遠藤仁郎先生と青汁の会について
創業者田辺光正写真
私が四十数年前に
遠藤仁郎先生と始めて御会いしたのは、
兄の弘が胃潰瘍を患った時に、
主治医であった医師が
先生の教え子にあたる方であったこと
がきっかけでした。……


 当時、私は二十代の若造で、農家の次男坊として将来の農業経営についてそれなりの危機意識を持ちながら、倉敷にあった大原農研に足を運び、最新の農薬や除草剤の運用試験を引き受けたりしながら、新たな突破口を探っている毎日でした。 直接、最新の農薬の運用試験を行っていたこともあり、遠藤先生の医者の立場からの考えは、私にとって非常に新鮮なものであり、私の行なう試験は、ツリーケールとチキンケールの比較検討等、青汁に関する実地試験の方向に傾いていきました。

 当時は、戦後の日本が始まろうとする時期で、サンフランシスコ講和条約の締結と日米安保の開始に象徴されるように、全く正反対のものが一緒になってもみ合いながら将来の日本の土台となるものを形作っていく時期でした。政治のほうは五十五年体制と呼ばれるものがその体制を確立していったわけで、農業の分野でも医療の分野でも、それぞれの主流となるものがお互いの主張のせめぎ合いの中からその体制を築き始めた時期だったのだと思います。
 青汁もそんな社会背景のなかで、勿論遠藤仁郎先生がその中心におられたわけですが、百姓のせがれは、百姓の立場からその意味と必要性を実験検証し、学校関連では、貝原先生がその職域のテーマとして見定めながら独自の主張も交えて運動を推進されていったわけです。
 遠藤仁郎先生自身も医療の分野で、それこそ第一線で実際に治療にあたるなかで、青汁を普及させようと努力されたわけです。そこには、正解が用意されていたわけではなく、日々が主張とその検証の連続でした。遠藤青汁の会というのは、そういった主義主張を同じくした異業種の者たちの研究発表の場であったように思います。そういった前向きの活動を、それぞれがいわばボランティアで続けていったのが青汁の会でした。

田辺食品株式会社    
創業者 田辺光正
(遠藤青汁大阪センター) 

『机の上に本を3冊置いたら………』

 大阪で青汁の配給を始めようという頃に、先生が私におっしゃったのが、
 『机の上に本を3冊置いたら商売はできんよ。』
 という言葉でした。
 今、振り返ってみれば、先生は私に「青汁を事業化せよ。」と命じていらしたのかも知れません。遠藤青汁の会は無報酬を前提とした有志の集まりでした。発足当時、先生自ら『それが一番よかろう。』ということで、協力させていただいたものでした。そんな先生の言葉だからこそ、尚一層、鮮明に記憶しているのかも知れません。
 遠藤仁郎先生は理論と実践を兼備した人生の師でした。
 そして、私の青汁事業は、こうして始まったのでした。




ケールの顔
<1978年10月15日発行 健康と青汁第266号より>
    ピロサンの材料ケール

     私が20数年前、青汁を始めて間もなく、遠藤先生にツリーケールとチキンケールの種をいただいて、試作したのがケールを知った最初でした。ツリーケールは、オバケ野菜といえる程大きくなり、青汁の材料にうってつけでした。今では先生の配布によって、日本中に広がっています。チキンケールは葉が小さくて、縮んでいて、収量が少なく、見捨てられました。
     その後、私が大阪に出て、種苗会社から求めたケールは別の種類で、小さく、5月末頃の気温に根本から腐ってなくなってしまいました。なお、中南米には、細葉の小さいケールや、台湾には口を食べるものもあるようです。
     ケールは、寒い所から暑い所にまで、非常に多種類がありますが、その中から、遠藤先生が選択されたツリーケールは、生長力、収量、緑野菜としての美味しさ、また、四季を通して採取できること、それに最近特にさわがれる安全性の問題にも、すべてに最適のものでした。その上、昔から永い間、人々が野菜として多量に食べてきたという歴史がありました。
     先生が、長年の経験から、青汁の材料として最高のものをと求められた結果の選択であったろうと、今更のように感心しています。この安全性の確かなケールの恩恵で、青汁が実行され、多くの人々が助けられています。今後も青汁をより安全に実行してゆくためには、ケールの栽培や改良に力を注がねばと考えています。そこで小さな体験ですが、乾燥青汁「ピロサン」の製造工場の設定地の計画からケールの栽培の実際を報告したいと思います。
    ケールの栽培地選定

     今度のピロサンの製造工場は、日本で一番栽培条件のよい所にしたいと考え、日本地図を何度となく開いて眺めました。
     先づ早魃、雨量、日照時間を見当にして、和歌山県南部と九州南部を調査しました。その結果、自然条件は今の日南が理想的でしたが、台風銀座の異名のある所でもありました。川の水は冷く感じる程よく澄んでいて、小魚や小えびも住んでいるし、長たにしや、手長えび(現地ではだくまえびと呼ぶ)も沢山います。5・6月頃には、源氏蛍が飛びかい、都会では忘れられた美しい光景が見られます。また年の瀬頃には、川を稚えびが蟻の列のようになってのぼると聞きます。これらは、自然がまた汚されていないことを目で確められる証拠だ、と考えました。事実、先進農業地より、農薬使用の頻度ははるかに少ないようです。だが、これを裏返して考えれば、ケールの害虫もまた多いだろうと、予測できるわけでした。
     しかし、日南の農家は刈草や農産物を主に飼料として和牛を飼っています。このことから堆肥が沢山有ることを知り、害虫や台風との闘いは、承知の上、自然条件のある日南に、理想の堆肥栽培・無農薬を実行するケール栽培地と決めたのでした。
    無農薬ケール日南の地に育つ

     私は日南地方に知人は全くありません。そこで、農協や農業改良普及所をたずね、色々指導をお願いしました。ケールの珍しさから、初めは、農協も協力的でしたが、技術段階になって、「農薬を使わないで菜っ葉ができるものか」と、全く相手にされなくなり、困ってしまいました。これでは、直接、農家に協力をお願いするしかないと考えて工作中、地元の高橋さんのご協力で、やっと11人がケール栽培の説明会に集って下さいました。
     皆、一応、趣旨がわかって集った人達も、改めて「農薬は絶対に使わないで下さい」、というと、大きな溜息をついて、「青虫が葉を食べて穴だらけにしてしまう」、といわれました。そこで、私のいうようにして、穴だらけになったケールも出荷して下さって結構です。穴のないケールはできないはずです。穴もない、虫もいないケールは受取れません。私がこれからつくるピロサンは、ケールを何十分の1にも濃縮したエッセンスです。これを利用するのは、体の弱い人が多く、ことに腎臓や肝臓等のむづかしい病気の方々が毎日沢山のピロサンを使っています。また、医者に匙をなげられたような病気の方も大量に使うことがあります。もし、原料のケールに農薬が使われていたら、その何十倍もの影響が体の弱った人々にかかります。そのために弱い体がより弱っては大変です。農薬の使用は絶対に困ります。と説得して、自然の味方が天敵である話を続けました。

     青虫の大敵に青虫コマユバチがいますと、そのマユを見てもらいました。皆、初めて見た様子で、他にも青虫コバチもいれば、クモ、足長蜂、小鳥類、青蛙、ハンミョー等、数え上げると切りがない。これらが活躍できれば農薬など使わなくてもできますよというと、それでできるなら高い薬を使わなくてすむ、やって見るといって、協力して呉れることになりました。
     私の経験は誠に貧弱なものでしたので、指導に自信は全くありませんでしたが、どうしても成功させなければ、多量のピロサンや粉末を人々にすすめることができません。必死の思いで指導に当って来ました。

     最初の年、2月に白い蝶が舞い始め、この寒いのに今から青虫につかれてはと一瞬とまどい、指導したことで大丈夫かな、と心細い感じがしたものです。もし指導があやまれば、協力者の農家の人々もケールから手を引いてしまいます。一度失敗すると二度と協力は望めません。私にはそれをくい止める方法はありませんでした。
     指導はしたものの日南に於けるケールのことも、また虫のことも、実際、初めてで何一つわかっていません。農家の人に会った時は自信満々でなければなりません。農家は私の依頼でケールを契約栽培しています。指導に間違いがあれば私には破滅となります。そこで何とか農家から問題を提起される前に指導することが必要となり、ケール畠を丹念に見廻りました。

     ある日、畑で作業中の人に会うと、「田辺さん青虫がいますがどうしましょう」と困り顔で云われました。そこで、自然に、「目に見えたらつぶした方がいいです」と答えて通り過ぎました。今では、5・6月頃になると虫取りをしている姿をよく見かけますが、本当に御苦労様ですと頭のさがる思いです。
     これからのケール作りが楽になるよう共々考えて行きたいと思っています。例えば自主駆虫法の研究、植物の並植や器具の研究。いま一番面白いと考えているのはケール畠にヒヨコを放し飼いにすることです。このヒントは、私の長女が死にそうに弱ったヒヨコを近所でもらったことがありました。これに青虫をあたえ、3羽とも元気に成長して鶏になり、知人に差上げて食べていただきました。この鶏を思い出しての夢ですが、実際は色々問題があります。ヒヨコの敵となる猫・犬・いたち・蛇等地上の生きものの他、空からはトンビ、タカなども害を加えるでしょう。しかし、一石二鳥になることだし、どうにかして実現出来ないものかと農家の人にも提案しています。以上が農薬を使わない為に実行したり考えたりしていることです。
    肥料の実体

     現在の農業は、化学肥料に頼りすぎて、土地が死んでいるとまでいわれている状態です。そこで、生きている土でケールを作りたいものと思っていました。
     ケールは肥料によって少しづつ色が違ってきます。尿素の場合は葉の表面が幾分白味を帯びています。アンモニヤの場合は、葉の表面を洗い流したようになり、石灰窒素は黒味を帯びた緑色にと、少しづつケールの顔色は違ってくると、私は思っています。
     そこで、農家と契約の時、ケールの栽培に化学肥料を使うと病気が出やすくなって具合が悪いから、堆肥と石灰を充分使って作って下さいとお願いして来ました。けれども、初めの中は、畠を廻って見ると色の違うケールがありました。畠で作業をしている人に、「これは色が違うようだが肥料は何をやりましたか」とたずねると、「ちょこっと尿素をやりました」と正直な返事が返って来ました。そこで、「化学肥料は病気に弱いケールにします。せめて鶏糞にするとよかったですね」という具合でした。

     畠に堆肥を多く入れる程ケールは沢山取れるといっています。現在では、10アール当り5トン位の堆肥を原肥として一作のケールを取り終っているようです。堆肥の状態は、牛舎にのこくず又はもみがら、わら・草等を入れて、牛糞と混ったものを積んで置いて腐らせたものです。この地方の牛飼いは、農家が和牛を農作物や刈草等の自給飼料で小規模に育成してできた廐肥なので、より安心でした。大規模飼育や乳牛には濃厚飼料が使われていて、絶対心配なしとはいえない点があったからです。こういう意味で、調査中の自然条件の中に日南の堆肥を考慮に入れていたのです。ケールの顔色にもう一つ大切なことがあります。下葉が黄色になり、元気の良いはずの葉も黄緑色になり、さらに赤色が表面に出て来ます。この状態が進むにしたがってケールの成分も、また急に変化して来ます。澱粉と燐が多くなり、目的のビタミンやミネラルが減って1/5以下になるものと思われます。

     また、このようなケールには亜硝酸が増えているのではないかと気になります。一口にケールといっても大変な違いとなるのです。これは肥料切れの場合ですが、排水の悪い時や、石灰分の不足した時にも同様な状態がおこります。石灰と排水に注意する必要を感じています。昨年の2月中頃だったと思いますが、ある農家が、「堆肥を充分入れてあるのに黄色になって来た。この度はもう駄目だから尿素を使わせて下さい」、といって来られました。私はすぐ畠を見に行って「石灰はどれ位やりましたか。」と聞くと「10アール当り三俵くらい」とのこと。「それでは石灰を、またやって見なさい。元気になるかも知れませんよ。」というと不思議そうな顔をしていました。
     その後、15日くらいたってその人に会った時、「石灰もきくものですね、元気になって来ました。」と喜んでくれました。色々なことがありますが、今のところ指導が的中して安心して私の話を聞いて下さる感じで喜んでいます。しかしこれから先もっと難かしい問題が出て来たらどう切りぬけたものかと内心びくびくしています。

     去年の春のことでしたか、「ケールに硝酸塩が。」と報道されたことがありました。さんざん調べて見ましたが結局、問題はないと納得できました。遠藤先生のお勧めもあって、ピロサンの亜硝酸塩の分析を機関に依頼しましたが、結果は、「亜硝酸塩は検出せず」との報告を得まして安心いたしました。それも、化学肥料に頼らず、手はかかっても堆肥で作り、農薬も使っていないからこそ、どこから横槍が入っても胸を張っておられるのだと、晴々とした気持です。これひとえに農家の方々のご協力のおかげと、心から感謝しているしだいです。



無農薬栽培 日南での思い出
<1990年1月15日発行 健康と青汁第401号より>

     日照時間の長い南九州で、健康を願うにふさわしい環境に、ケールの栽培地をと思い、昭和48年頃に探しました。折しも大きな源氏蛍の飛ぶのを見て感心したのが日南でした。此地の川には稚海老の列や川ニナと蛍がいる。更に農家では刈草を牛の餌にしているのが、すごく嬉しかった。堆肥に抗生物質汚染もありません。(此頃は公害・農薬たれ流しで蛍は絶滅したと言われていました)実に、素晴しい自然環境があり、ケールをここに作りたいと決めたものです。

     今まで協力的だった農協の指導員さんが、無農薬では菜っ葉は作れませんと言い残されて去られたことを思い出します。結局一部の篤農家のご協力でケールの無農薬栽培が始められました。この地では4月初めに田植という気候の好さに、虫のことが心配になり、少しとまどいましたが、先ず畠に堆肥を5トン〜10トン入れてもらい、土作りから始めて、ケールを植えつけました。
     大きくならない内にもう虫がついている。季節が進むと虫を捕っても捕ってもわいてくる季節があります。それでも天敵が出てくるまではと言っては、見るも無惨な虫食いケール葉を買い取って頑張って貰いました。
     そして3年目から小鳥は勿論、雀も群がりだした。5年目位から青蛙が目につきはじめて以後毎年多くなり、8年目頃には蛙を足で踏つける程に殖えてきました。この様に次々と新しい天敵が出て応援してくれていますが、しかし今でも虫がわいて捕っても捕っても追いつけないこともあります。
     葉菜類の無農薬栽培には多くの努力が必要です。その後、健康を求める人々が次々色々と試みられていました。しかし今では低農薬栽培とかの新語を使う人やグループが多くなったように聞きますが、残念な思いがいたします。
     人に、なぜ無農薬なのかと聞かれても、なかなか答えにくいですが、以前に私は「このケールを食べる人の中には、一日に2kgちかくも食べる人もいる。となるとたとえ農薬は少なくても弱くても、病弱な人が、健康な人のなん十倍もの農薬を食べることになって、それが病気の治療に障っては申訳ありますまい。」と答えたことがありました。
     或る肝臓の悪い(肝炎)人に無農薬、有機栽培のケールの乾燥加工品を食べて貰って、病院からの退院が非常に早くなったと喜ばれたことがありました。その友達の慢性肝炎の人は、10年以上も通院してよくならなかった、80才の老人も、此のケールの乾燥品を食べて4ヶ月間で急に良くなったと礼にみえられた。
     此の人の親戚の肝硬変のご婦人の顔の色素沈着がとれた。病気が治ったより嬉しいとの便り、その2ヶ月後の検査ではデーターまで良くなってきて、医者も驚いたそうです。他にも腎炎・慢性腎炎の尿蛋白が減った。糖尿、痛風、筋ジストロフィー、10年来の喘息が、痔が手術せずに、癌治療薬の薬害が非常に軽かった。最近多い、子供のアトピー、花粉症鼻炎にも意外に効果のある場合が多い。こんな物でと、びっくりする程の効果を見ることに、数々でくわします。

     しかし同じようなケール製品でも、或る人が(上記2番目の人)2ヶ月程、他のケール(無農薬製)を用いて、肝機能のデーターGOTが40以下に降っていたものが急に80になり、又別のケール製品に代えたが一向に良くならない。とのことで、前の物がほしいと言われたことがありました。
     無農薬ケールで同じはずなのに、データーが何故悪くなったのか、不思議がっておられました。青野菜を増やして健康になるということは、野菜不足だったということです。健康な時から、いや乳児の子供の時から、毎食少しづつでも、安全な青野菜分を与えて正しい栄養と味覚を体験すると、皆んな幼児がアメ玉や甘い菓子を口に入れずに、玩具にしてもち遊びます。その後も大人の味覚で、甘い菓子などを、子供におしつけなければ、元気で病気しない子供になってくれます。

    (1988・8)





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