場合、熱量源に比べて、蛋白源がいささか短く弱く、調整源が極めて貧弱で、栄養上著しく不完全不調和となっている。病気にかかり易く、治りにくい人、どうも丈夫でない人が多いのは、このためである。
     熱量源には、米・麦その他の雑穀、サツマイモ・ジャガイモその他の芋、砂糖・菓子その他の甘味、油脂、種実がある。
     蛋白源には、大豆その他の豆、魚、肉、卵がある。
     調整源には、牛乳その他の乳、青野菜、黄野菜その他の野菜、ミカンその他の果物、海草がある。
     そして各食品には、それそれ、栄養成分上、著しく優劣の差があり、食物の構成上、適不適の差がある。最も優れており、しかも適切なものが、調整源では青野菜であり、蛋白源では大豆であり、熱量源では芋である。しかも、これらは、比較的、安価であり、入手も容易である。
     芋・大豆・青野菜を、毎日毎度の食物の主要三脚としている、というと、毎日毎度、さぞ味気なく、楽しみが少ないことであろうと、同情してくれる人が多い。
     だが、同情ご無用だ。目に見えて体が丈夫になるだけでなく、これくらい、互いによくあって、おいしく食べられるものはないのだ。そして、人々が、ご馳走だと思っているものが、別にそうとは思われず、むしろアホくさくもなるのだ。

     (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返しお話しになっていること、これに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。 




03-02. 食養生についての断想(2) 

     友成 左近 

     人々だれでも、病気にかかれば、なんぞ早く治るテはないかと求める。だが、それ相応に、みずから生活に節制をつとめ、とりわけ食養生には、正しく上手に心がけて努力せずに、安直に治るテはない。

     病気がうまく治るかどうか、ということは、その病類や程度にもよるが、医師の診療と患者の養生とハタの配慮によってきまる。患者みずから養生を怠り、ハタもロクに配慮をせずに、ヤブ医者メが、といわれては、医師こそ、いい迷惑だ。

     医師は高度に発達した技術をもって診療にあたっているのに、これをうけてたつ患者は、それほど発達した養生につとめているようには思われない。船に乗ったら船頭まかせ、病気になったら医者まかせ、といっても、みずからつとめなければならない養生が、よいかげんであっては、とうてい病気はうまく治らない。医師の診療と患者の養生とは、あたかも車の両輪のようなものである。

     診療をうけて、たとえ医師が、養生とりわけ食養生について細かく注意しなかったからといって、患者みずから、養生につとめなくてもよい、というわけではない。この頃は分業の世の中である。医師の受けもちは、主として、診察して、薬や注射、処置や手術で治療することであって、養生は患者の領分だ。入院患者以外は、いわば全く患者みずからの責任と心得で努力しなければならない。食養生まで細かく注意し指導するのは、この上もなく親切な医師である。

     患者のうちには、ときに、ヤタラと病状や病因や治癒の見込について、さらには診療方法やその理由についてまで、こと細かく聞きただす人がいる。こんな人は、とかく、ただ、そんなことを聞き知っただけで、あたかも「医学博士」になったつもりで、ことをすませてしまう。それも、病む身とあれば、ムリからぬことであろうが、カンジンなことは、診療に即応した養生法を聞いて、その通りにつとめることだ。

     療養中の患者は、それ相応に、みずから心がけて、いろいろと養生につとめているわけではあるが、とくに食養生については、多くの場合、習慣的にか流行的にか、意外に間違った点が少なくないようだ。オモユ・オカユに塩・梅干は、その最たるものだ。

     医師の診療技術は著しく進歩してきているのに、患者の養生法はそれほど進歩しているようには思われない。これは、いったい、どういうわけであろうか。こんなことを研究し普及しようとしても、儲けにならないからであろうか、人々が本気になって受け入れないからであろうか。

     病気がながびいて療養にイライラしてきた人には、よく「イノれ」「クスれ」といって、はげますわれわれは、さらに「アオれ」と付け加える。だれしも、病気がながびいてくると、はたして治るんだろうかと心配する。この心配は療養を著しく妨げる。ここで大切なことは、必ず治る、治してみせる、という希望と自信と闘志をもつことだ。
     そして実際、具体的に療養に精出すことだ。まず、神に加護を祈り求めて、それを堅く信ずることである。と共に、医師の診療を信頼して、どんなに辛くても、すなおに受け入れることである。と同時に、決して怠らずに、医師の指示に従って、みずから養生につとめること、とりわけ青汁は、たとえ飲みずらくても、せっせと飲んで、本格的に食養生に取り組むことだ。

     いのち と べんとり は じぶんもち、と古老は教えている。なるほど、そうだ。健康も生命も、これを保っていくには、いろいろと人さまの世話にならねばならないが、ひっきょう、自分自身で責任をはたさなければならない。そして、それには、いろいろと心がけねばならないが、まずもって食養生につとめなければならない。これも、いろいろ人さまの世話にならねばならないが、ひっきょう、自分自身が責任をもって、よく考えて工夫し実行しなければならない。

     (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返しお話しになっていること、これに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。 




03-03. 食養生についての断想(3) 

     薬は、諸刃の剣のようなものである。よく効く薬ほど、使い方を誤ると、有害有毒作用も、またはげしい。平素の食べ方がひどく間違っている人は、必ず、あちこちと体具合が悪い。そして、とかく薬をのんで治そうとする。だが、それが効くのは、一時的であるか、気やすめである。そこで、もっと沢山に、もっとよく効く薬を、となる。そうして、いよいよもって、体具合が悪くなり、ぬきさしならぬ状態となる。

     病気の治療に薬を使うのは、錠前を開けるのに鍵を使うようなものである。合い鍵でなければ、うまく開かない。合わない鍵を、しかもムチャに使えば、錠前までこわしてしまう。
     どんな錠前でも開く万能合い鍵のようなものは、青汁を取り入れた食養生である。正しく上手に行なえば、どんな病気でも必ず治る。それには日にちがかかるが、効果は確実である。へいそ間違った食べ方をして病気にかかっている人が、よく効く薬をのむのは、あたかも腐った材木に大きな釘を打ちこむようなものだ。いっこうに効き目がないだけでなく、体までこわしてしまう。
     まずもって、正しい食養生が肝要である。

     高血圧は、たとえていえば、子供の木のぼりのようなものだ。
     叱れば(薬をのめば)おりてくるが、また、すぐ、のぼる。ムリに引きおろそうとすれば(よく効く薬をのめば)ケガをさせることがある。ほかに楽しい遊び場をつくってやれば(正しい上手な食養生をすれば)喜んでおりてくる。そして、もうメッタにのぼらない。
     ガン・高血圧・動脉硬化・糖尿病・胃潰瘍・神経痛その他いろいろな「成人病」は、もともと、老令となるにつれ、やむをえず体が衰えて、かかる老人病である。それなのに、この頃は、中年、いや壮年で、かかり、また青年でも、かかるようになっている。

     その主な原因は、平素の食物が、栄養上著しく不完全不調和であり、さらに、そんなものを余計に食べすぎ、その上、食品添加料を使った既成の加工食品や、農薬その他で汚染された食品で、有害有毒物まで多量に食べこんでいるため、大切な臓器が、意外に早く、くたびれてしまったことだ。
     まるで、この頃の食べ方は、人を使うのに、マトモに食べさせもせず、しかも危険な仕事にコキ使っているようなものだ。
     肝臓病・腎臓病あるいは高血圧・動脉硬化・糖尿病・胃潰瘍・神経痛といった厄介な病気は、多くの場合長い間、栄養上不完全不調和な食べ方をし、その上、有害有毒物まで多量に食べこんだあげくに、かかるものだ。
     こんな病気を、クスリかなにかで安直に治そうとしても、それはムリというものだ。それ相当に日にちをかけて、安全な食物で完全栄養をはかり、だんだんと治していく以外に妙手はない。
     「カゼは万病のもと」といわれている。この言葉は、ふつう、カゼをひくと、これが原因となって、いろいろな病気にかかるぞ、ひかないように、こじらさないように、という意味に解しているようである。
     だが、もっと深く考えてみる必要がある。カゼをひくような体は、もともと栄養が悪く、抵抗力が弱いのだ。いろいろな病気にかかる素地があるのだぞ、もっと食養生その他に気をつけて、からだ全体を丈夫にするように、という意味だ。
     「便秘は万病のもと」であるが、多くの人々は、下痢にはヤタラと心配するがこの便秘には、そう心配しないようである。だが、下痢は、その性質によって事情は異なるが、おなかの大掃除である場合が多い。けれども便秘は、逆にゴミをためこんでいるようなものだ。
     そして、このゴミは、いろいろと有害有毒作用をあちこちに及ぼして、病気を引き起こすのだ。
     それだけではない。便秘は、ひとつには、毎日おちついて、すっかり排便しないため起る。いわば習慣的なものでもあるが、もともと、平素の食物に間違った点が多いため、栄養が悪くとりわけ胃腸がタルンでいるために起こるのだ。
     これは、いうまでもなく、いろいろと病気にかかり易い素地である。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返しお話しになっていること、これに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。




03-04. 食養生についての断想(4) 

     毎日の食物に、あれこれと食品をとりそろえるのは、栄養に調和をはかるためであって、それは、たとえていえば、機械を組み立てるとき、必要な部品を必要数だけとりそろえるようなものである。
     もし必要な部品が一点でも必要数に足りないと、その不足分だけ機械の組立は完了しない。
     そして、組立中の機械と残った部品で仕事場がふさがれてくる。
     この頃、殆んどすべての人々の食物で著しく不足しているのは、青野菜であり、各種のミネラル、とりわけカルシウムと、各種のビタミン、わけてもA・B2だ。
     ために、せっかくとった熱量や蛋白質が十分利用されないだけでなく、未利用のものが体内にたまって、その処理が厄介となり、あれこれと病気にかかる素地となっており、労働も妨げられている。
     青野菜を、毎日できるだけ沢山、少なくとも500g、体重の1%以上とるように、すすめているのは、ひと口でいえば、こうだ。
     この頃、殆んどすべての人々の食物で著しく不足している、カルシウムその他のミネラルと、各種のビタミンとりわけAやB2を十二分に補なって、栄養に調和をはかるためである。
     それは、青野菜には、他のどんな食品にもまして、こうした成分が段ちがいに多いからであり、また、まだよく分かっていない大切な成分も多く、しかも、こうした成分がうまく調和しているからだ、
     そして、この青野菜を除いて、これに代わるものがないからだ。青野菜の不足した食物では、あさこち寸足らずの板切れのある桶のような体となる。
     たとえ見た目は大きくても、たいして役には立たない。どんな御馳走でも、タップリ青野菜を添えていないものを食べていると、やがては、エヤパイプがふさがり、オイルがきれて、ガタガタになったエンジンのような体となる。
     毎日毎度の食物で青野菜が不足しているのは、カマをたくとき、空気が不足して、うまくもえず、おまけにヤタラとけぶって、ススだらけとなるようなものだ。青野菜は、できるだけ新鮮なうちに、つとめて生のまま食べることが大切である。
     鮮度がおちれば、おちるほど、また、にたきをすれば、するほど、既知・未知の大切な成分が著しく損失していくからだ。
     煮たものばかり食べさせてみたら、成長が劣り、病気にかかり易くなった、という動物実験もある。
     食物はすべて、そうであるが、とくに生の青野菜は、よくかんで食べる必要がある。でないと、大切な成分がなにほども消化吸収せず、おまけに胃腸もいためるからだ。
     そこで、この青野菜を、よくかむ代わりに、予めすりつぶして、汁だけしぼりとり、不消化なカスを取り除いて食べよう、というのが青汁のねらいである。
     こうすれば、成分に多少の損失があり、味も少々まずくはなるが、500gが約400cc、2合となり、これを1日かけて飲むのは造作もないことであり、必要量だけの青野菜が、生で、胃腸もいためず、最高度に食用できるわけだ。
     青汁は、生の青野菜を、できるだけ沢山、少なくとも毎日500g、体重の1%以上食べこむ方便である。
     これが嫌いとあれば、とにかく青野菜を、それ相当量とり入れて、毎日の食物を根本的・全面的に改めるか、さもなければ、体具合が悪くても辛抱せずばなるまい。
     青汁は、たとえ納得がいかなくてもよい、疑いながらでもよい、とにかく毎日それ相当量のむことだ。
     そのうち必ず、だんだんと丈夫になる。というのは、青汁を取り入れた正しい食養生につとめたら、必ず丈夫になる、ということは、たとえ納得がいかなくても、疑問をもっても、まぎれもなく厳然とした自然の事実であるからだ。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返しお話しになっていること、これに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。




03-05. 食養生についての断想(5) 

     友成 左近 

     しっかり食べる、といえば、ごはんを沢山食べること、ごちそう、といえば、肉や魚や卵の多いこと、おいしいもの、といえば、甘いお菓子、けいきをつけよう、といえば、お酒、ということになっているようだ。
     だが、いずれも、すきれば、健康を損なう。青野菜が不足しておれば、なおさらである。青野菜を十二分に添えていない食物は、どんなすばらしいものでも、病気にかかる素地をつくる。
     毎日毎度、まずはさておき青野菜を、しっかり食べるように、すすめるのは、どんな食品でも栄養成分が不調和であるが、それに青野菜を、それ相当量ずつ加えたら、ただそれだけで、うまく調和するからだ。
     青野菜以外に、これに代わり、これに勝って、手近で、重宝なものはないのだ。
     「青野菜を生でしっかり食べて下さい」とすすめると、「はい、キャベツを生で沢山食べています」と答える人が少なくない。
     野菜のうちで、青野菜を金とすれば、キャベツは、銅といったところであるのに、野菜の値打についての理解は、ふつう、こういった程度なのであろうか。
     コーヒー代一杯を倹約して食品成分表を手に入れ、あるいは中学や高校の家庭科教科書でもよい、もう少し食物の性質を心得てほしいものだ。
     ことは、生命と健康にかかわることであれば。
     毎日毎度の食物に野菜果物が大切であるからといって、キャベツやリンゴといったものばかり食べていては、たいした効果はない。パセリがすぐれているからといって、ほんのちょんぴり添えてみても、同様である。
     カンジンなことは、質と量である。栄養成分上すぐれた良質のものを、それ相当量とり入れなければならないのだ。
     食養生に、せっせとリンゴを食べるのは、貯蓄に、一円硬貨をためるようなものである。無意味ではないが、成果は容易にあがらない。
     「青野菜を生でしっかり食べて下さい」とすすめると、「レタスなら」と答える人が少なくない。  レタスでも、けっこうではあるが、ただこれだけでは、ちょっとやそっと食べても、栄養上、効果は容易にあがらない、ということをアタマに入れておく必要がある。
     ホウレンソウを野菜の王様と考えるのは、東大卒業生を格別立派な人物と考えるようなものだ。
     確かに青野菜で、各種のビタミン、とくにAは多いが、カルシウムや鉄の吸収が劣り、おまけに、あまり沢山食べていると腎臓結石ができる危険があり、青野菜のうちでは、栄養上そう優れたものではない。それに、そううまいものでもない。
     大根を買って、ネッコだけ持って帰るのは、有名店で買物をして、包装した箱だけ持って帰るのと、あまりちがわない。カンジン・カナメなものを忘れている。
     キウリを青野菜と考え、しっかり食べて丈夫になろうとするのは、割箸を材木と考え、これを集めて住み家を建てようとするようなものだ。
     ひと口に野菜果物といっても、その栄養成分には、ピンからキリまである。
     最も優れているものは、パセリ・シソ葉・ニンジン葉・それからダイコン葉・カブ葉・コマツナ・キョウナ・シュンキクといった、なかのなかまで緑色の濃い青野菜だ。
     つぎが、ニンジン・カボチャ、それからミカン・カキ・トマトといった、なかのなかまで黄色のものだ。青野菜に比べると、はるかに劣るが、食べれば、それ相応に効果がある。
     最後が、キャベツ・ハクサイ・タマネギ・ダイコン・キウリ・ナス・リンゴ・バナナ・モモ・ナシ・ブドウといった白色のものだ。食べてムダではないが、効果はあまり期待できない。
     なお、各種のイモ・乾燥したマメは、野菜ではない。

     (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返しお話しになっていること、これに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。




03-06. 食養生についての断想(6) 

     友成 左近 

     「イモ・マメ・ナッパ、健康のもと」という合言葉のもとに、毎日の食物を、芋と大豆と青野菜を主要三食品として構成し、その他は、季節により、好みによって、ほどほどにあしらうこと。そして、米・麦や肉・魚は、つとめて控え目にし、また、砂糖は云うに及ばず、食塩も、できるだけ控えて薄味にすること。さらに、極力、既成の加工食品はさけ、原材料も、農業その他で汚染されていないものを使うこと。これが、われわれの知恵である。
     なぜ米にケチをつけるのだ。日本人は昔から米を食べてきているではないか。なるほど。が、ちょっと考えてみたまえ。昔は、玄米か半つき米。せいぜい七分つき米であったが、今は、白米だ。ビタミンが殆んどすべて無くなっている。それに、この頃の玄米や半つき米には、有毒な水銀剤農薬が多量に残存している。これは、どんなに洗っても、たいても、無毒化しないのだ。そして、だんだんと体内に蓄積して、肝臓その他をおかしていく。いったんおかされたら、治療が極めて困難である。

     米は確かに重宝である。だいいち熱量に富み、それに必要なビタミンもかなり多い。また、蛋白質にも富み、比較的良質でもある。さらに、保存や輸送にも好都合である。それに、米飯は、まことにおいしい。ただ塩をそえただけでも、けっこう食べられる。その上あっさりしているので、ハラ一杯食べられ、食欲のないときでも、お茶づけで流しこめる。
     だが、それがアダともなっている。おいしくするために、ますます精白して、ビタミンを皆無に近づけ、これはうまいと、タラフク食べ、しかも荒がみとなっている。その上、他にご馳走があれば、ますます沢山食べ、面倒くさいとあればただこれだけですます。こうして栄養を著しく不完全不調和にしている、「ひいきの、ひきたおし」にしないことが肝要である。でなければ、思い切って米食はやめることだ。

     第一次世界大戦後のドイツで、まず小麦粉が出まわり、つぎに肉類も出まわるようになっても、なお国民の栄養状態はよくならなかった。だが、ジャガイモが出まわるようになって初めて、よくなってきた。これは思うに、ドイツでは、土地柄、野菜とくに青野菜が少なく、小麦粉や肉類では、青野菜を多量にそえなければ栄養がうまく調和しないのであるが、ジャガイモでは、それほど多量にそえなくても、うまく調和がとれるからであろう。
     夏まけに「土用まむし」といって、ウナギ丼を食べる習慣がある。いうまでもなく、一度や二度、ウナギ丼を食べたからといって、夏まけした体に元気がつくわけではない。それがといって、しょっちゅう、こんなものばかり食べていると、体がダメになる。なるほどウナギには、蛋白質と脂肪と一部のビタミンは豊富であるが、やはり青野菜をウンと添えなければ、栄養上不調和である。ウナギ丼となれば、ウナギよりも、さらに不調和な白米飯が加わるので、いよいよもって不調和なものとなるからだ。

     牛肉・豚肉が高くなったと不満をいいながらも、あい変わらず買って食べている人が少なくない。これはいささか知恵の足りない不満ではあるまいか。でなければ、食物の好みが狭く、しかも好みに頑固なのだ。大豆や豆腐・凍豆腐・納豆その他の大豆製品を活用すればよいのだ。大豆は、「畑の豚肉」といわれているように、栄養上、牛肉や豚肉に比べて、勝っても劣らないのである。そして、年中、安価で、おいしく食べられる。

     肉・魚などの動物性食品は、ぜひ食べねばならない。それは、動物性蛋白因子が、生理上、必要不可欠であるからだ、と堅く信じている人が少なくない。なるほど理由は、その通りであるが、だから、というのは早合点だ。だれでも、腸内には、細菌という名の有益な動物が無数に飼われており、これで、けっこう用が足りるのだ。栄養という点からいえば、とくに青年期をすぎれば、肉・魚などは焼いて食べなくてもよい。それよりも、調和のすぐれた、しかも良質な蛋白質の多い大豆を、十分に上手に、活用する方が賢明である。でないとすれば、かって、精進料理だけ食べていた仏僧が、身心とも健康でしかも長命であったことに、説明がつかない。

     疲れたときには砂糖湯、といわれている。だが、そこには条件があるのだ。めまいがするほど、ぶったおれるくらい、体がくたびれたときには、確かに効果がある。それは、消化吸収も熱量発生も早いからだ。けれども、そこに、熱量発生に必要なビタミンが十分あってのことである。これが不足していると、一時は元気がでるようであっても、まもなく逆に、ひどく疲れてくる。とくに冬は、ひどく冷えこむ。いったい、甘い菓子は言うに及ばず、料理や飲み物に砂糖をヤタラと使っていると、万病の素地ができる。こんなものは、栄養的には不必要である、といってもよいのだ。

     塩分は生きた体に必要不可欠であり、食塩は味つけに重宝である。だから、といって、すぎれば、いろいろと厄介な病気の原因となる、だが、これを深く気にとめていない人が案外と多いようだ。各食品には、それそれ、もともと塩分が含まれているのだ。とくにひどく汗をかかない限り、食塩は、なにほども必要でないくらいだ。とくに青野菜を十二分に食べておれば、ほんの僅かの食塩でも、こと足りる。野生の動物は、別に食塩をとっていないではないか。

    (付記)
    この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返しお話しになっていることこれに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。 




03-07. 食養生についての断想(7) 

     友成 左近 

     食改善は、おいしく食べられる、不必要な手数をはぶく、食費がかさまない、といったことをねらいながら、必ず常に、栄養の向上を的確にねらっていなければならない。ことと次第によっては、一時、栄養の向上だけをねらい、その他はそう深く考えずに、工夫しなければならないことも起こる。
     食改善といい、栄養の向上といえば、やれ熱量を、やれ蛋白質をと、その増量をすすめている向きがある。だが、これは、いささかピンはずれではあるまいか。だれでも、カネさえあれば、米・麦・芋・砂糖・油や大豆・魚・肉・卵などは十分食べ、熱量や蛋白質に不足することはまれであって、これは食改善以前の社会保障の課題である。家計の貧富にかかわらず、おしなべて、その増量をすすめなければならないのは、カルシウムと各種のビタミンであり、牛乳・野菜・果物・とりわけ青野菜である。
     この頃、どことも、熱量や蛋白質に比べて、これが著しく不足しているからであり、青野菜は、数多い食品のうちで、これがダンちがいに豊富であるからだ。にもかかわらず、この青野菜は、意外に軽視され、また食わずぎらいに、きらわれている場合が多いからだ。
     国民栄養の現状を説明するとき、栄養摂取量を栄養基準量とジカに比較している場合があるが、ちょっと合点がいかない。
     これは、あたかも、下駄ばきのまま身長を計っているようなものだ。栄養基準量は、口に入れたときの数値であるのに、栄養摂取量は、調理前の食品に含まれた栄養分の数値であり、栄養分によって著しく損失していくものがあり、これは口に入らないからだ。
     栄養摂取量を栄養基準量と比べてみるとき、調理による損失を考慮に入れねばならない。熱量と蛋白質はあまり損失しないが、カルシウムと各種のビタミンは著しく損失する。その程度は、栄養分により、また食品により調理法により、さらに食べ残し方によって、それぞれちがっているが、おおざっぱにいって、30−50%以上である。
     これを考慮に入れたら、カルシウムと各種のビタミンが著しく不足していることが、よく分かる。
     栄養の向上をねらって食改善をするには、まずはさておき、青野菜を十二分にとって、著しく不足しているカルシウムと各種のビタミンを補ない、栄養摂取に調和をはかることが肝要である。
     これを忘れて、熱量や蛋白質を増量するのは、あたかも、空気窓のふさがった七厘に、ヤタラと炭をつぎこむようなものだ。カルシウムといいビタミンといい、これは、熱量や蛋白質と違ってどんなに沢山とっても別に差し支えはなく、多ければ多いほど栄養の向上に役立つ。
     ただし、これは、栄養剤ではなく、ふつうの食物、とりわけ青野菜でとる場合だ。といって、青野菜も、品種や栽培や食べ方などに、それ相応の注意が必要であること、食べ方としては、生のまま、よくかんで食べること、その方便として、青汁として飲むのが、最も有効適切であることは、いうまでもない。栄養基準量といい食糧構成基準といい、また栄養摂取の現状といい、それは、日本人全体の総平均である。われわれとしては、これを手がかりにして、めいめい、体具合や労働事情に応じて、個別に食改善を工夫するわけだ。とはいっても、実際、どんなものを、どれくらい、どうして食べたらよいか、ということになると、まことは厄介面倒である。けれども、ごくおおざっぱにいって、青野菜を、毎日、体重の1%以上、それも青汁にしてとり、その他は、身についた食習慣に従い、食欲に応じ、腹八分にしたら、大きな間違いはあるまい。
     (付記)この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が度々お話しになったこと、それに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。




03-08. 食養生についての断想(8) 

     友成 左近 

     病気で診療をうけているときでも、また病気を予防するためにも、あるいは、毎日よりいっそう仕事に精出したく、もっと肌つや美しくなりたいときでも、また、丈夫な赤ちゃんを生んで、さらに丈夫に育てるためにも、あるいは、心身ともに健やかに長生きをするためにも、およそ健康の土台は完全栄養である。
     熱量と蛋白質を、必要なだけ十分とると共に、これが体内で利用されるとき、なくてはならない各種のミネラルと各種のビタミンを十二分にとって、その間に調和を保つことである。


     栄養摂取の実状は、熱量と蛋白質は、ほぼ必要量だけはとっているが、一部のミネラル、とりわけカルシウムと各種のビタミンが著しく不足している人々が極めて多い。
     米・麦・芋・砂糖・油と大豆・魚・肉・卵などは、それ相当に食べているが、牛乳・野菜・果物・海草などを、それ相応に食べていないからだ。
     わけても青野菜が著しく不足しているのだ。他のどんな食物にも比べて各種のミネラルと各種のビタミンが、そろって、ダンちがいに多い青野菜を、なにほども食べていないのだ。

     不足しているミネラルやビタミンを補なうため、いろいろな栄養剤が売り出されている。けれども、これにたよって完全栄養をはかろうとするのは、ムリというものだ。栄養剤というものは、科学的に究明されたもの、それも、その一部分であるが、栄養に必要なミネラルやビタミンは数限りなく、究明されたものは、そのほんの一部分であるからだ。
     それだけではなく、栄養剤は、使い方を誤まると、ときに副作用を起こすこともあるのだ。


     完全栄養をはかるには、いたずらに栄養剤にたよることなく、昔から、だれでも食べてきている青野菜を、十二分に食べることが賢明である。
     これ以外に、これに勝る妙手はない。


     完全栄養をはかるには、さしあたり、青野菜を、毎日、体重の1%以上食べる必要がある。それも、つとめて生のまま、よくかんで食べることが大切である。とすると、これは、青汁にして飲まねば、とうてい食べきれず、たとえ、よくかんで食べても、胃腸をいためる恐れがある。


     青汁は、完全栄養をはかる最も有効適切な工夫であり、最も確実な決め手である。だが、これは、そうおしいものではない。飲み始めの頃は、ちょっと飲みづらく、飲みなれても、格別おいしいものとはならない。


     青汁がアオくさいのは、魚がサカナくさいのと同様である。なれたら、それがあたりまえとなり、別にそうハナにはつかなくなる。
     それは、この頃、トマトを、アオくさいといって、食べない人がなくなっている通りである。戦前、それも大正年間は、だれしも、アオくさいといって嫌ったものだが。

     少々まずくても、あえて青汁を飲み、かつ飲みつづけるのは、たとえば、体があちこち痛くても、みずから、すすんでスポーツにはげむようなものだ。
     だんだん体が丈夫になるだけでなく、毎日、青汁を飲まねばモノ足りなくなる。


     食習慣は、たとえば城壁か要塞のように、極めて堅固なものであり、青汁は、これを改善して完全栄養をはかる突破口であり、橋頭堡である。
     これを確保するには、それ相当の覚悟と努力が必要であり、これを怠っていては、いつまでたっても、食習慣は改善されず、完全栄養ははかれない。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が度々お話しになったこと、それに学んで参会者がみずから体験して話し出したことどもです。(友成)




03-09. 食養生についての断想(9) 

     友成 左近 

     うまいものは身につく、という言葉がある。確かに食欲をそそり、唾液も胃液もよく出て、消化はよい。
     だが、好みにまかせ、うまいものばかり食べていて、それで健康が保たれるわけのものではない。
     ここが、人間と自然の動物のちがうところだ。

     * 


     自然の動物は、栄養上なにが大切か、本能的に心得て、必要なものばかり好んで食べる。
     飼っているニワトリでも、大根葉と白菜をやると、必ず大根葉の方を食べ、白菜は見向きもしない。

     * 


     人間も、自然の動物と同様に、生まれながらに、食欲という生理的欲求を備えている。
     そして、栄養上なにが必要であるか、分別する本能も備えてはいるようではあるが、まことに微弱である。
     ために、これは、生後、養育され、生活していく間に、だんだんと心理的に着色されて、好みとなり習慣となって、はたらくようになる。
     その間、目も鼻も口も舌も、いたく迷わされてくるので、好みといい習慣といい、あまりアテにならないことがある。

     * 


     この子は生まれつき甘いお菓子が好きで、といって、こぼす親がある。
     じょうだん言っちゃ困る。自分が甘いお菓子が好きで、赤ちゃんのうちから甘いものを食べさせてきたからだ。
     しかも、そうこぼしながらも、なお甘いお菓子を食べさせて、さぞおいしかろうと喜んでいるからだ。

     * 


     目先といい鼻先といい口先といい、好みというものは、だんだんと変わっていくものであり、変えていくことができる。
     栄養上なにが大切か、よくわきまえて、たとえ嫌いでも、いろいろ工夫し努力して食べていけば、そのうち、それが、だんだんと好きになる。

     * 


     青汁は、だれでも、初めのうちは、およそ好みとはかけはなれたものである。
     だが、とにかく毎日のみつづけていると、やがては、そううまいものとはならなくても、体が要求してきて、毎日のまねば、もの足りなくなる。

     * 

     うまいものは身につく、というのは、目先・鼻先・口先がマトモにはたらく場合のことであって、お互い現に備えているものは、いたく迷わされて、マトモにはたらかなくなっている、ということを、とくと心得ていなければならない。
     また、これは、あれこれヤタラと調理して食べるのではなく、できるだけ自然のままに近いもので食べる場合である、ということも、とくと心得ていなければならない。
     でないと、厄介な病気にかかる素地をつくってしまう恐れがある。

     * 

     好みにもそい、おいしく食べられるように、献立や調理を工夫することは、確かに大切である。
     だが、栄養上、正しい上手な献立や調理につとめて、栄養に必要なものは、なんでも、おいしく食べられるように、体質をつくりかえ、好みを改めることが、さらに大切であることを、決して忘れてはならない。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が度々お話しになったこと、それに学んで参会者がみずから体験して話し出したことどもです。
    (友成)




03-10. 食養生についての断想(10) 主として育児について 

     友成 左近 

     小さく生んで大きく育てる、という言葉がある。
     別に決して、未熟児のように小さいのではなく、骨や筋肉はいうに及ばず、内臓も血管も十分発育しているが、よけいに脂肪をつけていない小柄な赤ちゃんを生め、ということだ。そして、ブタコンクールみたいな赤ちゃんコンクールには入選しなくても、筋骨のたくましい赤ちゃんに育てよ、ということだ。
     見た目には小さいが、実は本当に丈夫な赤ちゃんを生むには、米・麦・芋・油といったものや、大豆・魚・肉・卵といったものを、赤ちゃんの分まで十分とるだけではダメだ。決して忘れずに、牛乳・野菜・果物、とりわけ青野菜を、赤ちゃんの分まで、十二分にとって、母体の完全栄養をはかることが肝要である。
     それには、さしあたり、毎日、必ず、生の青野菜を500gいな700g以上食べること、青汁にして2合いな3合以上飲むことが大切である。丈夫な赤ちゃんを生むには、まずもって母体の完全栄養をはかることが肝要である。だが、これは、最大の努力を払って、安全な食品ではからなければならない。危険な農薬で汚染された食品、それから有害な添加物の多い既製の加工食品は極力さけることだ。

     いまひとつ、それほど必要でないのに、しかも医師に相談もせず、ムヤミと薬をのまないことだ。とくに効き目の強い薬は、必ず妊娠中であることをいって、医師の指図に従うことだ。白桃のように、みずみずしく、ふっくらとした赤ちゃんは確かにかわいい。だが、そう育てられることは赤ちゃんには、ちょっとありがたくない。脂肪がよけいにつきすぎており、それは不必要な重荷となるからだ。そうなるのは、人工乳や補食に、蛋白質もさることながら、もっと沢山ほしいミネラルやビタミン、野菜汁や果汁が少なく、もうそうは沢山ほしくない熱量源、甘いものが多すぎ、それか体内でよけいな脂肪にかわるからだ。

     本当に丈夫な赤ちゃんは、見た目には、ちょっと貧相くさいが、さわれば、なにかイシ・コツのように固く、しかもバネのように強い弾力性をもっている。それには、お母さんが青汁をしっかり飲んで完全栄養をはかり、栄養上申し分のない母乳を飲ませることだ。その上、赤ちゃんにも、できるだけ早くから、青汁を飲ませることだ。赤ちゃんにも、できるだけ早くから青汁を飲ませたら、本当に丈夫に育ち、その上、まことに意地がよく、育てるのに手がかからない。赤ちゃんの発育に必要なもの、そして赤ちゃんが本当にほしがっているものが十二分にそろうからだ。
     栄養上最も完全な母乳でも、しかも母体に完全栄養をはかった母乳でも、やはりミネラルの一部が不足しているのだ。子牛も、生後間もなく、青草を補なわねば、丈夫に育たないのをみれば、よく分かるであろう。赤ちゃんには、生後2週間もすれば、もう青汁をなめさせ、1ヶ月たった頃には小さじ1杯、3ヶ月になれば大さじ1杯、6ヶ月をすぎればカップ半分以上、いな飲みたいだけ飲ませたいものである。

     赤ちゃんにも青汁を、というと、あんなまずいものを、かわいそうにと、びっくりする方もあろう。だが心配ご無用である。それは、好みがいたくゆがめられている親の思いすごしであり、まだ好みの純な赤ちゃんは、からだに必要なものは、なんでも、おいしく、ほしがるのだ。といって、初めてなめさせたときは、ちょっとヘンな顔をするが、間もなくなれ、なれたら、いくらでもほしがるようになる。
     赤ちゃんに、できるだけ早くから青汁を、とすすめると、あんなものをと、いっこうに聞き入れないが、果汁は、そうつとめている方は多い。いったい、果汁はよいが青汁は悪い、というリクツは、どこにもないはずである。それどころか、栄養上ケタちがいに青汁がすぐれており、赤ちゃんは大カンゲイなのだ。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が度々お話しになったこと、それに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。




03-11. 食養生についての断想(11) 主として安全食について 

     友成 左近 

     だれでも、かびのはえたもの、くさったものには、よく気をつけるが、かびもはえないし、くさりもしないものには、意外と平気である。それどころか、とかくこんなものを重宝がる。だが、よく気をつけなければならないのは後者である。かびがはえないように、くさらないように、有害有毒な添加料で加工してあるものが少なくないからだ。そして、これは鼻や目や舌で容易に判別できないからだ。
     それに、前者の起こす中毒は、急性であって早く気がつき、治療も比較的容易であるが、後者の起こす中毒は、慢性であって容易に気がつかず、気がついても治療がまことに厄介困難であるからだ。食べ物は、もともと、かびもはえ、くさりもするものである。少々面倒くさくても、かびもはえ、くさりもするようなものを食べねばならない。といって、かびのはえたもの、くさったものは食べないことだ。

     この頃、肝臓病・腎臓病その他厄介な病気にかかっている人が、目立ってふえてきた。その主な原因と考えられるものは、公害による生活環境の不衛生もさることながら、毎日の食物に青野菜が著しく不足して、栄養が極めて不調和不完全であること、その上、ほとんどすべての食品が、多かれ少なかれ、有害有毒な農薬に汚染されていること、また、いよいよ多量に利用されている既製の加工食品に、ほとんどすべて、多かれ少なかれ、有害有毒な添加料がはいっていることである。

     この頃、まことに多くの人々の食べ方は、あたかも人を使うのに、ロクに食わせもせずに、危険な仕事にコキ使っているようなものだ。肝臓・腎臓その他が大ケガをするのは、当然の成り行きである。ヤタラと色をつけたり、まっ白にしたり、甘味をつけたり、香りをつけた加工食品を、さもおいしそうに食べている人が少なくないようだ。
     ほんとうにおいしいものであろうか。いや、もっと重大なことに、肝臓・腎臓その他を侵す有害有毒物がかなりはいっていることが、よく分かっていないのであろうか。原材料に残存する農薬であれ、加工食品に含有する添加料であれ、それは、たとえ有害有毒物であっても、ごく微量であり、別にそう心配する必要はあるまい、と考えている人が少なくないようだ。

     厚生省あたりも、そう考えて許可しているようである。なるほど、一つ一つの食品については、そうかもしれない。けれども、どんなに微量でも、有毒物は有毒物である。そして、それが、ほとんどすべての食品に含まれているので、その総量はかなりのものとなる。
     しかも、これを毎日食べこんで、体内に蓄積していくのだ。農薬であれ食品添加物であれ、その有毒作用の著しいのは、胎児・乳児・幼児・少年といった成長期であり、病弱者である。妊婦はいうに及ばず、子供や病弱者の食物には、極力こうした有毒食品をしめ出すことが肝要である。

     ヤタラと既製の加工食品を使って炊事をするのは、あたかも白アリを床下にほおりこむようなものだ。気づかぬままに、だんだんと肝臓・腎臓その他カンジン・カナメなところがやられ、気づいたときには、厄介千万となっている。
     この頃目立ってふえてきた、いわゆる成人病の予防にも治療にも、安全食品による完全栄養が極めて有効であり、また必要不可欠である。だが、極めて多くの人々は、これに意外と無関心であり、容易に薬治にたよりすぎる。

    (付記)
     この断想は、毎度の青汁教室で、遠藤先生が繰り返し強調されていること、これに学んで参会者が自ら体験して話し出したことどもです。




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