|
腹膜炎:掲載紙面選択
|
|
|
1. 2カ年にもなる腹膜炎
|
吉備郡 Y.T.
暑中御見舞い申し上げます。
病人には暑さ寒さが非常に苦になりまして、本年等暑さと戦い得るだろうかと思うくらい2、3月頃は悪い状態でございました。それが3月、病院にて診察を受けました結果、先生の尊き青汁療法を御教え頂きまして、連日主人に作って貰い戴いて見ますと大変快く感じられましたので続いてずっと服用致しております為あの衰弱より救って頂き相当な厳しいこの暑さにも肥えて来まして少しは家の用事も出来るくらいになりました。
併し今暫く油断はなりません。2カ年にもなる腹膜炎です。でも屹度良くなると確信致し感謝と希望を持ちまして怠りなく毎日4月頃から自分で作ります次第でございます。
不便な地にて青果も仲々手に入りませんこと青汁の有難さが痛切に感じられます。もっと早く知らしていただいていたならこれ程悪くならなかったでしょうにと残念に思う日もございます。胸を6、7年病んだ挙句なんですから、病気の味はもう酢っぱくなる程味わっているのです。悲しんでいるよりも何よりももっと沢山青汁をいただきましょう。この尊き青汁を。そして1日も早く全快の喜びを発表し皆様にもよろこんで頂ける日を楽しんでおります。つたないペンにて失礼致します。(昭和30年8月2日附通信)
|
|
2. 浮腫に對する青汁の大なるききめ(上)
|
富山市 A.S.
私は33年5月初め、急性膵臓炎、急性腹膜炎で大手術を受けた。
まる7ヶ月間病院生活をし、始め胸の水落と胸の右下の方とに管を挿されて、そこから膵液と胆汁とを外へ導き排出されていたが、胆汁の方は相当長い時日が経っても止まらないので身体は非常に衰弱した。
11月末に退院したが全快しないまま退院したので同じ一室に懊悩の思いで養病するよりも気分転換に家へ帰って、安静休養治療するもよかろうというので退院したのであった。
家へ帰ってからは幾分気分的に心気は快方であったが、全身ムクんでいた浮腫は少しも減じない。又食事も入院4ヶ月頃より一椀の粥の3分の1しか食えなかったのが、家へ帰っても同じであったが唯口の甘さは以前よりも好くなって来た。
しかし呼び69歳の老年で、長い闘病生活にやつれが来ており、自分では到底恢復覚束ないと覚悟せざるを得なかった。退院後17日目に、いつも私が親父に浴しいる医学博士の田上老先生が茅屋を訪ねて下された。入院中も月に1、2回私を見舞って下されたのであったが、今回は特に念入りに慰撫せられ持参された蜜柑の一袋づつを搾って、その果汁を口へ吸わせて下される程であり、私は感涙したのであった。
此の時老先生は「只今あなたを訪ねたのは、あなたの病気は可なり重病であるが之れを治すのは、唯青汁だけであろう。今此青汁について私はお話したいから聞いて下さい。さあ!奥さん(荊妻)もここへ来て聞いて下さい」と。
先生は私と荊妻に対し、「今後先生(私のこと、その昔私は教育界で半生を過して来たもの)の病気を必ず治してあげましょう。奥さんは私の言う通りに世話看護をしてあげて下さい」と。
そして青汁のことについて、諄々懇切にお話して下された。私は黙々として沈静に傾聴した。老先生のお話が終るや、私はこれこそ宿痾を一掃する唯一の治療法であろう。かねて何か的中の療法がなくてはならぬ筈だがと、ひそかに心待ちにして居たこととて、此の福音を聞き得たことは、願望の到来であると喜ばれ、之れでこそ必ず治ると確信を持った。
私は老先生に対し青汁療法を貫行する固い決意を披瀝し、老先生の誠意と純情の至大さとに無限の感謝を捧げた。老先生は今80幾歳の高齢であるが、金沢医大で何かの研究に専念されている。矍鑠たる元気で、何等野心なく屈託なしの日常を過しておられる所、誠に隠徳至美の仁人である。
老先生が私の家を去られたのが午後4時。冬至を眼前にして、日足の短い最中である。直ちに妻は青汁を造って呉れた。夕食はジャガイモ。これから後の主食はずっとジャガ薯を続けた。副食物に細心の注意を払ったことは、特にそのようにしなければならなかったのであって、繊維の多いものや少し堅いものは、乳鉢で磨りつぶしたりして、長い間此のようにやった。かくて此の日は夜寝るまでの間に2合5勺飲んだ。
すると不思議哉、霊効即応、その夜は一乃至2時間毎に小便が出る。而もその分量は500cc前後である。翌日後は1日3合位の分量を飲んだ。4日間程にして、からだのムクミは殆んど目立たなくなった。私の歎喜はその絶頂に達した。
34年新春を迎えたがお雑煮は、お正月の祝としてちょっと形式的に食べただけ、主食は飽くまでジャガイモであって、一時積雪のために、大根葉の八百屋に品切れた時など近郊の農家の人に頼んで用意し、冬期中一日も之を休まなかったのである。
2月になってからは気分の良くなったことは夥しい。食事も進んで口に甘い。蜜柑は退院後一日に7ツ8ツ乃至10ほど食べる。之れは通じをつけるのに無理を与えないから宜しい。ムクミのあった頃は下腹部に一種言い得ざる不快感が連続し、恰も膓の中に角ばった雙六の骰子のようなものでも停着しているかの感じがした。そして、それが時々位置を変えることもあり、又其のような痛点が3ヶ所許りに増して来たので懊悩と焦心に堪えなかった。
2月の半ばになると此の膓内の不快感が殆んど無くなった。此のようにして、身体の調子は著しく整って来て体力も僅かながらついて来たことは、勿論退院後病院からの内服薬をつづけて服用し、又家にあっても主治医の命ぜられたままに、十二指腸ゾンデを行ったことが効果をもたらしたに違いないが、青汁がムクミを去る上に著大な効験を顕わしたことが主なる原因であることを否めない。
さりながら胆汁の滲出が何とかして止まらないうちは、結局は衰弱によって一生の終焉を招来するということを想起さぜるを得なかった。所が3月に入っても閉止せず、4月を過ぎ5月に入って、もう病み始めてから1ヶ年に至ったが、胆汁滲出は依然として、胸部に3枚重ねてあててあるタオル大の白布をしっぽり濡らしてしまうという具合で胆汁の滲出は一日として休まない。(以下次号)
|
|
3. 浮腫に對する青汁の大なるききめ(下)
|
富山市 A.S.
6月24日以後此の病気にて手術を受けてから1年と2ヶ月目に胆汁の滲出を見ないこと6日間に及んだ。此の6日間を盛んに滲出していた過去と比較すると、身体の活気や気分が大変に良くなったことを自識され、愈々これから胆汁瘻が閉塞するものと確信を持つに至ったが曽って入院中にも此のようなことが二三回あったけれども、それが持続せずに又滲出した失望的な経験もあり、此の際再入院して主治医が胆嚢の剔出より外に方法がないという御意見であれば、それに決めようと思って2度目の入院をした。
主治医の曰く「先づ体力を附けてかかってその結果を見て最善の方案をとろう。」と。
私の最も信頼される温良沈着な主治医先生の言葉であった。
私はそれが至極順序に腑に落ちた。入院の即日から先生の深慮ある栄養治療の方案が実施され、一意専心渾身の努力をして下されることが自らわかり誠に有り難く思った。
輸血も幾日か続いた。大小の注射は毎日六七回。かうして約40日間に体力は大いに増進して来た。そして滲出は完全に閉止した。
さて此の入院中にも毎日2合の青汁を家から持ち来らしめてその飲用を怠らず、又ジャガ薯も直ちに食事出来るようにして家から持ち来らしめ大抵の日はイモ食事を欠かさなかった。私は今や殆んど全快して大体に於て痛痒を感じるものはない。
再入院は7月始めであって8月上旬に退院したが、時は三伏の酷暑であって痩躯で之れに堪えるのは容易でなかった。唯道楽の漢詩をを以って苦熱を忘れることにつとめ、辛うじて自らを慰め過した。
併し此の慰撫は前後2回の入院中に於ても無聊を打消す好趣味であった。
病院の内服薬は退院と共に打切り青汁は休まず持続飲用し,夏時蔬菜の豊富な頃は胡瓜をおろしかきで卸し、食事の時のお菜の一品に加えた。又菜や大根の若葉、大きい葉の先の方は二杯酢にして之れ亦食事の一品に重視した。今も尚ほ然うである。要するに私の重痾はムクミを去ったことに快癒の第一歩を印したのであって、これに著効あらしめたものは青汁であったといいえよう。尚ほ近時特に血色が良くなって田上老先生や知人などから病気以前よりも顔色が良いといわれる。私も然う思っているが、之れも青汁のお蔭生蔬菜重用に基因する所と確く信じている。
最後に田上老先生が青汁の卓効の福音を伝えて下された限りない恩愛と未だ御面識を得ていないが遠藤先生の博大な智識と至厚なる仁愛の精神で之れを世人に推奨されている御熱意に対しまして衷心感謝と敬意を表します。
病褥中に賦吟したものの中から数首を左に載録さして貰い、同好各位の御一粲を得たいと存じます。
仰臥病床賦感
微呻病棟漏声長
枕側菫花徒愛傷
痛歇雖吟猶欠点
覆離被架似亡羊
33.05.22
|
看護婦
急患一身日赤追
大医率下合看為
挺身看護名利外
退院誰純情不思
33.07.05
|
青汁
蔬菜菁菁緑葉茎
欲生栽菜不如耕
未癒宿疾愁嘆夕
青汁霊功蘇我生
34.09.22
|
|
宿疾
|
偶成
34.05.26
|
勅題「窓」
己亥頌春瑞気宸
城南隠士安清貧
病躯難奈唯危坐
斎裡凭窓拝百神
34.正月
|
大寒
衾衽雖温両足蹲
睡中欲潤側妻呑
徐醒有想宸光未
硯海不流唯待暾
34.01.26
|
勅題「光」
年余養病似超濤
唯恃老来意気豪
寒夜擁炉詩作楽
起望窓外月輪高
35.正月
|
晩秋登于立山弥陀原
欲愛晩秋立山晴
耶嬢与息早朝行
乍飛雪襲孱顔曲
皓白粉粧美女平
34.11.22
|
|
最後の詩は今年11月22日往復乗物を利用して立山弥陀原へ遠足した時の作です。これ程までに丈夫になったことの表われに一首載せた訳です。
|
|
4. 乾燥青汁の偉効
|
福岡県 H.S.
昭和37年春、流行性感冒に罹患して以来、気管支が弱くなり、毎年、冬になると、必ず2―3回風邪をひき、38年、下関移住の頃は、月1回風邪をひく有様で、早く自家栽培でケールを服むようになる日を待っておりました。
一昨年、当地に永住することになり、庭にケール用の畑をつくり、昨年春から早速ケールを蒔き、秋からぼつぼつ服みはじめましたところ、ついに、本年は1回も風邪をひかず、われながら驚き、ありがたく、感謝の日々をおくっていました。
ところが、4月になってとうとうケールが絶え、新しく蒔きましたものも、寒いためなかなか育たず、折角芽が出ても蝶が来て青虫をつけ、おまけに私が旅行をして、心身ともに疲労して以来、持病の肋腹膜炎(これもケールのおかげで、全然化学療法を行わず、治っていました)が、そろそろ再発しかかりケールを服まないために、利尿、便通が非常に悪くなり、浮腫が現われ、起床時は呼吸困難や、唇にチアノーゼが来て、動けなくなりました。
これでは、ケールがないために死んでしまうのかと思いましたが、乾燥末のことを思い出し、早速お願いしてみました。
毎日、届くのを待ちこがれていましたが、去る27日やっと届き、大急ぎで、早速スプーンに山盛り3杯、牛乳にとかしていただきました。
あの懐しいケールの香がプ−ンとして、服むほどに体のよどんだ血が、新しく蘇がえり、さらさらと流れはじめるのがわかるようでした。
乾燥末がこんなに偉効を奏してくれるとは思ってもみませんでしたが、全く、私としては生命の泉。黄金よりも、宝石よりも有難い、不老長寿の霊薬であります。
こうして、すっかりファイトを失い、死への道を転落するかと、意気消沈していました私は、おかげ様で、グリーンジュースの素を3日服んだら、すっかり根気をとりもどし、また生きる力を得て、仕事に精を出しています。
今の日本には、心身とも真の健康体であるものは、殆んどいないのではないでしょうか。青汁を服んでいる人は別としまして。
私より、ずっと年若い者が、私よりも不精で、仕事嫌いで(なまけ者で)、ぐうたらで、記憶力が悪く、実際あきれたものですが、これも水銀米のためかと思います。
一億、青汁を服んでよい国民になり、良い国づくりに励んでもらいたいものだと、つくづく感じます。
体のあすこが悪い、ここがどうと訴えるくせに、青汁をすすめても、日本人は実行力が乏しいので、努力して服んでくれる人は殆んどありません。でも私がすすめてあげ、勇気と努力で実行した人は、必ず健康になり喜んでくれます。
何事も、「天は自ら助くるものを助く」で、昔の人はよくいったものと感心いたします。
これからは、畑がない、ジューサーがない、しぼって飲む手間がない、という人には、グリーンジュースの素をすすめて服むようにいって上げますが、デパートで簡単に求められるようになって欲しいと思います。
けれども、そうなると、またニセモノがはびこるのでございましょうね。
全く困ったことでございます。
|
|
5. むかし話(初期の旧稿から) 慢性腹膜炎と緑葉食
|
医学博士 遠藤 仁郎
24才の青年。4年まえの春(昭和廿年)、腹がはり痛むのでレントゲン検査をうけた。
2ヶ所に腸の癒着があるということで、手術をすすめられた。しかし、折柄召集をうけたのでそのままになった。当日は痛が激しいため、ついに応召できず、いらい地方医の治療をうけていた。
症状はしだいに悪化し衰弱を加えて来たので同年秋ふたたびレントゲンにかかった。
癒着は数ヶ所に及んでおり、とても手術はできぬといわれた。私のところへ来たのは、あくる年の春廿一才の時。
栄養はおとろえ、皮膚は乾燥し、貧血している。腹は平坦で、一般にかるく張り、所々に圧痛がある。食欲はあるが、食べると痛むので食べられない。便通は不整で秘結がち。便に変ったところはない。癒着性の腹膜炎である。
結核性にそういないが、幸いに胸部には大した変化はない。熱もない。はじめから、4〜5年はかかると覚悟して、気永に辛抱よくからだの調子をととのえる他に途はない。腹はしっかりあたためる。便通はなるべく毎日快通さす。そして正しい食べ方を熱心に実行することなどを注意し、その後2〜3度相談に来た父親にも、その都度、緑葉食ことに青汁の必要なことをくりかえし、どうせ持久戦だから、畑のものから作り直すことだと話しておいた。
農家なので年中切らさぬように、清潔な緑葉菜をつくり、煮ても食べ、生汁にしても飲んだ。しかし、体力はしだいに衰え、一時は8貫までやせた。2〜3の医師に治療を乞うたが、いずれも、もう処置はないと相手にしてもらえぬので、観念して食べ方その他をあくまでやった。
主食は玄米や麦のものとし、少しづつでも出来るだけよくかみ、緑葉食に徹底した。そのうち、健康な兄弟3人もこれにならい、菜食をやり出した。それまで肉食に傾いている時分、始終あった胸やけやつかえ、あるいは痛みといった胃の故障が全然なくなり、みんな顔色がよくなった。
本人も、これに力を得て、ますます熱心に精進した。いくらか調子がよくなったようではあったが、仲々はかばかしくは行かぬ。いくたびも落胆し失望したが、そのたびに勇気をふるいおこして頑張りつづけた。
そうこうしているうちに、いつとなく次第に力づき、痛も減って来、4年目の今年の春ごろには、もとの体重14貫にかえり、ふつうの仕事ができ出し、食べ方さえまもっておれば全然苦痛は訴えぬようになった。
なお、菜食をはじめて以来、白米飯がいやになり、小麦のものが好ましく、肉や卵や所謂あぶら濃いものも欲しくなくなったし、また、少しすぎると腸の調子が悪く、通過障害をおこすようにも感じられる。と彼はいっている。
(24・7)
|
|
ご意見・ご要望はこちらへ
|
|
|
|