遠藤語録文字 乾燥青汁ピロサンマーク
 食べ方

食事の時間

 食事の時間は、規則正しいに越したことはないが、なにも、ひどくそれにこだわる必要はありません。
 「一切の疾病は宿食を本と為す(大般涅槃経)」
 「飢えて食い渇して飲む」で、もっと大切なことは、「空腹を覚えて食べる」ことです。
 つまり、消化の状に応ずべきだということで、胃が消化を終り、空虚になったのち、一定時間の休息によって疲労を完全に回復し、食欲が出るにおよんで、はじめて食べる。これが、もっとも自然的で、もっとも正しい健康的な食べ方です。
 したがって、食事の時間は、むしろ不規則なのが自然ともいえるし、時間をきめるなら、次の食事時間に、うまく空腹になるよう食量を加減すべきだ、ということになります。
 しかし、現在多くの人は習慣的に、時間が来れば食事し、そのたびに満腹するまで食べているので、真の空腹は殆んど知らぬばかりか、いわば、宿食に食事をかさね、それだけでも、いつも負担は過重されているわけです。
 まして、食欲もないのに強いて食べさせられている病人などは、飽食の上に、なおも飽食を強いられているのと同然で、不自然かつ不合理きわまる暴挙にもひとしいものです。莫強食(千金万)。

食事の量

 毎回の食事の量はどうでしょうか。
 むつかしくいえば、体格、体重、年令、性別、活動の状や食習慣により、またその人の消化能、食欲にもよります。
 そして、いろいろといわれているようですが、結局、ヒポクラテスが、
 「吾人は食餌の分量に関して、一定の基準を求めねばならぬのであるが、その基準こそは、数においても、量においても、ともに身体の自覚する所を以て、之を計る以外の道はない」
 といっている通り、自分できめるほかはありません。
 そして、やはり昔からいう腹八分。
 多く食わず(論語)
 食は過飽すべからず(抱朴子)
 いまだ飽かざるにまず休む(蘇内翰)
 というのが無難なところでしょう。
 大雑把にいって、体力を維持し、心身のはたらきを妨げぬ程度。過ぎず不足せずの最小量が理想といったところ――消化能、食欲に応じ、つねにいく分の余猶を残す。次の食事までに消化しつくし、といって余り強い空腹でもない、いわば快い空腹を感ずる程度に食べておけばよいわけです。
 「極飢して食うを欲せず(抱朴子)」。
 「常に飽中飢あり飢中飽あるが如からしむるを欲す(千金万)」。
 ただし、これはあくまで原則。
 元気のよい子供や若いものは、時には大いに食い、大いに飲み、また時には飲まず食わず、飢渇に堪え、あらゆる条件に対処しうる能力を養うべきでしょう。

食事の回数

 食事の回数また同様。習慣、職業などにより、また消化能のいかんによるべきで、1日1食でも、2食でも、3食でも、あるいは4・5・6回にわけて少量づつ食べてもよろしい。
 「主食の外に朝食をとるか、或は1日1食にするかということは大した問題とはならぬものである。それは、一に、その人の習慣にしたがうべきである(ヒポクラテス)」。
 わが国では、上代から1日2食でした。神仏の供物は今も朝夕2回であるのは、その遺風。
 江戸の中期から3食になったが、激労時には、たとえば農繁期には4・5・6回も食べています。現在ふつう3食ですが、軽労者や中年以後は1〜2食でよろしい。
 二木博士は、40以後は1食でよい。フレッチャ−も1食を推賞。西洋養生訓も、食は淡白、日に2回と訓えています。また、ハッチソンによれば南阿のカフィール族は、食べるよりは働くことを好み、ただ1回大量の食をとるのみだといいます。

主食事

 わが国では、ふつう夕食が主食事になっています。英仏やスイスでも同じですが、ドイツでは昼食が主食事だそうです。
 それは、夕食があまりおそくなり、夜間の負担が過大になるのはよくない、というので、「養生要集にいう、夜食恒に飽満せざれ、人をして無病ならしむ、これ養生の要術なり(医心方)」
とあるのと同じわけでしょうが、どの食事を主食事にするかは、やはり一般慣習あるいは仕事の都合によってきめるべきでしょう。

間食

 間食はなるべくさけるべきです。
 「間食は寿命を蝕む悪魔」
 「人間は健康者においても、不定時の排泄と不定時の充実とは同じく不快を感ずる(ヒポクラテス)」。

夜食

 とくに慎むべきもの。
 夜は全身の機能の休養すべきとき。消化器にもなるべく十分の休養をあたうべきです。
 「百人の医師を呼ぶより夜食と夜更しをやめよ」(スペイン俚諺)

<(1967・11 遠藤)健康と青汁第135号より>




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