青汁のおいたちタイトル
    青汁のおいたちタイトル絵
    まえがき

     かねがね、青汁の会の同志の者から、青汁のおいたちといったものを書いたら、といわれいたが、私はまだその時期ではない。そういうものは死ぬ前に書くものだ、などと冗談を言って澄ましていた。
     ところが、お膝元の一青汁業者(もと私どもの会の仲間であったが、好ましく無い行為が度重なるので除名された)が、青汁の創始は自分だ、とうそぶいているという噂を聞いた。(そういうことがあったので、早く書け、とも言われていたのだろう)。もとよりこれは歯牙にかけるまでもないので、ただ一笑に附していた。
     が、こんどは、人間医学社の大浦氏が「大法輪」という月刊誌の10月号に、「青汁回生法」というのを載せられたが、その中で、青汁のはじまりについて、思いちがいされているらしいことを書かれていられるので、不本意ながら、どうしても真相を誌しておかねばならぬことになった。ただし、詳しいことは、とてもにわかには書きかねるので、ここにはあらましだけにとどめる。

    <1957.11.25 遠藤仁郎 健康と青汁 第16号 2面より>

    以下に続く………

目次


1-01 生葉汁は昔からあった


    続いて………

     さて、そのまえに、ちょっと述べておきたいことは生葉の汁の応用は決して新しいことではないということである。拙著「緑葉食青汁の話」の付録に載せておるように、搗汁、擣汁、杵汁などという名称で、医心方という今から約950年も前に出た現存の日本最古の医書(丹波康頼撰)にもかなり出ているし、漢方医の集大成である本草綱目(明の李時珍書)には、驚く程沢山の例がのせてある。
     このように生葉の汁は昔からあり(おそらく盛んに)応用されていたもの、と思われるが、いつの間にか忘れられていた。それを、最近になって、また思い出して応用し、現在の知識で出来る範囲の科学的説明をした、というまでのことで、決して何も新しい発明でも発見でもない。


1-02 生菜果汁療法との違い

     ただし、私のいう『青汁』は、これまでいわれていた『野菜果物汁療法』とはちがう。このことも大事なことなので、ついでに申し上げておきたい。
     今から30〜40年前、西洋では『生(葉果)食療法』ということが大変流行した。
     生の野菜や果物を治療的に応用したもので、色々の病気に優れた効果が認められた。もとはそのまま食べたのだが、やがて汁にすることもはじめられ、『液状菜食』として賞用された。戦後入ってきたハウザー食も、それである。
     しかし、これらはすべて、野菜や果物を『生』のまま食べるということだけで、別に材料については注文は付けていない。(大浦氏や西氏その他の民間療法家のいわれていた生食療法も同じ)。
     けれども、私のいうのは『緑の葉』でなければならない。
     『いき』のよい緑の葉(草でも木の葉でもよろしい)をうんと食い、しかも、なるべく生で食べよう(緑葉食)、また、汁にしても飲もう(青汁、ほんとうに青い汁)というのである。
     そして材料は、ただ緑の葉であれば何でもよいのではなく、なるべくビタミンの多い、そして吸収されやすいカルシウムにも富んでいるもの、と限定されているのであって、これ(質のよい緑の葉に限られていること)が、これまでの生(野菜果物)食、あるいは生(菜果)汁とは根本的に違う所である。


1-03 栄養の完全化

     なぜかと申せば、私の緑葉食、青汁の第一のねらいが栄養の完全化にあるからである。
     拙著にも、また本紙にもたびたび述べているようにこれまでの私どもの習慣食には、熱量は充分であり、蛋白質もさまで不足はしていないが、それらに釣り合わねばならぬミネラル(ことにカルシウム)やビタミン類は、ひどく不足している。
     そのために、私どもの体格、体重が劣り、健康状態はすぐれず、早く老衰するようになっている。
     この欠陥をなおすには、ビタミン類や、吸収されやすいカルシウムに富む緑葉類に越したものはなく、その生食ほど大切なものはないのであって、青汁はそれを可能にするもっとも簡便な方法なのである。つまり、緑葉食は、私どもの栄養を完全にする一方便であり、青汁は、実行しにくい緑葉食を容易にする一方便である。


1-04 生きた力

     しかし、緑葉の生食(青汁)の効用は、決してそれだけに止まるものではない。
     生の緑葉のビタミンやミネラルは、それが、ただ豊富にあるだけではなくて、生きた形、つまり『酵素』として存在する。この酵素は、体内の代謝に触媒としてはたらく大切な成分で、いわば生命のもとである。(しかし、巷間に売出されている所謂『◯◯酵素』といわれているものとは全く別のもの)。その他葉緑素をはじめ、数多くの有効成分(科学的に知られているものもあれば、まだ知られていないものも沢山あると想像される)がある。
     そこで、緑葉の生食(青汁)には、栄養の完全になることと、これら多数の要素との総合効果が期待されるわけで(これが『生きた力』というものであろう)、これが青汁の著しい、時には神効ともいうべき程の効果をあらわすもとであろうと考えられる。


1-05 青汁のおいたち

     さて、この青汁がいかにして思い出されたかの本論にはいるが、その遠い間接の原因は、私の抱いていた『栄養学への疑問』であり、近い直接の原因は、戦時中の「食糧難」であった。

    栄養学への疑問

     私どもが教えられた栄養学は、熱量はいくらいる、蛋白質はいくら、それも、なるべく良質の動物性でなければならぬ、というものであったから、どうしても御馳走をしっかり食べねばならぬことになる。
     ところで一方、昔から、このような「美食飽食は多病短命のもと」だといい、反対に、とても栄養がとれそうにもない。「粗食小食は健康長寿のもと」だといわれている。
     野菜や果物の大切なこと、とくに、その生食のよいことはよく承知していた。
     また、応召中姫路の陸軍病院で読んだ、宮入先生の「食べ方問題」、「続食べ方問題」で、第一次世界大戦で、祖国を饑餓から救った丁抹のヒントヘーデの菜食政策や、肉や穀物が増配されても良くならなかった健康状態が、ジャガイモによって目立ってよくなったというドイツのベルグの経験も読んだ。
     そして、病人の特配には肉や魚よりは、むしろ、野菜をすすめるようにしていたものだが、それでもまだ、どうしても、その理由が充分満足には納得できずにいた。
     こうして、この矛盾した事実は、私にとって実にながい間解決できぬ問題であった。

    食糧難

     戦局は日に日に苛烈となり、食糧の窮乏はいよいよ甚だしくなった。
     いかにしてこれを切り抜けるかは、闇買するするだけの力のない私には、まことに切実な課題としてのしかかり、四六時中脳裡を去ることはなかった。


1-06 緑の葉!

     その時、ふと。それは忘れもせぬ、昭和18年の10月20日の朝、便所の中でのことであった。
     「ああそうだ。ある。ある!葉だ、緑の葉だ!野菜の葉が、野草の葉が、樹木の葉が、いくらでも、無尽蔵にそこいらにあるではないか。」


1-07 緑葉末油煉

     当時、私は伏見の桃山に住んでいた。長岡越中という所で、その昔、長岡越中の守の邸があった所だそうだ。
     あたりは一面の大根畠。畠には大根葉が沢山切り捨ててある。その日から家内も、坊主も、私も、その葉を拾い集めた。(まるで乞食に見えたことだろう。けれども私どもにしてみれば、一本の大根が3家庭に分けて配給される、といったきびしい食糧難の時節に、これほどすぐれた食糧が、顧みられないままで捨てられているのはいるのは、余りにも勿体無いなくもあり、また慨かわしくもあった。
     熱湯にちょっと浸して乾燥し、田舎から持って来ていた石臼で粉にした。大根葉だけではない、甘藷の葉、里芋の葉、大豆の葉、陰元豆の葉、南京豆の葉、蕗の葉、牛蒡の葉、茄子の葉、樫の葉まで、およそ手に入るものは何でも利用した。
     ちょっと炒り、油を浸みこますと、仲々おいしい。体の調子もよろしい。 緑葉末油煉と名づけた。
     1ヶ月経ったものを、大坂市立生活科学研究所で調べてもらったら、ビタミンCがかなり残っていた。
     これは面白い思いつきだと盛に吹聴した。病院(大阪市外守口の大阪女子医専附属病院)では、内科の諸君が、「遠藤教授提唱、新栄養食糧『緑葉末油煉』の作り方」というガリ刷をつくって、配付してくれた。
     新聞社へも報らせた。大阪新聞がとりあげて記事にしたので、かなりの問い合せがあり、わざわざ見に来た人もあった。町内の廃物利用展に出品して愉快な思い出だ。


1-08 緑葉の優秀性

     文献はいろいろ漁ってみた。
     そして、その年の大晦日の夜半(この日私は当直で病院に泊っていた)、マッカラム氏著の「栄養新説」がついに私の多年の疑問を解いてくれた。
     そこには、緑葉の優秀性ミネラルやビタミン類が豊富にあるばかりではない。蛋白質も非常にすぐれており、動物のそれに匹敵するものであること、所謂養護食品の随一であり、他の不完全な食品の欠陥を補う能力の著しいこと、などが書かれてあった。
     ようやく求めていたものに行きあたったわけである。

     野菜でよいのは結局緑葉だけで、それに比べれば、他の野菜も果物もずっと劣っていること、「野菜がよい」という成績は、すべて「緑葉」での実験の結果であること、しかも、同じ緑葉でも、色の淡いものは駄目であり、色は濃くてもホウレン草はカルシウムが利用されぬから、これも余りよくないこと、また緑葉はそれ自体が栄養的に完全な食品であるだけでなく、その豊富なビタミンやミネラルによって栄養素の体内利用をよくするため、熱量や蛋白質の必要量が節約されることもわかった。
     だから野菜(緑葉)を充分に食べれば(即ち粗食すれば)少食ですむわけだし、それだけに健康でもあり、長生きも出来る筈である。

     そして、反対に美食では、うんと食べねば体がもたず、それだけに健康を損ねやすく、なが持ちもしにくい理由もよく納得できた。
     つまり、栄養学が科学したところが、長い経験から知られた事実と全く一致した。「これでよいのだ。これこそ絶対に間違のない真理だ!」と私は雀躍りした。
     これまで、一口に野菜・果物といっていたのがいけなかったのだ。「野菜」とだけいえば、誰でも、食べよい軟らかいものを食べようとする。たとえば大根では根だけ食べて葉は捨ててしまう。ここをはっきりさせなかった所に、今までの誤りの因があったのだ。
     ともかく葉だ。緑の葉だ。どうでも色の濃い質のよい葉っ葉でなければならぬ。
     ここまで来れば、次の一とび、同じことなら「なま」で、………といって、仲々充分には食べられぬから、いっそのこと汁にでもして飲もう(そうすれば楽に大量の野菜が食べられるわけ)、という所まで発展するのは当然であり、またいとも簡単なことである。


1-09 青汁への飛躍

     昭和19年の春、家内が腎臓炎で寝込み、中学へ進んだばかりの坊主が風邪をこじらせて肺炎になった。
     家の横の空地にミツバのみずみずしい若葉がおい繁っているのを見かけた時、「こいつを汁にしよう」と考え、すぐに飲ませた。
     手伝に来てくれていた看護婦の戸石君(当時内科の主任。今は和歌山県御坊市在住)が、「これをですか?」といかにもけげん相な顔をして、摺鉢でごしごしやっていた姿は、今もありありと目に浮ぶ。
     毎日、1〜2合づつ飲ませて、肺炎は極めて順調に経過し、間もなく通学できるようになった。
     これが、私の青汁患者第1号である。
     次で家内も飲み出した。それまでも随分大量の菜っ葉を食べてはいたが、その上に飲んだ小松菜(菜園に作っていた)の青汁がとてもよかったようだ。これも毎日かかさず、1〜2合、多い時は3合以上も飲んだであろう。やがて治った。これが第2号。(この間の家内の食べ方は、芋類、小麦粉などを主食とし、大量の緑葉菜を添えた無塩食で、この経験は、後の私の緑葉食の概念の発展に大きな影響を与え、また、その基本となったものである。)

     病院では、以前から毎週1度雑誌の抄読会をやっていた。緑葉食については、かねてから話していたが、ある日「青汁の活用は、病人食に不足しがちなビタミンやミネラルの補給法として最適なものと思う、」と子供や家内のことを物語ったことから、病院での青汁熱は急に高まり、多くの貴いまた素晴らしい経験が次々に得られた。

     そこで、これまでの経験を次の3つの論文にまとめた。
     その第1は、「緑葉食油煉」(昭和20年1月)これは「戦時医学」に掲載された。
     第2は「緑葉の利用に就て」(昭和20年2月)で、邦食の改善には緑葉の利用にまさるものはないことを強調した。「綜合医学」に出ている。
     そして第3は、「緑葉療法」(昭和20年3月)これには病人食を合理化に完全にするためには、原則として、主食に対し約3倍量の緑葉が必要であること。常に若干量は生食すべきこと、生鮮緑葉の生食がこの療法の眼目であり、多量である程よいこと、最小限100gを「絞り汁」として用うべきこと。少量の油を入れて青臭味が減り飲み易くなること、などが記されている。この論文はガリ版刷として少数の知人に配付しただけで、ついに発表の機会を得ず、未だに机の抽き出しの底にねむっている。
     その頃の呼び名は、私の家では「青汁」(これは家内がつけた)、病院ではドイツ語のグリン・ザフト(緑の汁)が通称であったが、その他「青汁」、「草汁」、「すり餌」などとまちまちであった。
     なお材料には、清浄野菜はないので、一般の野菜、野草、樹葉などいろいろとり集め、出来るだけ丁寧に洗って使っていた。参考までに「緑葉療法」にある一説を揚げてみよう。
     『勿論、伝染病、寄生虫感染の危険を考慮しなければならぬ。生産方面に於ける然るべき措置、或は適当なる消毒法が望ましいが、差し当たり糞便汚染の懼れなき山野の緑葉を用いることも一策であらう。』


1-10 倉敷轉動

     倉敷へ転勤したのは昭和20年の3月下旬。
     話のあった時、院長に、「私は妙なことをやりますよ」と承認済みであったから、青汁は私の表看板。患者ごとにすすめてみた。しかし、ここでは、大阪とはちょっと様子がちがっていた。
     何分にも、牛や山羊のまねをしろ、というのであるから、余りにも奇矯と思われたのであろう。小馬鹿にして仲々素直には受け入れてもらえぬ。実行したのは2〜3の結核患者位のものであった。今のような良い薬のなかった当時のことだから、所詮「藁でもつかむ」といった心理からだったのであろう。
     けれども、やっと落ち着きかけた5月の初、3度目の赤紙が来て、まもなく応召してしまった。


1-11 駐屯地で

     私の配属された部隊は、平均年令42才という老人部隊で、病人が多いのであるが、支給されている医薬は戦闘にならねば手をつけるわけに行かない。町の薬屋には、もう、ろくなものは残っていない。
     幸い山の中であったから毎日草や木の葉を採って来させ、青汁をつくって飲ませた。(相当多量なので民家の餅搗臼で搗いてつくった。)
     兵隊には私のいいつけは天皇陛下の御命令なのだから、ぐずぐずはいわぬ。真面目に飲むから面白い程の効果が出る。(地方人から、薬草を食っている兵隊と評判されたほどである。)
     伝え聞いて地方の人たちももらいに来た。そして家で作って飲む人もだんだんふえた。学校や婦人会や部落会などから頼まれて講演もした。
     こうして、9月下旬帰還するまでの経験は、とてもよそでは得られぬものであったと思う。(この意味で召集になったことは大変なプラスであったというべきであろう。)
     駐屯地は熊本県の人吉であったから、あの地方には、当時のことをまだ憶えていられる人も少なくないと思う。


1-12 終戦時の誓い

     やがて終戦。敗色は日に日に濃くなってはいたが、それでも尚、本土作戦に最後の勝利を信じさせられていた私達にとって、これ程悲しいことはなかった。
     しかし、今度こそは、どうしても死なねばなるまいと覚悟していただけに、この時ほど嬉しいことはなかった。
     その喜びが大きかっただけに、大陸に、南方に、また広島に、非業の最期を遂げた多くの戦友の無念さを思うにつけ、生き残った私どもに課せられた責任の、いかに重大であるかを思わずにいられなかった。
     この惨澹たる敗戦の原因はなんであろうか。資源の乏しさもあったろう。科学の遅れもあったであろう。けれどさらに大きい、より根本的のものは我が国民全体の身体的、精神的頽廃ー不健康ではなかっただろうか。
     しかもそれは国民栄養の過誤に由来しているのだ。真の健康なくしては、本当の日本再建はあり得ない。何は措いても先ず栄養の改善だ。そしてその唯一の途はこれだ。日本を救うものは緑葉食、青汁の他にない。この普及は死ぬべくして生きることを許された私に与えられた使命ではないだろうか。そうだ。これがためにすべてを捧げよう!と静まりかえった医務室で、独り心に誓ったことであった。
     毛唐どもに威張り散らされるのはいかにも口惜しい。奴等の顔は見るのも嫌だ。病院はやめて田舎の山の中にでも閉じ籠ろう。小屋がけでも穴居でもよい。そして病人を救うことから始めよう、などとも考えた。
     敗戦にあたっての私の感傷といえばそれまでだが、実際真剣にそう思い、そう決心した。そして帰還後辞職を申し出たが、橋本先生のおすすめにより、これを撤回し、病院にあってその実行期することにした。
     


1-13 帰院後

     実験

     帰院後すぐやったことは、昭和20年11月から12月の2ヶ月に亘り、動物性食品は一切これを除き、穀、芋、豆類を主食としあ(高々配給米2合3勺に相当する)、緑葉菜を充分(900g)に添えた食餌による減食試験であった。
     これはそれまでの多くの減食実験が、いずれも従来の食習慣によったものであった(そして熱量1500カロリー以下では障碍を招くと結論されていた)のに対し、私の緑葉食と比較してみるのが目的であった。
     この試験で私は、1700〜1500カロリー程度の食餌で、秋の農業期の田園作業(少なくとも3000カロリーはいるとされている)を2週間、その後1500〜1200程度で(1200といえば米300g葉菜900、食塩という食餌である)、日常診察業務に従事したが、体重減少(開始時55瓩、最低47瓩、病院の人達には随分心配をかけたようであったが)をみただけで、気分はいたってよく、仕事の能率は却って上るという好成績を得た。
     またその後に行った穀肉食(昭和21年12月)の比較実験でも、さらに緑葉食、青汁の優秀性に自信を得ることができた。

     調査

     一般の食習についても調査しておく必要を感じたので、当時は医員も多く(復員した若い軍医が沢山来ていた)、病院は比較的ひまであったのを幸い、外来患者の一人一人について、詳しい食習の調査をした。
     そして予想通り、野菜ことに葉菜類の摂取の少ないこと、従ってミネラルやビタミンの不足の甚だしいことを明らかにすることが出来た。


1-14 古醫方の青汁

     かたわら、わが民間療法(富士川博士著民間薬その他)や古医書(医心方、本草網目)にあらわれた青汁(内用例のみ)について調査し、同三書及び水戸烈公の「食楽」などから緑葉食の例を集めた。(昭和22)。これらは後に拙著「緑葉食青汁の話」に収録した。

     病院の研究会

     昭和21年4月の倉敷中央病院研究会で特別講演(恒例により着任早々やる筈であったが応召でのびていた)として「緑葉食について」という題下に、緑葉食青汁の理論と実際について、それまでに得た経験をもとにして発表した。
     この稿は同年9月発行の「最新医学」に掲載された。その中に「青汁」という項があるが、これはおそらく「青汁」という言葉が医学文献にのった最初であろうと思う。
     これを見て第一に共鳴して来られたのが人間医学社の大浦氏である。
     氏はもとの阪大教授片瀬博士の酸塩基平衡学説の尊奉者で、つとに菜食ことに生菜食療法を唱導されていたので、この「青汁」には特に興味をもたれたらしく、大いに協力してやりたいからどしどし投稿して欲しいとの申出が添えてあった。


1-15 一人でも多くの人に

     というかねての念願から、私は喜んでそのもとめに応じ、「健康食に就て」という稿が同年末から翌々23年の夏まで、14〜5回に亘って掲載されたのを手始めに、次々と緑葉食や青汁についての稿を送った。前記「古医法に現われた青汁」も送った。
     たしか昭和24年春だったと記憶しているが、大浦氏が人間医学社から、「青汁療法」というガリ版の冊子を出されているが、その第1項「由来」の項に、「青汁療法は古く昔からあったもので(中略)内用外用ともに民間では植物の緑葉汁を用いる習慣があった。青汁療法の名称は、倉敷中央病院内科医長の遠藤仁郎博士の命名である。旬刊人間医学には殆ど毎号遠藤博士の研究報告が連載されている云々」とあるのは、その当時の事情をよく伝えているが、実際それからの人間医学は青汁誌の観があったし、いまもそうである。


1-16 続いて

     敗戦後の食料事情はますます深刻となった。これが解決策は緑葉の活用にあると、応召中(昭20.7)かきつづっていた「現下の食糧問題について」という論文を、病院でガリ版にし、政府や県当局をはじめ、各方面に配布したのも昭和21年のことであった。
     その頃、県医師会でやっていた専門医会に私も講師として招かれたので、その第1回(昭21.10)には「緑葉療法について」、第2回(昭23.2)には「結核と緑葉食」について述べた。また内科学会では、当時の状況から各地区で地方会をやることになり、中四国の第1回が21年12月に岡山で開催された。
     ここで私は「緑葉療法について」発表し、翌年秋の第2回には「緑葉療法の効果について」、さらに24年秋の第4回には、特別講演として「食べ方の問題について」述べ、緑葉食や青汁の必要性重要性を強調した。
     昭和23年ある雑誌社の懸賞論文に、21年秋の専門医会の講演をもとにした「緑葉療法」なる一文を提出したが、無論問題にはされなかった。そのほか専門雑誌には随時投稿したが、中には突き戻されたものもあり、表紙の見出しだけには出たが内容は載せられぬといった目にあうたこともあった。
     こうして機会ある毎に発表はして来たが、遺憾ながら医学会からはもとよりのこと、医療界からも殆ど注目されず、精々、「葉緑素か」と軽くあしらわれるのが落ちで、むしろ、異端者もしくは物好きな気狂い扱いされて、受けたのは侮辱と嘲笑くらいのものであった。


1-17 病院給食

     病院で早く青汁を実行した結核患者のうちには、そのため非常に経過がよく、すでに退院しているものもあり、その他にも著しい効果の認められたのがあったので、病院での青汁に対する一般の空気は、着任当時に比べると余程変わっていた。それでも実際にやるのは極く僅かなものにしかすぎなかった。
     おまけに意見のちがうひともあることとて、積極的に協力はせずとも、黙って見ていてくれるのはまだしもで、中には、折角その気になりかけている病人を思いとどまらせてしまう、というようなこともあった。

     私はまた私で、もともと薬は嫌い。注射はことに嫌い。終戦後の薬の不自由な時ではあり、無駄にのましたり、打ったりするのは勿体ない。食べ物を改めればそれでよい。田舎のことだから、いくらでもある野菜をしっかり食いさえすればよいのだと、来る患者にも、来る患者にもナッパだ、青汁だ、である。

     わかい者が胃が悪いといってくる。「かみ方が足らんからだ。口の中でオモユになるまでかめ」とばかりで、わざわざ遠い所から来ているのに、薬もやらずに追い返す。脚気といって来る。「食糧に恵まれている田舎のお互が脚気になるとは何たることだ」、と叱りとばす。カルシウムでも打って御馳走を食え、といわれている結核に対しても、「薬はいらぬ、注射もいらぬ、青汁を飲め。肉や卵よりはナッパを食え」、というあんばい式だから嫌われたのも尤もだろうし、うけのよかろう筈はない。「うちの娘は牛や山羊ではないぞ」と憤慨して退院させた親もあったそうだし、「入院はしたいが青汁を飲まされるから」、と敬遠されている、というまことに香ばしくない評判もたつ有様で、病院内外で相当ひどい噂がまかれていたものらしい。その上、炊事からは「いかにナッパをふやせといわれても、患者が食って呉れぬのだから」、という苦情も出る。

     これじゃ到底ダメだ。ともかく知らせねば、わかってもらわねば、どうにもなりっこない。何はともあれまず啓蒙だ。啓蒙運動が先決だというので、外来診療後に「栄養相談時間」を設けて指導に乗り出してもみたが、たいがいは開店休業。また病室では座談会をやってみた。これもいたって低調で、やがて自然中止になってしまった。それではと、今度は「療病の根本原則」(後「療病の根本」と改めた)という刷り物をつくって、外来入院すべての病人に配ることにした。これだと、意見のちがう医員諸君も、やむを得ずその通り説明せねばならぬ。「たびたびやっているうちに、それでなければならぬような気がしだした。」とあとで述懐したのがあったが、実際これが正直なところであろう。また、何かデータをつかんだらと、一番よく効くと思われる高血圧患者を対象に、事務所に気兼ねしながら数百通の往復はがきを出したが、碌々返事も来ず、結局無駄骨に終わってしまったこともあった。

     そんなこんなで、当時の私は少なからず焦らだっていたから、やり方も少々手荒かった。
     いうことを聞かぬといって退院させたり、言い分が気に食わぬと追い出したりしたこともあった。
     戦後のどさくさ最中とはいえ、外来も入院もいたって少ない。インフレ物価はどんどん上がる。病院の経営は苦しい。その対策の委員会(病院幹部の協議会)は度々開かれる。
     そして、「病院の給与が悪いからではあるまいか、もっと御馳走にしたら?」という意見も出る時に、相も変わらず、こっちはナッパナッパと、いっているのだし、患者の扱い方はこの調子なんだから、病院にしてみれば全く迷惑千万なことであったに相違ない。

     こうした状況の下にありながら、それでも、青汁の信者は少しづつ増えていた。論よりは証拠、事実のまえには議論なし、とでもいうか、四面楚歌に等しい窮地にありながらも、青汁の根はいつしか深く広く張っていたのであった。一方、その後引き続き26年頃まで、連続投稿していた人間医学への拙文が、間接にこれに大きな力になったことも争えぬ事実である。その読者層に多い病人や療術家にとっては、青汁のニュースはまさに一大福音であったし、宗教家の間にも大きい反響を呼び起こした。有名な家庭看護書である築田氏の赤本には、いち早く私の首唱する青汁として紹介されその卓効が特記されたし、恐らくすべての食養家は、それまでの「生食」を「青汁」に切り換えられたといってもよいのではないかと思うが、これら民療家や宗教家の青汁礼賛の声はいろいろの形で病院の患者に影響し、その青汁熱に拍車をかけた。

     こうして入院患者、ことに結核患者の青汁への関心はしだいに高まっていった。
     しかし何分にも材料は院庭あるいは付近の野草や木葉などで、散歩がてらに採集して来て、病棟の炊事場で、自らミンチ(肉挽器)でくって飲み、余分があれば療友にも分つ、といった程度であったから、もとより年間を通じて実行することは出来なかったし、量にもおのずから限度があった。やがて実行者が多くなって来たので、製汁だけは看護婦が引うけることになった。昭和26年秋の栄養週間には、病院の食養部が主催し、保健所や岡山の栄養科学園(今の栄養短大の前身)の後援を待て、病人食展示会を催し緑葉食の必要なこと、青汁の重要なことを強調したので、患者の青汁熱は一層もりあがって来た。

     そして看護婦もついに手をあげ、炊事でやってくれということになった。その頃たまたま出たのがハウザーのベストセラー書の邦訳。何事でも西洋人のいうことでなければ素直に受け入れない国柄。ハウザーのいっていることが、私の説く所と全く同じとわかって緑葉食青汁の意義ははじめて認識され、見直され、ようやくにして所謂脚光を浴びて来た。そして清浄野菜栽培の気運もいよいよ熱し、27年夏からは、ついに青汁の病院給食が実現した。その秋から食養部では、栄養旬報を出して啓蒙につとめ、恒例の栄養週間には「完全食展示会」を開催、緑葉食青汁によって、いかにたやすく理想的完全食が得られるかを、実物をもって展示した。また、食養部に栄養相談所もできたので指導用のテキストとして「食養のしおり」という小冊子を作った。(昭28.2)が、予想外の好評で、3千部またたくうちに出切ってしまった。

     ここでついでにちょっと私の著書に触れておきたい。
     これ以外に私の書いたものには次の2つがあるだけで他にはない。

     その1は、「緑用食青汁の話」(昭29)。これはそれまでに折にふれ書きつづっていた短編をまとめたもの。昭和26年から出版を計画し、なろうことなら東京からと、故橋本先生はじめ多くの方々の並々ならぬ御奔走御尽力を辱うしたがついにならず、岡山から自費出版した。

     次は30年に出した「青汁読本(国民栄養の話)」で、緑葉食青汁による完全栄養について述べたもの。

     なお巷間私との共著その他数書が出ているようであるが、甚だしきにいたっては一言の挨拶もなく私の稿の内容を主格を変えた文章にして編集したまことに不道義極まるものもあり、中には少なからず迷惑しているものもある。それが曲りなりにも世のため人のために、少しでも役立つならば、田舎の木っ端医者の私の受ける汚名など物の数ではないと目をとじ、耳を塞いでいるだけのことである。


1-18 清浄栽培

     一人や二人が飲むのでは野菜や木葉でも結構間にあう。けれども多量の青汁の供給には、どうしても野菜にたよるほかはない。また必ず清浄栽培品でなければならぬ。私はかねてから家の庭を掘りおこして菜園とし、清浄野菜の周年栽培を試み、栽培品種や播種の時期などについては、かなりの研究と経験を重ねていた。また病院には構内に空地が多いし、菜園になっている所もあったので、その一部を借りうけて開墾し、清浄栽培をはじめたが、何分にも僅かな地面なので、とても病人用をまかなうには及びもつかぬ。なんとかもっと拡張して出来れば青汁材料の自給と青汁用野草類の展示用を兼ねた菜園にしたいと念じていたが、まもなく病院の美観上、構内の耕作はまかりならぬことになったので、この企ては流産に終った。

     次に、どこかに耕地を周旋して欲しいと申し出てもみたが、これも実現せず、いたし方なく成行にまかしていた。そうこうするうちに、患者側からの要望は次第に強くなる。青物店の店頭には、得体の知れぬ「青汁用野菜」が姿を現わす、という状況になり、私はただひとり当惑し焦慮するばかりであった。

     やがてハウザ−の書の出現とともに状況は急転。いよいよ病院で青汁給食をとりあげようということになり、炊事主任の桑内氏、市の青果組合の都志氏等肝煎りで、市内小溝の大橋氏を紹介されたのが昭和27年の春3月。大橋氏は多年蔬菜栽培に専念されている篤農家。その耕地はもとの高梁川堤防跡で、周辺部より高く、冠水の恐れのない上、地下水は豊富。しかも二十数年来下肥は施用されていないという好敵地。栽培品種にはキャベツ、コマツナ、ミズナ、カキバダイコン、ナタネを指定し、季節によっては若干の他品種の混用もやむを得ぬことにした。

     こうしてその年の夏の初から、待望の清浄野菜は出まわりはじめた。ところが今度は、病院の消費と生産とのバランスが仲々うまく行かぬ。そのため、或は時期を過してトウが立つなどのため、多量の野菜が無駄になったり(何しろ一般市場向でないものばかりなので余ったものは飼料にするか切り捨てて肥料にするほかない)、反対に品不足で困ってしまったり、指示が不徹底であったためカキバダイコンというのを普通のダイコンと間違え、辛くて使用できず、これまた大量にダメになる。夏向にミズナを蒔いて失敗するなど、何分にも従来の栽培法とは全然勝手のちがう周年栽培のこと。さすがのベテラン大橋氏もさんざんの苦労。ついに悲鳴をあげ、いくたびかやめたいと申出られ、遺留これつとめるという始末。

     そのうち、おいおい病院の需要も増して来る。栽培のコツも会得でき、生産との調節もうまくなる。さらに28年には米国産ケールの種子を入手。これを主体に栽培するようになって、ようやく材料供給の面は安定してきた。そして、それとともに病院給食は本格化し、ついで学校給食や、一般市民への供給も具体化する途がひらけた。


1-19 ケール

     田中長三郎氏訳のボーズウェル及びウェスター共著の「都市の蔬菜栽培」という書で、アメリカに「ケール」というビタミンやミネラルに富んだ野菜のあることを知ったのは昭和24年頃のこと。その頃私は時折郷里に帰っていたが、その途である冬の日、とある農家の庭先に、どうやらそれらしい、キャベツによく似た、たくましい大きな緑葉をつけた野菜を見かけた。
     「これゃあ、ええ葉ですなあ」と話しかけたところ、「いやあキャベツの出来そこないですらぁ、鶏にでもやらにゃあ、食えりゃしません」とのこと。そのうち「種ががとれたら」と頼もうと思っているうち、いつか姿を消してしまっていた。

     その後「甘籃」という書物で、中には2、3年ももつのがあると出ているのをみて、これこそ青汁材料にはうってつけだと思い、方々の種苗会社に照会したがわからぬ、知らぬという返事ばかり。「まかぬキャベツだ」と注釈して出すと、「うちの店には巻かぬキャベツは売ってない」といった調子でさっぱり埒はあかぬ。

     「アメリカに誰か知り合でもないかなあ」とある時ふと洩らしたところ、病院の栄養士の糸島君が、「炊事夫のうちに、アメリカで農場を経営している親戚のあるものがいる」とのことで、早速たのんで呉れ、29年の4月21日、待ちに待った「ケール」の種子が私の手許に届いた。何でも播種時期もきていることなので、わざわざロスアンジェルスまで車をとばして買入れ、航空便で送っていただけたのだそうである。ここに、遥かにその御厚志に対し心からの感謝をささげたい。

     種子は木立種、倭性種、チヂミ種の3種類であったが、試作の結果私どもは木立種を最適として採用。その秋あらためて注文した。(これにはたまたま留学した姪も協力してくれた。)次で翌30年には大橋氏が大阪の種問屋からポルトガル種を入手。この両種が今私どもの青汁の主要材料となっている。


1-20 搾り器

     青汁の普及上、今一つ解決せねばならぬものに搾り器がある。
     最もよい汁がとれるのはスリバチであるが、いかにも原始的であり手数もかかる。手際よくやればさほどでもないけれども、それでもどうも面倒くさい。果物汁などでは、ただ圧搾するだけでもよいのだが青汁ではそう簡単にはゆかぬ。万力応用の圧搾機を著書の中で推賞していた人があったが、あれを書いた人はおそらく実際にはやったことがないのだと思う。

     話は前後するが、私ども病院給食用の搾汁器としていろいろ試したうちに油搾りの圧搾器もあるが、これではいかに強い圧力を加えても僅かに青色のついた汁が少し出ただけであった。かたい繊維の中の成分をとり出すのだから、どうしてもまずどろどろに磨り潰し、あとで搾らねばほんとうの青汁はとれない。何かよい道具もがなと、色々工夫もこらしてみていた。

     あるとき、「一つ作って差し上げよう」とわざわざ拙宅まで来られた親切な方もあったが、型をつくるだけに数万円かかると聞いて、おったまげ、それではとてもとお辞り申上げたこともあった。そのうち市内の金物店で従来からあるアルプス印のミンチ(肉挽器)をすすめてくれだした。入院患者がやっていたのもそれである。値段は安いし調子はよい、汁もよいのがとれる。少人数用には充分これで足りる。その後ミキサーが流行してきたが、これは値段が高いのに故障が多い。成分の変化も気にかかる。次いでジューサーだの、ジュースマシンだの、と発売されているが、それぞれ一長一短がある。もともと「安上り」ということを第一の条件にしている私どもは、安くて長もちするので、やはりミンチを推賞している。

     病院の給食用にも、まず手動式の大型アルプスを備えつけた。50人分(一人1合つまり5升)くらいまでは係の小母さんの手で楽にやれた。しかし何としても時間がかかるので、希望者が増えるととてもこれではやりきれない。早く機械化しなければと、試験したのが砂糖黍搾り器(昭和27年7月)。かなりよい汁がとれるが繊維がつまって熱を持つので具合が悪い。岡山にあるらしいと聞いて出かけてみたが、結局同じもの。

     次に試したのが上述の油搾り。これは全然話にならぬ。カタログも種々とりよせたが、動力付きスリバチかカマボコ用のミンチ位しかない。状況は切迫。ぐずぐずしていられなくなったので、ともかく流行の大型ミキサーと決めた。しかしこいつで厄介なのは材料を細く切らねばならぬこと(でカッターも購入した。)また水を入れるから薄くなる。一度に入れる量が限られているから度々出し入れせねばならぬのも面倒。破壊する成分もあるらしい。しかもそう充分には砕けない。そして、も一つ痛いのは故障が多く、その度に莫大な修理費がかかること。アメリカではスタンフォード大学で、胃潰瘍に青汁を飲ましているが、その文献にも、どうもうまい道具はないらしい。

     とつおいつしているうちに青汁普及会が生まれ(昭和29年)方々に支部が出来た。それぞれ搾り器には人知れぬ苦労を重ねていたが、玉島支部の田辺君は親戚のカマボコ屋から廃物になっていたミンチをもらいうけ、農発を取付け、手回し程度に回転を落して好成績をあげたので、やっとこれも解決した。


1-21 学校給食

     倉敷西小学校の貝原氏が初めて私の所へこ来られたのは昭和23年。私の主張に対してまだ注意する人の殆どなかった頃であった。申されるには、「学校を出てからずっと保健の方を受もち、子供の健康のために色々のことをやってきたが、どうもこれというものもなかった。大体虚弱児には肉食や菓子を好み野菜を嫌うという偏食者が多いので、青汁をやってみたいと思う。」とのこと。

     かねがね私は緑葉食青汁の効果について、まとまった成績をもちたいと願っていたが、何分にも熱心にやってくれる人の少ないこと、病院の性質上ながく経過を観察する機会にめぐまれぬこと、問い合せを出しても所謂「梨のつぶて」に終ることが多いこと、また比較する対象の得にくいことなどのため。万事思うにまかせず、くさくさしていた折柄であったので、貝原氏のこの申出はまことに願ってもないことであった。無論双手をあげて賛成。ぜひ実現させて欲しいとお願いしたような次第であった。

     いよいよ手を染められたのは昭和24年。当時は路傍の雑草などを材料にして受持児童に試験的に与えた。しばしば家庭を訪問し、緑葉食青汁による食養の改善の必要を説き、青汁の作り方を指導し、表を作って飲用の有無を記入などして奨励された。父兄の中には冷笑し、白眼視し、甚だしくは、「子供を動物扱いにするな。」などと非難し攻撃するものもある程で、それは決してなまやさしい事業ではなかった。ちょうど私どもが経験したと同じ苦杯を幾度かなめられたようであったが、実に根気よく頑張り通された。

     そしてついにその熱心はむくいられ、効果は着々とあらわれて来た。しかしそれまでは主として各家庭でやらせていたので、飲用量も濃度もまちまちであった。そこで同一条件の下に確実な成績をつかむため、昭和29年秋から学校で実施することとなり、虚弱児20名を対象に、倉敷中央病院管理の清浄野菜を用いて、毎日学校で作って飲ませた。
     その結果は予想以上によく、30年秋の第5回全国保健大会で発表されたその成績は、いたく識者の注目をひく所となった。かくてそれまで一笑に付していた人々さえ青汁の真価を認め、いよいよ30年度より学校給食の一環としてとりあげることとなり、さらに素晴らしい成果が上った。

     これらの成績は31年の文化の日に出版された貝原氏著「子供のからだとグリンジュース」(遠藤青汁普及会刊)にまとめられているが、(前年西小学校から出された「虚弱児童対策としてのグリンジュース」の改訂版として、その後に得られた経験を加え、内容の一層充実したものとなっている)、これは実に貝原氏に永年にわたる研究の結晶であり、また撓まざる努力と苦心の生きた記録でもある。

     西小学校は30年春には保健体育優良校として日本体育指導者連盟から表彰され、また新聞雑誌などにも報道され、今や青汁給食校としての名声は全国に伝わり、見学者は年間数百に上り、まさに応接に遑ない有様である。なお児島市赤崎校は29年秋、総社市三須校は30年秋から、31年には玉野校、早島校、福山市旭及び西校、32年には胸上校、倉敷中洲及び万寿校で実施されており、他に数校準備ないし計画中の所もあり、その数は慚次増加しつつある。


1-22 青汁市販

     青汁の評判が高くなるにつれて、院外から病院の青汁をもらいに来る人がだんだん多くなった。
     所がとんだ邪魔がはいって、それが急にとめられてしまった。昭和28年の夏の初めのこと。何でも市内の有力な人から院長に、「ああいう物騒なものを出して若しや事故でも起きたらどうするか。院内はともかく外へ出すのはやめたほうがよくはないか。」との警告があったのだそうだ。
     これで一番困ったのは飲用者。その悲しみとも淋しさともつかぬ気持ちは、とても青汁愛飲者でなければわかるまい。「何とかしてくれ」とのきびしい要望が炊事の当事者を当惑させたのも全く無理からぬことであった。

     その時「やりたい」と言い出したのが、それまで病院へ乳酸菌飲料ネオヤクルトを納めていた一安氏だった。このネオヤクルトは今豪勢にやっているヤクルトの分身とでもいうか、当時岡山の安井氏がつくっていた。ヤクルトの創始者代田君は私の大学時代の級友で、戦時中岡山で安井氏と手を組んでいたのだそうである。

     この安井氏が代田君の紹介状を持って訪れて来たのは昭和26年か7年のことで、私は友人の事業に協力する意味で、病院に入れることを快くひきうけたものだ。ただしどうやら安井氏は、その頃すでに、わけあって代田君のもとを離れていたらしいし、(その製品の名が「ネオヤクルト」となっているのもそうかと思わせる)、代田君からその人柄について注意を受けたこともあり、後になっての行動を思いあわせると、この手紙が果たして代田君のものであったかどうかも甚だ疑わしいのではあるが。………
     また、その製品にどれだけの効力があるかはともかく、その甘味が青汁の味付けにもよくあうので、いつしか縁が深くなっていたわけである。(もっとも後になってズルチンがはいっていることがわかったのでその使用はやめた。)
     一安氏はこの安井氏の製品を扱っていたので炊事の掛かりとも懇意になっていたものと見える。
     ある日栄養士の糸島君から、町の人からやかましく催促されて弱っていること、そしてネオヤクルトの一安氏がやらしてくれといっていることなどの話が出た。

     ここでまた、私のお人好しの軽はずみが禍の種をまくることになるのだが、「切端つまった事態の解決にはちょうどいいじゃないか、人のためにもなることだし」と、いとも簡単に決めてしまったものだ。(その人となりを知るに及んで、指導にこれつとめたつもりではあったが、ついに除名問題をおこし、その後今日にいたるまで、随分あくどい策謀のため悩まされぬかねばならぬといった、大変なトラブルのもとになろうなどとは夢さら思いもよらず)。

     こうして一安氏は昭和28年8月から病院管理の清浄菜の分譲をうけて製頒をはじめ、ここに青汁市販の第1歩がふみ出された。
     尤もこれより少し前、昭和28年6月初めに高梁市在住の西山氏から相談を受けている。氏は青汁の体験者で、野草を材料にしてやりたいということであった。私は清浄菜でなければ無理だと忠告しておいたが、やはり野草で搾って岡山に運んでいると伝え聞いた。今でもそうかも知れぬ。
     のち、普及会が出来たとき、合流されたい旨を申入れてみたが回答もなくそのままになっている。

     それはさておき、一安氏の市販はうまくいったらしい。何分にも私の膝下で、もう青汁の必要なこと、よいことはよく知れわたっている。欲しい欲しいと思っても病院からはゆずってもらえぬ。材料がなかったり、手が無かったりで、思うにまかせぬをかこちつづけていた所へ、病院管理の清浄材料でつくったという青汁が出たのだから、人々はとびついてきた。初めは10人そこいらだったそうだが、冬近くなるともう、2〜300にもなった。
     悦に入った一安氏が吹いたのだろう、11月末の読売新聞の経済面に「商売になる青汁」という記事が出、私の名も載ったらしく、東は福井県から、近畿、中四国、西は九州の各地から、数十通に及ぶ紹介状が舞い込んで来て私を面喰らわせた。
     これは大変なことになったと思っている所へ出たのが普及会の話。


1-23 青汁普及会

     普及会の話は一安氏のあたりから出、安井氏らも加って進められたもののようである。
     会をつくって私の仕事を助けてくれようというのだから、まことに有難い話ではある。けれども私は余りこれを悦ばなかった。というのは、なるほど普及会などといえばいかにも立派だが、結局私を利用しようというたくらみであることは余りにも見えすいていたからである。

     しかし、それによって緑葉食の普及がはやめられるのは結構にちがいない。また一面、たとえいかに私が力んでみても、ひとたび市販が始まり、しかもそれが営業として成り立つということになれば、世間の人がほっておく筈がない。そしてこれを野放しにしておくならば、必ずや起るであろう弊害、たとえばヨウグルト(牛乳に乳酸菌を培養した酸っぱい本物のヨウグルト)が、甘い、菌がいるかいないかわからぬような乳酸菌飲料に堕落した、あの通りの成行をたどるだろうことは、火をみるよりも明らかである。
     それが対策としては、緑葉食に対する一般の認識の向上と、業者に対する正しい指導と監督の他はない。それには何か力のある組織が必要だ、と感じていた矢先であったので、この意味での会にしようと決意、その申出に同意した。
     さいわい、故橋本先生は副会長を快諾され、会則の起草さえ引受けて下さったし、そのお力添えで、原先生、大原倉レ社長、三木知事、大森衛生部長などの諸名士のご賛同もえられた。こうして遠藤青汁普及会は、「緑葉食青汁の普及をはかり、国民健康の増進に寄与するを目的とし、支部はこの趣旨を体して青汁の製造頒布に当り、営利を貧らず、誠心誠意この聖業に精進する」との旗印を掲げて、昭和二九年五月一四日いよいよ発足した。

     支部の申込はかなりの数に上った。
     しかし何分にも初めてのことではあり、克服せねばならぬ数々の難関のあることとて、実際手をつけたのはごく僅かなものであった。しかもその人たちも、折角意気込んで計画はしてみたものの、あるいは材料供給の面で、あるいは運営の困難さのために、多くはまもなく中止のやむなきに立ちいたった。
     それでも、発足当初、倉敷・岡山の二支部にすぎなかったものが、翌30年6月の第2回総会当時は県内8、県外1、翌々31年6月の第3回総会当時には県内10、県外5を数えた。
     また栽培支部もふえ、31年5月には材料洗浄野菜の市販が、倉敷だけでは実現した。

    会歌

     青汁体験者である郷土の童話作家深山旅愁(本名風早正男)氏から寄贈された(二九、四)会歌「グリーンジュースの歌」は山口保治先生によって作曲され、その発表会(29、8)には病院の看護婦君がすすんで出演してくれた。

    機関紙

     かねて懸案になっていた機関紙「健康と青汁」も、玉島支部田辺(弟)君の編集奉仕によって、隔月刊という心細さながら漸く発行さるようになった(30.7)。

    ケール種子頒布

     緑葉食青汁の普及にはまず材料野菜の普及だ。日本国中をケールでおおいつくさなければならぬとの大悲願(?)のもとに、31年からは、全国各地よりの希望者に対し、自家採取種子の無料頒布をはじめ、贈呈者の数は恐らくすでに数百名の多きに上っているであろう。
     やがて西小学校の青汁給食の素晴しい成果のニュースをはじめとし、青汁に関する報道はしばしば新聞、雑誌、ラジオにとりあげられるようになり、各方面から講演会、講習会の開催、あるいは展示会、博覧会に出品の機会を与えられるなど、青汁の真価の認識とともに、普及会の事業はしだいに発展していった。
     そして支部もまた、その責任の重大性をよく自覚し、材料野菜や製造技術の研究にはげみ、品質の向上につとめ、寒暑をいとわず、また遠隔の地の唯一人の希望者に対しても、労を惜しまず配達し、貧困者には無料奉仕するなど、利害を超越した献身的努力をつづけてくれた。
     しかし一部には、遺憾ながら、会の趣旨にそむき、粗悪不良品を出し、営利のみをこととし、ために、世の不詳と誤解、さらには会に対する疑惑をさえも招くもととなるような不心得者もあった。


1-24 ゴタゴタ1年

     正しい成長のためには内蔵する病根は除かれねばならず、撓められぬ枝は切り取らねばならぬ、と断を下してみて悟ったことは、いかにも会の無力なこと。会や良心的な支部に加えられる悪宣伝や妨碍行為はやられ放題。施す術っもない。かてて加えて、たまたま起った福山支部の内訌、かねてくすぶっていた商標問題をめぐって岡山支部の安井氏も除名される。介入した人物のためには、却ってかきまぜられるといった塩梅で、事態はいよいよ紛糾するばかり。約1年の間ゴタゴタが続いた。

     会はもとより任意団体。紳士的善意的結びつきに於いてこそ統制もとれるが、離反分子や悪質者に対しては全く無力の存在でしかない。いかにして善良支部を守るか。これには当然特許と商標が問題になるのだが、何分にも、種も仕掛もない野菜のしぼり汁のこと、とても特許は覚束ない。商標は、普及会の話の出た当時、会のものとして、安井氏が代表出願し、登録されたのがあり、各支部ともこれを使用していた。

     ところが安井氏は、会からの度々の催促にも拘わらず、言を左右にし、あるいは「法人になれば」との条件をつけなどして、一向にわたそうとせぬ。会を法人にしたいことは創立当初からの希望でもあったので、この事件がきっかけとなって進行。32年2月の臨時総会で社団法人化を議決。手続きは秀島氏に一任することになった。
     この席上秀島氏は、
    「青汁の国民保健上の重要性から、同志として協力したい。」
    と発言、大いに会員一同を感激させたものである。しかし、当局との折衝の結果報告されたところによれば、法人化のことはどこかへけしとんでしまって、
    「当局は会社の設立、しかも早急の実現を強く主張している」。
    そして、
    「普及会支部は禁止の直前にあり、それを救う途は信頼できる会社をつくり、これに包容するほかない」。
    また、
    「会社では私の指示する通りの、よりよい製品を、より安くつくる。」
    いや、それどころか、
    「私の拘負するすべてを実現する場にしよう」
    というのである。
     総会における秀島氏の言では、
    「会の法人化についてはすでに当局の諒解済み」
    ということであったし、会の発足当時から示された当局の好意的態度に拘らず、何故にかくも事態が急変したか、理解に苦しむ。………そこにどういう陰謀がたくまれていたか、当時としては知る由もなかった。………所ではあるが。

     ともかく、「それで支部が助かるのであれば」と理事会も諒承。私は、いわるるままに、なけなしの財布をはたき、親類縁者から掻き集めたそこばくの金を、これに注ぎ込み、かくて、秀島氏を社長(私は顧問)とするグリンケールという株式会社がでっち上げられた。
     会社設立の陰の人渡辺翁や秀島氏らは、初め、「支部は株主にする」との構想を示されたのであったが、これも後に、やはり当局の意向によるとかで、たち消え、代理店として契約加入することになっていた。

    普及会解散

     しかし、5月の総会では、従来の「普及会」を解散し新たに、緑葉食青汁の普及のみを目的とする「青汁の会」を結成すると決まっただけで、支部の問題は結論に達せず、後の話し合いに俟つことになった。それは、あらかじめ会社側から提出された契約条件が、あまりにも一方的であり、また苛酷であったためであった。
     その後会社側は、何故か支部の合流を拒否し、懇談を希望した私の提案に対しても、
    「もはや妥協の余地なし」
     と回答する始末であり、しかも裏面では、めぼしい支部の引き抜きや、除名支部の抱込み策するなど、不可解極まる暗躍もあった。

     ために、支部の態度は硬化、会社への合流を潔よしとせず、有志を以て協同組合を組織し、会の精神を遵守し、あくまで「遠藤青汁」を護持するの決意を明らかにした。
     私は会社に対し、
    「会社はもともと真面目な支部を生かすためのものである。」
     従って、それを除外したり、不純分子を抱き込もうとするがごときは、設立の趣旨目的と全く背馳するもので、かくてはもはや会社を存続する意味のない旨を強調。解散を要求したが、いれられず、
     逆に「しからば会社を買いとるか、さもなくば会社は会社独自の行動をとる。」との理不尽なる決議をおっかぶせられた。そして、再三の交渉にもさらに誠意を示さぬばかりか、果ては青汁とはおよそ似ても似つかぬ「ケール」なる得体の知れぬ着色合成飲料の発売を始めるにいたったので、ついに私も完全にこれと絶縁した。(32.9)

    青汁の会及び共同組合発足

     一方、「青汁の会」は7月末創立総会をあげ、従来の普及会から営業部門だけを除外した純粋な普及啓蒙運動機関として再発足し、「協同組合」は10月、法的手続きを完了、完全な企業団体として新発足し、組合員は同時に「青汁の会」の支部をかね、その事業に協力することとなった。

     その間、従来態度のあいまいであったものはおのずと離脱したので、所謂自浄作用をなした結果となり、「遠藤青汁」護持の同志としての結束はいよいよ純粋なものとなり、また強固なものとなった。
     これより先、これらの問題の片付きかけた8月、安井氏はいよいよその本性を現わし、「商標は自分のものだ」と主張、若干の組合員を商標権侵害で告訴した。私も検察庁へ呼び出されたが、さいわい小野山、豊田両先生のご尽力により、間もなく無事落着した。
     こうして、ようやく1年ぶりに落ち着きを取り戻した「青汁の会」と「協同組合」とは、互に表裏一体となり、緑葉食青汁の普及に挺身すべく、誓い合っている次第である。もっとも、あの手この手の妨碍はいまだに跡を断たないが。


1-25 結び

     青葉、青汁といい出してかれこれ15年。思えば随分といろいろのことがあった。
     随分多くの方のお世話になり、ご迷惑もかけた。これらの方々に対し、心からなるお礼とお詫びを申上げ、併せて一層のご協力とご支援をお願いいたしたい。
     また、多くの人に利用され、裏切られ、だまされもした。癪には触るが、身から出た錆だし、それはそれなりに何がしか役に立ってもらえているのだから、やはり感謝せねばなるまい。
     とまれそのみちは決して平坦ではなかったが、幸い多くの同志の力添えによって、たどたどしい足取りながらここまで来た。まことに有難いことである。(33年3月)





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