健康と青汁タイトル小
 医療と医者・療法・長寿法インデックス

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3-1. それでも無駄か

     医学博士 遠藤 仁郎 

     「目の縁に、脂肪のかたまりのような斑ができたので、とって欲しいと皮膚科を訪ねた。診察の結果、血液コレステロールが多いためだからと、内科へまわされた。内科では、また血液の検査をし、心電図をとり、さらに糖尿の検査、胸のX写真、眼底検査をうけるよう、と指示された。診断の正確を期するためには、精密検査が必要なことはわかる。しかし、余りにも度がすぎはしないか。初めは、ちょっとした処置をしてもらうつもりが、このままでは、どこまでエスカレートするのか、と疑問を生じ、腹立たしくもなって、診察を中断した。こういうことは「無駄」とあえていえると思う。この無駄のために、医者、看護婦、病院関係者は勿論のこと、患者にも多大の経済的、時間的および労力的浪費をもたらしている結果となっているのではないか。勿論このために、病院だけは混雑し繁昌するでしょうが。」

     という手きびしい手紙が舞いこんで来た。一応いかにもごもっとも。病院というところは、随分無駄なことをしているように思えるかも知れない。しかし、実はこうだ。この方の目のあたりの斑は、血液コレステロールが高いために来た“黄色腫”というもの。だから、血液コレステロールを減らす方法を講じれば、それで済むことだ。この方も、満足されたのであろう。
     しかし、今の医学は「予防」ということを大切に考えているので、この方のようにコレステロールが560という正常(200〜250)の2倍以上も高いと知った内科では、そういう高コレステロールと関係のふかい、大事な病気がかくれていないかどうかをしらべておくべきだと判断した。心電図は、高コレステロールで来るもっとも恐ろしい心臓冠状動脉の病変のてがかりをさぐるため。糖尿病もよく一緒に来るものだから。また、胸のX検は大動脉の、眼底検査は脳血管の動脉硬化の検査だ。もちろん、診断のむつかしいものでは、あらゆる可能な手をつくすので、多くの検査を、また繰りかえすこともある。
     が、これは、この方もいわれている通り、診断の正確を期するためには全く止むをえない。けれどもまた、この方のばあいのように、あるいはかくれているかも知れない病気の発見のために手をつくすのも、病院のつとめだと信じているからだ。それでも、あえて「無駄」ときめつけられれば、それまでだが、病院は、決して、乏しい人員を総動員してまで、いたずらに忙しくしているものでも、繁昌するために無駄な検査をしているのでもないことだけは理解してほしいものだ。


3-2. 青汁との出会い

    京都市 K.U. 

     大学にはいって6年目。医学というものが少しはわかりかけた気がしますが、現状を知れば知るほど、臨床医の無力さを感じさせられます。公衆衛生の統計を見るにつけても、「結核は結核菌がおこす病気である」というよりは、むしろ、「結核は貧困がおこす病気である」といった方が、よほど正しいのではないでしょうか。
     便利さや、合理性とひき換えに、大変な危険をかかえこんで生活することを余儀なくされている現代。医師が治療のみならず、いやむしろ、予防に関心を注ぎ、遺伝的にある程度運命づけられた体に対して、発病を迫る種々の因子――その中でも、とりわけ、水、空気、食品といったものを正して、健康を維持しようという考えをとることは、極めて大切なことであると思います。先生が今までやってこられたことの意味を、私は私なりに、このように理解しているわけなのですが…。とにかく、青汁のと出会いは大変有意義でした。


3-3. 養気調息法

     医学博士 遠藤 仁郎 

     むかしから、養気調息ということが健康長寿法としていわれている。
     坐禅や静坐で、呼吸をととのえ、精神の安定・統一をはかって、健康増進、治病促進に役立てよう、というもの。

    正坐
     まず正坐(静坐)する。
     要は姿勢を正しくするのだが、坐禅ではとくにきびしく規定されており、道元禅師正法眼蔵の坐禅儀には、こうある(要点だけ)。
     坐禅は静処よろし。
     坐蓐あつくしくべし。
     坐禅のとき、蒲団をしくべし。蒲団は全跏にしくにあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。
     あるいは半跏趺し、あるいは結跏趺坐す。
     結跏趺坐は、みぎのあしを、ひだりのもものうえにおく。ひだりのあしを、みぎのもものうえにおく。あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。
     半跏趺坐は、ただ、ひだりのあしを、みぎのもものうえにおくのみなり。
     右手を左足のうえにおく、左手を右手のうえにおく。
     ふたつのおほゆびさき、あいささう。さしあわせたるさきを、ほそ(臍)に対しておくべし。
     正身端坐すべし。左へそばだち、右へかたぶき、前へくぐまり、後へあふぐことなかれ。かならず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべし。
     舌は上のあぎとにかふべし。
     息は鼻より通ずべし。
     唇歯あいつくべし。
     目は閉ずべし。云々

    調息
     次で呼吸をととのえる。
     静かな正しい腹式呼吸。
     彭祖のいう、鴻毛を鼻先につけても動かぬほどの、綿々として絶えないこと縷のごとき呼吸。
     あるいは、鼻中まったく気息なきがごとき呼吸。すなわち、一息おのずから止み、出でず、入らざるごとき呼吸(胎息)。
     それを下腹、気海丹田におさめる。
     これは、深呼吸をつづけていると、呼吸中枢の興奮性が下って、ついには無呼吸の状態になる―― それにちかい呼吸、というのであろう。

    養気
     そして、坐禅では公案をねり、健康法では健康長寿を念ずるわけだが、それには心の安定、無念無想の境地にいたることが大切な条件とされている。
     深呼吸をつづけることによっても、しだいに落ついて来るものだが、凡人のわれわれ、わきおこるもろもろの妄想を除き去り、精神を統一することはなかなかむつかしい。
     そこで、ともかく、ひたすら姿勢を正しくし、呼吸をととのえることに専念して、気の散るのを防ぎ、心を鎮め安定するたすけにしようというのであろう。
     坐り方や呼吸の仕方がひどくやかましくいわれているのも、合唱し、瞑目し、律(唾液)をのむ。あるいは、心を気海丹田におさめ、足心におけなどと定められているのも、すべて、精神を統一する方便というものだろう。そして、こうすることによって、健康を増進し、病気の治りをよくし、長いきもできるのだ、との念慮を凝集する。

     自隠禅師の内観法に、
     「吸ふ息で、全身の精気が気海に集り、吐く息で、体中の毒素がことごとく排出され、気海に集った精気は精錬されて丹田にみたされる。
     この精気には霊妙不可思議な力があると想像し、この精気はさらに吸気によって全身をくまなくめぐり、病原に向って集中し、霊妙なる威力を発揮する。
     かくして、病毒は駆除され、呼吸によって体外に排出され、血液は浄化され、体力増進し、抵抗力は強加されると、反復・念ずる。

     とあるのがそれで、つまりは、強力な自己暗示をあたえようというものであろう。
     学生時代、岡田式静坐法というのがあり、かなり評判もたかかった。
     何とか丈夫になりたいとあせっていた私は、早速とびつき、我流の真似ごとをやってみた。
     しかし、どうも、長つづきせず、これという効果もあげ得ないまま、やがてやめてしまった。
     したがって、この種の健康法について、とやかくいう資格はない。
     けれども、少なくとも、今日のように、落ちつきのない、不安定な、イライラしきっている、いわばノイローゼ時代に処してゆくには、こういう時期を持つことは、たしかに大切にちがいない。
     また、どこかに異常の感じられるとき、ただその部に精神を凝集するだけでも、あるいは、手をおいて念ずるのも、けっして無意味ではあるまい。(51・1)


3-4. 僻地の医療問題

     医学博士 遠藤 仁郎 

     僻地の医療問題がやかましくいわれる。
     国は大学をドンドンつくり、町村は苦しい財政をやりくりして、立派な診療所をつくり、ずいぶんの高給を奮発してまで、医者を迎えようと躍気になっている。
     やがて、若い医者があふれだし、病院の勤め口も、開業の場所もない、という状態になればともかく、現状では、なかなか思うようには行かぬようだ。

    もともと健康地
     そういう僻地は、もともと健康地。
     医者がいないのは、病気するものが少なく、医業がなりたたないからだった。
     そして、じっさい本当に、医者にいてほしいのは、めったにない急病のばあいだけ。
     それも、いまでは、道路はよくなり、車のないところや、電話のないところは、ほとんどないから、いざという時には、町や市の診療所なり病院に行くこともでき、医者を迎えることも容易になっている。
     だのに、医者のいないのが問題になるのは、やはり病人がふえ、医療の必要が切実になっているからだろう。
     なぜだろうか。これは、祖先伝来の、その土地に適した健康生活が忘れられ、あまりにも不自然・不合理な現代式生活にかわってしまったからでないか。

    運動不足
     まず、運動の不足。
     いぜんは、生活にゆとりがなかったので、みんな、よく働いた。
     どこに行くにも歩くほかなかったから、からだはよく動かした。
     いまは、一般に裕福になって、車が普及したので、歩くことは殆んどなくなり、毎日の仕事も、何かと便利になり、楽になったので、しだいに、からだを動かさなくなり、運動が不足して来た。

    食のみだれ
     が、より大きいのは食のみだれ。
     いぜんは、殆んど自給したから、乏しくもあったし、粗食。イモ・雑穀・豆類を主体とし、多量の野菜・山菜・海藻などで補っていた。しかし、食品そのものは絶対安全であり、良質でもあった。いまは、うまいもの、しかも、各種の加工食品がドンドン運ばれて来、食生活は都会なみにゆたかになり、贅沢にもなった。
     主食は白米飯か真白いパン・メン類。
     肉(獣鳥魚介)・卵・乳製品が多くなり、砂糖・菓子・酒の消費がふえ、イモ・雑穀・野菜類はへって来た。そのうえ、食品自体も、いぜんにくらべ質が落ちており安全でもなくなっている。

    主食品
    白米栄養的にもっとも劣っており、3倍量の良質ナッパをそえなければ完全にならない(半搗米は2倍、玄米は同量でよい)し、安全性にも問題がなくもない。
    麦類半搗米なみ。2倍量のナッパで完全になる。しかし、加工性麦は、おそらく白米と大差なかろう。小麦粉も、いまは殆んど漂白されており、加工品には添加物の心配もある。
    ソバ・雑豆類玄米なみ。同量のナッパで完全になり、農業その他の汚染もない(但し加工品は必ずしも安全でない)。
    イモ類半量のナッパで完全になり安全でもある。もっともすぐれた主食品。
    蛋白食品
    肉類獣鳥魚介とも、いずれも不完全食品、2〜3倍のナッパがないと完全にはならない。そのうえ、多くのものが汚染されている(農薬や蓄水産用薬に汚染された飼料、水質の汚染など)。加工品はさらに甚しい(各種の添加物)。卵は同量のナッパで完全、乳は1/10量のナッパで完全になるが、市販品は安全性に疑問がないではない。
    大豆同量のナッパで完全になり、安全。但し加工品ことに豆腐には安全性にいささか問題がある。

    野菜類
     野菜類は主食・蛋白食品に不足がちなミネラル・ビタミンの補給源だが、その目的にかなうものは良質ナッパだけ。それ以外は、いずれも、はるかに劣っている。
     なお、山菜はもとより、野菜類も、自然農法の行われていたむかしは、すべて良質であり、安全でもあった。しかし、いまは、化学肥料・農薬依存の栽培法になっているので、質的に劣ってきている(ミネラル・ビタミンが少なくなっているだけでなく、蛋白質も劣質化している)うえ、危険なものにさえなっている(農薬の残留・加工品には添加物)。
     その他、調味料にも、いまや、純正・安全なものは殆んどなくなっている。また、調理の手をはぶくため、便利な既製食品、ことにインスタントものが氾濫し、また好まれてもいるが、栄養価の点でも、また、ことに安全性の点でも問題が多い。

     こう見てくると、現在、一般に好まれている、うまいものが、いかにも栄養豊富にみえながら、その実、栄養的に劣っている(熱量・蛋白質にはとむが、ミネラル・ビタミンに乏しい)だけでなく、有害有毒であるかも知れないこと。
     いぜん常食されていたものが、粗末にみえながら、その実、栄養的に、ずっとすぐれており、また、安全でもあったこと。そして、なぜ、いぜんの僻地の人が健康であり、医者を必要としなかったか。いまの僻地が、なぜ、不健康になり、病人がふえ、医者なしには安心して住めなくなってしまったかが、よくわかろう。
     とすると、いたずらに、医療にめぐまれないのを慨くよりは、村民こぞって、その土地に適した合理的・自然的生活を復原し、病気のなかった昔の姿にもどせばよいではないか。

    食の合理化・自然化
     まず、安全食品。環境にはめぐまれている。
     耕すところはいくらでもある。昔ながらの自然健康農法によって、良質かつ安全な食品をつくりだすことができる。
     山の幸も多かろう。安心して食べるもののない現在、これほど有難いことはないではないか。そして、ながい経験から生れた、祖先伝来の食生活にかえるのが、もっとも手とり早く、また、望ましいところではある。
     しかし、その多くは、もう、失われてしまっているかも知れないし、何分にも、うまいものがいっぱいの現在、むかしのままの乏しい生活にもどることは、不可能といってよかろう。また、その必要もない。
     けれども、なるべく、その良さを保存するという意味で、私どもが、多年提唱しているイモ・マメ・ナッパ・青汁食をすすめたい。

    イモ・マメ・ナッパ・青汁食
     それは、主食には、なるべく、栄養的にも安全性にもすぐれているイモ類、あるいは、雑穀・豆類とし、ひかえ目に食べ、蛋白食には、大豆あるいは安全な小魚類・卵・乳などを主体にし、それに、良質ナッパを主とする安全な野菜・山菜・海藻などを十分――主食・蛋白食品の2〜3倍以上)にそえ、ナッパはなるべく多くを生で食べ、青汁にして飲む、というのだ。
     こうして、栄養のバランスをよくし、ナッパ・青汁に十分余猶をもたせておけば、時にうまいもの(栄養的にも安全性にも、とかく問題の多いものだが)を食べてもよいし(もちろん、バランスをみださない範囲でではあるが)、悪食しすぎた後でも、つとめて、イモ・マメ・ナッパ・青汁食にするか、せめて青汁だけでもウント(少なくとも一日3合、もとのナッパ750グラム以上)のめば、結構、毒消しすることもできる。
     したがって、食生活は、窮屈どころか、かえって、ずっと自由にもなる。

    その他
     一般的の注意として、調理はなるべく簡単に、味つけはうすく。
     嗜好品には、市販の菓子類はなるべくさけ、自家製。あるいは、山野の果物類とし、酒・タバコはすぎぬよう心がけること。そして、できるだけ、よくからだを動かすこと。こうして、日常生活を合理化し自然化すれば、健康者はいよいよ健康。病人はへり、病気の治りはよくなるだろう。

    医者が出来ると病人がふえる
     それに、医者に用のなかった僻地にも、医者ができると、結構、はやるようになる、と聞いたことがあるし、ある町の町長は、病人を無くしようと病院をたてたが、病人はへるどころか、いつも満員。
     いくら拡張してもおっつかない、とこぼしていられたが、こういう皮肉なこともおきる。まさか、医者や病院が病人をつくるわけでもなかろうから、これは、どうも、住民が医者や薬にたよりだすと、つい、自らの健康管理がおろそかになるためにちがいあるまい。
     いずれにしても、誰れもが健康にさえなれば、医者や薬の必要はなく、僻地の医療問題などきわめて簡単に解決してしまう、というわけだ。

    (52・10)


3-5. 医療自明の前提要件(1)

     友成 左近 

     医療について当節、過信と不信が錯綜しているようです。が、こうしたことについて私たちは、常々遠藤先生にご指導いただき、めいめい及ばずながらもみずから体験して、互いに話し合っているので、多少ともその事由が分かって、いたずらに過信もせず不信もいだかずに療養につとめ、また病気の予防にも心がけるようになっています。で、はじめにそれを要約してみると、  まず医療は、そこに必要な養生に、当の患者がみずからつとめることを、自明の前提要件にしているのであるが、医者もさることながら当の患者が、これが自明であるためか、とかく忘れもし怠りもして、その効果が妨げられている場合が多い、ということです。従って、病気にかかったときには、医者にかかっているからといって、ただ安易に医療だけにたよることなく、そこに必要な養生につとめ、とりわけ実状最も重要な食養生には最善をつくすことが大切である、ということです。
     そしてこの食養生には、青汁食養生が実状最も的確であって、たとえどんなに嫌いでも、これに精出さなければ、せっかく食養生につとめても、予期したほどの効果があらわれない場合が多い、ということです。

    医療の性質
     そこで、まず医療の性質についてですが、これは、いかにも分かりきったことながら、生きている患者に施しているのであって、それは、生きた体は生きている限り、どんな病気にも抵抗し、もし抵抗しきれなくなって病気にかかっても、なお抵抗して、みずから治っていく体力を備えているからで、医療は、当の患者がこうした体力を備えていることを、当然自明の前提にしているのです。
     そしてこの体力は、これまた分かりきったことながら、当の患者がみずからつとめる養生によって養なわれるのであって、医療は、そこに必要な養生に、当の患者がみずからつとめることを、自明の前提要件にしているわけです。従って医療は、そこに必要な養生に当の患者が不案内であれば、というよりも不案内である場合が多いので、まずもってその指導をするわけです。が、ただそれだけでは、病気の治癒がおくれる場合が多く、さらには余病を併発することもあり、そして、その間の苦痛は耐えがたく、ときには不幸を招くこともあるので、必要に応じて、養生とは筋道のちがったクスリや手術といった手段を講じて、病気の治癒を促進するのであって、ふつう医療という場合は、こうした意味あいのものです。
     従って医療は、別に決して生きた体の治癒力や、それを養なう当の患者の養生に取って代わるものではなく、どこまでもそれを補助する性質のものです。それも、養生とは筋道がちがっているので、「クスリは毒」といわれているように、もともと生きた体に加えてはならないものなのですが、必要やむをえず加えるわけであって、こういう意味で医療は必要悪といった性質のものです。なお、予防面についても事情は同様であって、ふつう予防といえばワクチンですが、これも治療薬と同様に、生きた体の抵抗力を補強するために必要やむをえず使う性質のものです。

    過信や不信の事由
     ところで当節、この医療に過信と不信が錯綜しているのですが、まず過信が起こってきたのは、予防面もさることながら、とくに治療面で、それも、とりわけ治療薬に、以前とはダンちがいに有効なものが、最近急速にいろいろ新たに開発されたからでしょう。従って、医者にかかってクスリをもらえば、とりわけ注射をしてもらえば、そう苦しまずに、また、あれこれ面倒な養生もせずに、早く治る場合が多くなったわけです。それに、国民皆保険のもとに、人々だれでも、以前とははるかに容易に医者にかかれるようになったのです。ために、病気の予防もさることながら、かかれば、しごく安易に医者にかかり、そして早くよく効くクスリを、注射をと求め、そこに必要な養生はとかく忘れもし厭いもし怠りもする場合が多くなったわけです。
     それに、医学界においても、治療面の研究が急速にすすみ、これまでにない成果をあげているため、それに忙殺してか、とかく養生面の研究がおくれているのが実状です。従って医者も、つい養生面の理解と指導を怠りがちになっているため、患者のこうした傾向を助長しているわけです。
     そのうえ、今日の医療制度では、診療報酬が治療面に、とりわけ薬剤面に偏って、養生指導などは軽視されているので、医者としても、長時間かかる面倒な養生指導はとかく敬遠しがちになるため、なおさらに助長しているわけです。けれども医療は、もともと当の患者が、そこに必要な養生につとめることを前提要件にしているので、これではとうてい、信頼もし予期もしていた通りには治ってこない場合が多いわけです。
     それだけではなく、ますます進行もし余病も併発する場合が少なくないため、過信のあまり、つい不信をいだくようにもなるわけです。かといって、当面の苦痛は耐えがたく、他にあれこれたよっても、そこに必要な養生を怠っている限り、この苦痛はとうてい免れないので、やはり医療にたよらないわけにはいかず、ために信・不信が錯綜してくるわけです。


3-6. 医療自明の前提要件(2)

     友成 左近 

     前記のように医療は、そこに必要な養生に、当の患者がみずからつとめることを自明の前提要件にしています。が、当節、医者もさることながら、とくに患者が、とかく医療を過信して、この養生を怠り、ために予期した通りに治ってこないばかりか、ますます進行もし余病も併発して、つい不信をいだくようになっている場合が少なくないのが実状です。そして、この主な事由になっているのが、最近新たに開発された治療薬です。

    新治療薬の性質から
     そこで、この治療薬の効能や副作用といった性質から、医療自明の前提要件の意味あいをみると、要約つぎの通りです。なお、この治療薬は、その効能の性質から、サルファー剤や抗生剤などのように病原菌に直接作用して、病気をその原因から治療する文字通りの治療薬と、ホルモン剤や神経安定剤などのように、病気をその原因から治療するわけではなく、症状だけを軽快する対症的な治療薬に大別してみるのが適切です。

    文字通りの治療薬
     まず、文字通りの治療薬については、かつては死亡原因の最上位を占めていた結核の治療をみると、その性質がよく分かります。結核で死亡する場合が最近急速に減少したのは、ひとつには予防薬の開発や公衆衛生の向上などによって、かかる人が減少したからであり、もうひとつにはストマイやパスやヒドラジドなどの治療薬が開発され、また外科手術も発達し、それに早期発見・早期治療といった施策が普及したからです。
     ところでこの治療薬は、細菌とりわけ結核菌にはくっついて死滅作用を及ぼすが、体の組織細胞にはそれほどくっつかない、といった性質のものを活用しているのであって、ねらう結核菌は皆滅するが、生きた体には少しも害毒を及ぼさない、といった好都合なものではないのです。
     従ってこれは、たとえば環境衛生などで消毒するように、体内の結核菌を皆殺しにするのではなく、ある程度いためつけるだけにとどめて、そのさきは当の患者の備えている抵抗力・治癒力といった体力にまつ、というわけなのです。
     それに、病気の性質から、そう強くはいためつけることができず、またこの病気にかかったのは、もともと体力が劣っていたからであり、そしてそれは平素の養生に不行届が多かったからです。
     そこで結核の治療には、「結核療養所」という言葉からでも分かるように、ただ治療薬を使うだけではなく、以前ほどではないが、それ相当期間そこに必要な養生を指導するわけであって、患者としては処方通りに治療薬を服用すると共に、指導通りに養生につとめ、文字通り療養しなければならないのです。
     もしこの養生を怠ると、順調に治ってこないため、それだけ長期間治療薬を服用するようになります。そしてそうなると、結核菌に耐性がついて治療薬がききにくくなり、また、体内の有益細菌も体の組織細胞もそれ相当にいためつけられるため、体力が低下して、ますます治りにくくなるだけでなく、あれこれと余病も併発してきます。
     なお、こうしたことは、その他各種の治療薬についても同様であって、その効能や副作用と、そこに必要な養生の度合は、それぞれ多少とも異なってはいますが、この養生が必要不可欠であることには変わりありません。
     そして、この養生に患者がみずからつとめることを前提要件にして治療薬を使うのであって、そこに精出せば出すほど、それだけ順調に快復もし、余病の併発も防げることはいうまでもありません。そしてこうしたことは、予防についても同様であって、予防接種をしているからといって、平素の養生を怠ってはならず、ましてやまだ予防薬が開発されていない病気には、平素の養生以外に打つ手がないことはいうまでもありません。(つづく)


3-7. 医療自明の前提要件(3)

     友成 左近 

    対症的な治療薬
     ところで最近、死亡原因の最上位を占めているのは脳卒中や心筋梗塞などを引き起こす高血圧や動脈硬化とガンです。
     そして、こうした病気に劣らず目立って多くなっているのが、肝臓病や腎臓病や糖尿病などであり、生命には直接かかわらないが苦痛が耐えがたいのが神経痛やリウマチや中風あるいは神経症などです。
     そして、こうした病気の治療には、高血圧には血圧降下剤、リウマチには消炎剤、神経痛には鎮痛剤というふうに、最近新たに開発されたものがあれこれと使われ、それぞれすばらしい効果をあげています。
     けれどもこれは、前記の治療薬のように病気をその原因から治療するわけではなく、病状を一時軽快して、生命にかかわることを防ぎ、また苦痛を和らげるためであって、その間に当人の体力がみずから治していくのをまつのです。
     従って患者は、そこに必要な養生には、結核の場合などと同様に、いなそれ以上に精出さなければなりません。というのは、こうした病気にかかったのは、なかには病原菌の感染や遺伝的素質に多少とも基因しているものもありますが、主因は当人平素の養生に不行届が多く、ために体力が著しく低下して自己保全ができなかったからです。

     ところで、こうした対症的治療薬も、前記の治療薬と同様に、それぞれ程度の差こそあれ、いずれも体の組織細胞や諸器官の機能に害毒を及ぼすので(その事由は省略しますが)、必要やむをえず使うわけであって、これは必要最少限にとどめて、そこに必要な養生にこそ最善をつくすことが肝要なのです。
     が、なにぶん症状とりわけ苦痛がテキメンに和らいでくるため、つい治ったかのように思いちがいして、とかく養生を怠りがちになるのが実状です。
     また医者としても、結核治療のような伝統がないためか、この養生指導にとかく不行届である場合が少なくないのも実状です。けれども、それでは病気は治ってこないだけでなく、ますます進行もするので、服用をやめたら、またすぐ症状があらわれてくるため、しだいに連用もし多用もするようになり、ために副作用によって、いろいろ厄介な余病が併発してくるのは、前記と同様です。

    栄養剤
     なお最近、各種各様の栄養剤が新たに開発もされて盛んに宣伝されているためか、その効能を過信して利用している人々が少なくないようです。
     が、これがねらっているのはビタミンやミネラルやアミノ酸などで、これはめいめい毎日の食物でとるのが本筋であって、それでこと欠ぐことがあるのは、出漁などで長期間航海をするとか、治療上正常に食事ができないとか、ごく特殊な場合だけです。
     従って、もし栄養障害で病気にかかった場合は、まずもって毎日の食物を改めることが肝要であって、それまで緊急やむをえないときだけ一時服用するにとどめることが大切です。
     これを怠って安易に栄養剤にたよっていると、期待通りに病気が治ってこないだけでなく、ますます進行もし余病も併発するので(その事由は省略しますが)、これは堅くつつしまなければなりません。

    (つづく)


3-8. 医療自明の前提要件(4)

     友成 左近 

     前記のように医療は、そこに必要な養生に、当の患者がみずからつとめることを自明の前提要件にしています。
     が、当節、この医療が最近急速に進歩もし普及もし、とりわけ以前とはダンちがいに有効な治療薬が開発されたため、それに幻惑してか、とかく医療を過信して、ついこの養生は怠る場合が多く、ために予期通りに治ってこないばかりか、ますます進行もし余病も併発してくる場合が少なくないのが実状です。
     ところで、この養生は生活各面にわたっていますが、そのうち実状最も重要なのが(その事由は省略しますが)食養生であって、とくに最近は数多くの指導書が出版されています。
     が、このうち実状最も的確なのが青汁食養生であって、その他はそれそれ、それ相当の意味はあるものの(なかには、およそ無意味なもの、間違ってさえいるものもありますが)、いずれもカンジン・カナメなところがボヤケているのですが、それは要約つぎのようなしだいです。

    青汁食養生というのは
     まず、食「養生」というのは、いかにも分かりきったことながら、めいめい生来身につけてきた習慣のままの食事には、あれこれ不行届や間違いがあるので、そこを改めて、自分の体に、とりわけ病気にかかっているときは、その病状に応じて、各種の栄養分をもれなく必要なだけ十分とって、人為の及ぶ限り完全な栄養をはかることです。

    必須条件
    そこで「青汁」食養生では、まず第一に、
     数多い野菜のうち、各種の栄養分が、とりわけ各種のミネラルもビタミンも、もれなく最も多く、そしてそれが、とくにカルシウムが吸収しやすい良質青野菜を、その他の食物に見合って、必要なだけ十二分に、習慣食の10倍以上と増やすこと、従って、その最も有効適切な食べ方として、それを青汁にして飲むことを必須要件にして、これを食養生の大黒柱にしています。それは、習慣食で最も著しく不足しているのが、この良質青野菜であって、ために栄養が、各種のミネラルもビタミンも著しく不足して、ひどく不調和不完全になっているからです。
     そして、これは青汁にして飲めば、実状どんなに多量に飲んでも、栄養と健康に少しも差し障わりなく、多々益々弁ずるからです。
     なお、こういう良質青野菜は具体的には、コマツナやダイコン葉やシソ葉や、ふつうは家畜の飼料にしているカキバダイコンやシーオーナタネやケールなどであって、なかのなかまで緑色の濃いナッパです。が、このうちホウレンソウやフダンソウあるいはビートなどの葉などは、緑色は濃いが、シュウサンが多いため、カルシウムが吸収しにくく、また生のまま食べたら、それも青汁にして多量に食べたらなおさら、このシュウサンがそれ相当量吸収されて、腎臓などに結石ができるおそれがあるので除外します。
     そして青汁には、こうした良質青野菜でも、ふつうのダイコン葉やシソ葉あるいはヨモギなどのように刺激性の強いものは、飲みずらくもあり、また胃腸などにもさわるので、薬味程度であればともかく、それ以上には使わないことにしています。
    補足要件
    そして、そのうえで第二に、
     その他の食物で主としてエネルギー分をねらったものも蛋白質をねらったものも、それぞれ各種のミネラルやビタミンが実状できるだけ多いものに改めること、そして調理は、そうした成分ができるだけ損失しないように、また極力薄味にして、ほどほどに、そしてよくかんで食べることを補足用件にしています。
     それは、せっかく増やした良質青野菜の効果がそがれるからです。
     また、こうした食物は実状とかく必要以上に食べすぎがちなのですが、食べすぎると、それも荒がみすればなおさら、それに見合うだけの青汁を飲んでも、栄養と健康に差し障わるからです。
     そして、最近のように運動が不足すれば、なおさらであるからです。なお、前記のような食品として実状最も適切なのが芋と大豆であって、これにつぐのが未精白の米や麦と全体食の小魚や卵などです。
     また味つけの砂糖分や塩分は、栄養には実状無用有害であり、精製したものはなおさらです。
    安全要件
    もうひとつ第三に、
     すべて食物には実状できるだけ安全なものを使い、とくに青汁には必ず安全なものを使うことにしています。
     それは、前記の両要件をみたして完全栄養をはかっても、それに使う食品が危険な農薬などに汚染していたり、危険な添加物がはいっていたりすると、不可抗的に、その中毒作用をうけて健康を損なうおそれがあるからです。
     そして、とくに青汁を必要なだけ十二分に飲めば、これに使う良質青野菜は習慣食の10倍以上と多量であるため、テキメンにその中毒作用をうけるからです。
     従って当節、ふつう市販の青野菜は、殆んどすべて栽培に危険な農薬を使い、それがそれ相当量残留しているので、無農薬栽培が確認できなければ使ってはなりません。
     とすれば、自家栽培か委託栽培で安全に作ったものを使わなければならないのが実状です。
     また、多種多様にわたって出まわっている加工食品は、とりわけ出来合いの既製食品は殆んどすべて危険な添加物を使っているので、これは極力使わず、つとめて原材料を、それも、よく吟味して実状できるだけ安全なものを手に入れて、調理は家庭ですることが大切です。
    その他
    の食養生では
     ところで、その他の食養生では、青汁食養生で補足要件にしているものはあれやこれやと取り上げています。
     が、安全要件もさることながら、必須要件にしている良質青野菜は、その種類についても数量についても、マトモに取り上げていないのが実状です。
     けれども、習慣食を改めて完全栄養をはかるには、この良質青野菜がカンジン・カナメなのであって、そこをもう少し詳しくいうと、つぎの通りです。

    (つづく)


3-9. 医療自明の前提要件(5)

     友成 左近 

     前記のように医療は、予防面においても治療面においても、そこに必要な養生に、人々めいめいみずからつとめることを、自明の前提要件にしているのであって、この養生で実状最も重要なのが食養生です。
     そして、食養生というのは、人々それぞれ習慣食を改めて完全栄養をはかることですが、青汁食養では、人々ふつうの習慣食で最も著しく不足している良質青野菜を、必要なだけ十二分に、すなわちその10倍以上と多量に増やすこと、従って、その最も有効適切な食べ方として、それを青汁にして飲むことを必須要件にして、これを食養生の大黒柱にしています。
     そこで青汁食養生は、当節数多い食養生のうちで最も適確なのであって、それは要約つぎのようなしだいです。(なお、この良質青野菜には必ず安全なものを使うことにしていますが、ここでは栄養面だけについてみることにします。)

    完全栄養に良質青野菜がそれ相当量に必要不可欠
     人々ふつうの習慣食に取り入れている各種の食品は、市販の食品成分表をみれば、だれでもよく分かるように、ただひとつ良質青野菜以外はいずれも、完全栄養に必要な各種のミネラルやビタミンがあれこれと不足しています。
     そして、これをどんなに工夫して取り合わせても、ただひとつ良質青野菜をそれ相当量取り合わせなければ、とうてい完全栄養ははかれないのですが、いうなれば、どんな食品でも、ただひとつ良質青野菜をそれ相当量取り合わせたら、それでほぼ完全な栄養がはかれるのであって、それほどこれは各種の成分、とりわけミネラルもビタミンも格別豊富なのです。
     ところで、人々ふつうの習慣食では、主としてエネルギー分をねらった米や麦なども、また蛋白質をねらった魚や肉や卵なども、必要なだけは十分に、人によっては必要以上にとっているのであって、これが不足しているのは、ごく特殊な場合だけです。
     が、これが栄養として利用されるのに必要な各種のミネラルもビタミンも格別豊富な良質青野菜が(日に約50gと)極めて少なく、ために栄養が著しく不調和不完全になっているのが実状です。

    青汁にして飲むのは
     では、さしあたり習慣食のままで、ほぼ完全な栄養をはかるには、これがどれだけ必要か、というと、厚生省調査の栄養摂取の実状などからいうと、少なくとも日に約500g(めいめい体重の1%)です。
     そして、その成分を最高度に活用するには、新鮮なうちに生のまま、よくかみつぶして食べることが大切です。
     が、なにぶん固い繊維が多いので、これだけ多量となると、歯が丈夫な人でも胃腸にさわるおそれがあり、それ以上に多量となると、なおさらです。
     そこで、よくかみつぶす代わりにジューサーなどですりつぶしたうえ、固い繊維は大部分取り除いて、青汁にして飲むわけです。
     こうすれば、この青汁には大切な栄養分が殆んどすべて(生きたまま溶け出ており、また便通などに大切な繊維も、胃腸にさわらないようにすりつぶされて、ほどよく残っています。そして、もとの青野菜500gが約2合の青汁になるので、(少しまずくなっていることさえ辛抱すれば)だれでも日に2合以上はけっこう飲め、それに、どんなに歯が弱い人でも胃腸にさわるおそれはありません。
     またこうすれば、広く青汁に使われているケールなどのように、ふつうの青野菜より年間通してはるかに多量に収穫でき、それに成分も優れ味もよい家畜の飼料も使えるので、冬でも夏でも十二分に食べることができるようになります。
     そこで、さしあたり習慣食のままで日に約2合の青汁を飲めば、ほぼ完全な栄養がはかれるので、それだけ体力が強化して健康が増進し、とりわけ病気の治癒が促進するわけです。
     それに、他の食物でとるエネルギー分も蛋白質も、これまで不十分に利用されていたのが十分に利用されるため、これまでより少量にしても栄養上不足しないので、そうすれば胃腸その他の負担が軽くなって、病気の治癒にますます好都合になります。
     もうひとつ、他のどんな食物でも、必要以上に食べすぎたら栄養や健康に障害を招くのですが、ただひとつ良質青野菜は青汁にして飲めば、日に1Kgいな1.5kg以上と、実状どんなに多量に食べても、栄養にも健康にも障害を招くことはないのです。
     そして、多ければ多いほど、既知未知すべての栄養分が十二分にとれて、よりいっそう本当に完全な栄養がはかれるようになり、それだけ体力とりわけ治癒力が、人知でははかりしれないほど強化してくるのであって、それは、今日の医学で治療至難といわれている難病でも、日に4合6合以上と飲んで、だんだんと軽快もし全治もしている実例が示している通りです。

    (つづく)




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