健康と青汁タイトル小
炊事・調理・インスタント




1. 西洋料理

     品数は多いがその代り分量が少いよ。
     幾らでも食べられるだろう。
     西洋人の家で御馳走になって見給へ。
     品数が多くって分量の少いことお雛様のお膳の如し。
     それにビフテキでもシチュウでも肉が少なくって野菜が多い。
     日本の西洋料理屋ではお客が日本風の暴食連だから、肉の分量が少いと小言を云ふ。
     だから肉沢山の西洋料理が出来る。
     斯んな野蛮的の西洋料理は亜米利加へ往っても欧羅巴へ往っても見られんそうだ。

    (食道楽、春の巻、昭3)


2. フランス料理

    フランス料理のよさ
    青野菜の多いこと

     この頃、わが国では、方方で、「西洋料理」という看板が「フランス料理」という看板に書きかえられているようです。
     これは、西洋料理のうちではフランス料理が最高、ということが定評となっているからのようです。
     わたしは、まえまえから、このフランス料理を研究していたのですが、今から考えますと、実は、その意味を正確に理解していなかったようです。
     青汁を飲み始めて、身も心も、ほんとにすこやかになり、また若返ってくるにつれて、フランス料理の認識が新たになり、その意味がほんとによく、分ってきたようです。
     確かに、フランス料理は、十二分に手を加え、肉や牛乳や、油や香辛料を上手に使って、ほんとにおいしく、見た目も美しいのです。
     けれどもただそれだけで、西洋料理のうちで最高なのではないのです。
     それは、実は、野菜が多いことなのです。
     どんな皿にも、野菜が沢山ついているのですが、その上、野菜料理が必ず二皿つきます。
     その一つは、必ず青野菜のサラダです。
     そして、どんな食事でも、このサラダが必ずつくのです。
     とにかく、野菜とくに青野菜を、ほんとにおいしく、しかも沢山食べることが、フランス料理の特色なのです。
     いったいに、フランスの人々は、料理を作ること、そして食べることを、たいへん楽しみにしています。
     オカネも時間も、そのために沢山費やしています。
     が、それは、ただおいしく食べて楽しむ、ということだけではなく、その上つねに、健康であるように、ということを忘れていないのです。
     このため、野菜とくに青野菜を沢山食べるようになっているのであって、これが全く習慣となっているのです。
     しかも、フランスは、土地や気温などが野菜栽培に最も適しているので、季節毎に、いろいろな野菜が沢山とれ、それがまた、たいへんおいしいのです。
     野菜だけでなく、季節毎に、たいへんおいしい野草も、いろいろ育っているのです。
     タンポポなどは、春の食卓のシンボルとなっています。
     この点、他のヨーロッパの国々とは比較にならぬくらい、自然に恵まれているのです。
     ヨーロッパの他の国々の人が、わざわざフランスに出かけて、フランス料理を食べたがるのは、こうした野菜をうまく取り入れた、おいしい料理を食べるためなのです。

    サラダのよさ
    生の青野菜をおいしく

     フランス料理で、「サラダ」というのは、生の青野菜のサラダのことです。
     そして、これがフランス料理の最高なのです。
     といって、このサラダは、別に、マヨネーズとかフレンチ・ドレッシングなどで、ゴテゴテ調理したものではありません。
     新鮮な生の青野菜を、おいしく、消化がよいように工夫したものなのです。
     家庭によばれますと、必ず、このサラダが出るのですが、決して台所で調理して運んでくるのではありません。
     よく水気をとって、元葉のまま、大きな皿に入れて、食卓に運んできます。そして、食卓で、お客の前で、お客の好みに応じて、塩、コショウ、酢、油、ニンニクなどで調味して、そのまま差し出すのです。
     お客は、それを手に取って、元葉のまま丸めて食べるのです。
     それはなぜか、というと、こうなのです。
     いうまでもなく、青野菜は、生のままが、最もおいしく、栄養価も高く、消化もよいのです。
     生でも、鮮度がおちれば、それだけ、おいしさも栄養価も劣ってきます。
     きざんだり、その上調味したりすれば、時間がたつとともに、はげしく鮮度がおちてきます。
     それで、できるだけ新鮮なものを、元葉のまま、水気を十分とって(油をうまくそわせるため)食卓に運んで、食べる直前に、おいしく頂けるように調味するわけです。
     サラダは、おいしさと栄養を兼ね備えた最高の料理なのです。
     
    ケールの青汁は最高
     このように、フランスでは、野菜とくに青野菜を、生のまま、おいしく、沢山食べることが習慣となっているのです。
     が、みながみな、必ずしも、つねに青野菜を十二分に食べているとは限りません。
     そのためか、フランスでは、病気といえば肝臓を連想するのですが、肝臓が悪いといえば青野菜が不足している、というのが相言葉となっています。
     けれども、まだ、生の青野菜を青汁にして飲む知恵は持ちあわせていません。
     親しい人々に、これをすすめてみたところ、全く共鳴してくれました。
     そして、青汁を飲む人が、だんだん増してきています。フランス人のことですから、そのうち、青汁をおいしく飲めるように、調味を工夫してくれるものと期待しています。
     また、わたしは、フランスで、よく自動車旅行をするのですが、たびたび見渡す限り青々と牧草のつづいている辺りを通ります。
     以前は、ただすがすがしい眺めと見すごしていました。が、青汁を飲みだして、青野菜に関心が深くなってからは、必ずといってよいくらい、車をとめて、いろいろ聞いてみるようになりました。
     ところが、この牧草は、大部分ケールの一種なのです。
     よく聞いてみると、ニワトリでもウサギでも、ウシでもブタでも、このケールを食べさせるのが一番よいとのことです。
     わたしたちは専らケールの青汁を飲むようにしているので、このケールを食用にしているかどうか聞いてみますと、ただトウだけを食べているそうです。
     日本では、このケールを青汁にして飲んでいる、と話しますと、日本人はえらい知恵をもっている、と感心してくれました。
     ケールは、あらゆる牧草のうちで最も栄養価が高く、その上、年中沢山とれるのだそうです。
     これを、生のまま、胃腸の負担が少なくてすむように、汁だけしぼりとって飲むのは、すばらしい知恵であるわけです。
     ここでも、共鳴者が出てきました。

    青汁若返り法を伝える楽しさ
     わたしは、この頃、会う人々から、よく、若返った、若々しい、といわれます。
     確かに、以前よりも、カラダがほんとに丈夫になっています。荒れ肌も治って色艶がよくなって、若返っているようです。
     そのためか、たびたび、そのヒケツをきかれます。このヒケツは、いうまでもなく青汁です。
     これは、身をもって体験したことであり、専門的に研究しているフランス料理からも、なるほどと、うなずかれることであるからです。
     それに、だれでもできること、しかも別にそう余分に費用や時間もかからないことであるからです。
     自信をもって、この青汁を、若返りのヒケツとして、どなたにも伝えています。
     しかも、だれでも、カラダの丈夫なこと、若々しく色艶のよいことは、心から願っていることです。
     こうした願いに答えるものに、青汁が一つ、しかも根本的に重要なものが加わったことは、全くもって楽しいことです。
     この楽しさが、また、わたしを若々しくしているようです。


3. 無塩食と手塩

     つけ味の濃厚な食物になれた現代人には減塩、無塩食ほどつらいものはないらしい。
     しかし保健上からも特別の場合を除き1日十数瓦あるいは廿瓦以上もの食塩は決して必要ではなく、むしろ有害でさえあるとされている。
     また昔から物の真味は淡味にあるともいわれているように、これが人間本来の正しい食べ方のようである。
     古くから塩、味噌、醤油、酢、味醂などが調味料とされているが、塩がその最なるものであることは今も昔も変りはない。
     したがって採取容易でなかった古には、おそらくこれほど貴重なものはなかったであろうし、それだけにつとめて節約され、そのつかい方にも色々工夫がこらされたことであろう。
     昔は始めから味をつけられた食べ物は羹だけで、多くは、それらの調味料を入れた器を机上にそなえておいて、各自の好みによって調味したという。
     今では香の物などをつける手塩という小皿は、付塩皿の意でもと塩をつけた名残をとどめたものである。
     おそらく、ずっとの以前はすべて無塩食であり、つけるにしても一般にうす味であったろう。
     そしてこの付塩で適宜塩梅した。それも汁に入れたり、菜にかけるような勿体ないことをするのでなく、時々ほんの僅だけを箸の先、いやもとは手づかみで食べたというから、指先かあるいは何か棒の先にでもつけて舐めたものではなかろうか。
     無塩の野菜料理でも、こうした食べ方にすれば、1日に1−2瓦の食塩でも沢山で、とてもおいしく食べられるものである。

    (24・4)


4. 調理

     医学博士 遠藤 仁郎 

     自然界の動物の食べ物は、すべて自然のままですが、私ども人間は調理して食べます。
     それは、食べよくし、消化しやすくするためであり、細菌や寄生虫の害を防ぐためでもあります。
     まだ火食を知らなかった原始人は、動物と同様、すべて生食したでしょうが、それでも、食べよくするためには、大きいものは細く切り、堅いものは皮をむき、叩きつぶし、あるいは、水につけて軟くするなどのことはやったでしょう。そうした簡単な手を加えることでも、もう、いく分か栄養分は失われます。
     たとえば、細く切ったりすり下ろしたり、マッシュすると、組織が破壊されて、空気にふれる面が大きくなり、酸化酵素の活動がさかんになって、ビタミンをこわします。(ビタミンCや葉酸など)。また、穀や豆を水に浸すだけでも、水にとけ出る成分(ビタミン、ミネラル)はいくらか浸し水に抜けて行きます。

     しかし、もっとも大きい影響をあたえるのは、何といっても熱処理です(火食)。
     今では、調理といえば、煮炊きすることと、殆んど同じ意味になってしまっているほどに、よく火がつかわれます。火を使うことで、多くのものは軟くなり食べよく、消化しやすくなり(もっとも肉類のように、却って堅くなり消化しにくくなるものもありますが)、味もよくなれば、細菌や寄生虫の危険もなくなります。
     しかし、火によって変質し、利用しにくくなるものもあり(食品中のカルシウムは有機複合塩となっており、消化吸収されやすいのですが、熱処理で分解し、不溶性となり、吸収利用されにくくなります)、破壊されるのもあります(ビタミンC・葉酸など)。また、脂肪は、変質して腸管を刺戟するようになり、甚しい高熱では発癌性にもなるといいます。なお、煮汁の中にとけ出るものも少くありません(水溶性のミネラル、ビタミン)。その他、まだわかっていない、しかも大切な成分、いわゆる未知の因子の破壊、ということも考えられますし、軟化をはやめるため重曹を加えると、ビタミンの破壊はさらに甚しくなります(ビタミンBやC)。

     ともかく、火の発見とともに、調理法は異常の進歩をとげたけれども、それに伴って食の不自然化、不合理化はますます甚しくなり、多くの弊害を招く結果となりました。そしてその弊は、すでに夙く、古代に於ても認められました。

     ローマの哲学者セネカは、「今日、吾人はその料理の数だけ病を有す。その料理番の多いだけ疾患もまた多し。料理人は胃の役をつとめあはせて、また、歯の代用をなすものといふべし。これを以て、その作れる食物は、あらかじめすでに咀嚼せられたるものの如く見ゆ。これ百味の贅沢物を一皿に凝せるものにして、調理せるものといはんよりは、むしろ吐物に髣髴たり。」

     といっていますが、それは、そのまま今日にも適用します。
     また、近代にいたって細菌学、伝染病学の影響により、細菌、寄生虫感染が極度におそれられ、無菌的ということが、必須の条件のように考えられ、火食の傾向はいよいよ甚しく、生食などといった非衛生的な食べ方は、危険極まる野蛮行為として、排斥され、しだいにすたれて行きました。
     がしかし、その結果、はたして、旧時代に比べ、より健康となり、より長寿となったでしょうか。

     皮肉な一例としてラコルスキーは、
     「細菌学の大本山たるパストール研究所の学者達は、信仰的ともいうべき熱心さで、殺菌した食べ物のみをとり、かくすることによって、おそらく長寿を得、百才以上にも生きられるだろう、と考えていた。ところか、案に相違してかれらはすべて40〜60代でたおれてしまった」といっています。

     ギリシャ神話に、
     「人類の祖先であるプロメチウスは、ミネルバ神の助けで天にのぼり、禁制の太陽の火を炬火にうつし、下界の人間にもたらした。神はその罰としてパンドラをつかわし、「開かずの箱」をあたえたのだが、パンドラがそれを開いたので、もろもろの禍や病気が人間界に潜入した。」
     とあるのも、わが国の神話で、イザナミ神が火の神を産んで崩御されたことから、上代は火食を「ケガレ」としたこと、神饌にはすべて生ま物に限られていることも、おそらく、上代人が火食の害を知っており、神のおきとしていましめたものでもありましょうか。

     最近になって、ビタミンや酵素に関する知見のすすむにつれ、ようやく、自然食の重要性が認識されて来、ふたたび生食、しかもなるべく新鮮なものの生食、が強調さるようになったのも、けだし当然のことでしょう。いずれにしても、調理することによって、栄養分は大なり小なり失われ、食品は不完全化され、しかも、火を用い、手のこんだ調理ほど、その影響は大きく、味は落ち、健康上に及ぼすところは甚しくなります。したがって、料理は、大切な栄養分の失われないよう、なるべく簡単に。余計な手を加えず、出来れば自然のまま生食するか、せめて、なるべく自然に近いかたちで食べることが望ましいわけです。
     穀や豆類も、昔は、水に浸して軟らげ生食したようですが、歯の悪くなった現代人には、ちょっとむつかしいでしょう。またこれらは、たとえ煮炊きしても、栄養分の損失はそう大したものでないので、強いて生食する必要はありません。肉、魚、介、卵なども、新鮮なものは生食されています。ことに魚介類の刺身は、古くから、情熱的といってよいほどに愛好されています。

     ドイツでも、燃料節約をかねて、炊事に火をつかうのは1日わずか1回だけで、牛肉さえも生食用のが市販されているそうです。しかし、これらは寄生虫の心配がないではないし、火をあてることで失われるところは問題にするほどのことはないので、これらもまた、強いて生食するにはあたりません。

     大切なのは、とかく不足がちのミネラル・ビタミンの良給源である野菜・果物、ことに青ナッパの料理です。ビタミンCその他、加熱しただけでもこわれるものは、火力の強いほど、火にあてる時間のながいほど、その損失は甚しいので、なるべく軽く加熱すべきです。古人が、「ついえたる(にえばなを失った)を食わず」(論語)といっている通りです。
     また、煮汁へのロスを防ぐため、「いり菜」、「油いため」といった料理法、あるいは「汁の実」とし、汁も実も全部食べる、などの注意が肝要です。
     なお、もっとも大切なことは、なるべく多くを自然のまま、生で食べること。
     もちろんそのためには、良質で、安全、下肥も農薬も心配のない材料の円滑な供給が前提であることはいうまでもありません。


5. だし

     医学博士 遠藤 仁郎 

     「だし」は昆布・鰹節・椎茸などの煮出しのうま味を利用するもの。
     今日では、しかし、昆布の味はグルタミン酸ソーダ、鰹節はイノシン酸、椎茸はグアニ−ル酸と、化学的に解明され、化学調味料として多数の製品が売出され、たいていの「だし」はそうしたものになってしまった。 そして、これら化学調味料になれたこの節の人々からは、昔ながらの自然の「だし」のうま味は、もうすっかり忘れられてしまっているように感じられる。

     しかし昆布のうま味は、確かにグルタミン酸ソーダか主ではあるが、決して、それだけではない。昆布のもっているいろいろの成分の総合された複雑な味。それが、本当の昆布のうま味だ。鰹節・椎茸とも、みな同じ。しかも、その中には、昆布にいわれている不老長寿の効力をもつ成分もあろうし、椎茸には、それにいわれている抗癌性の成分もあろう。ダシジャコだと、内臓にある各種のビタミンやミネラルも出る。

     こうしたうま味や貴重な成分を、むざむざ捨ててしまうのは、まことに勿体ない。これで忘れられないのは、わが家の雑煮の「だし」だ。正月の料理には、大根・蕪・人参・牛蒡・百合・栗・クワイ・カシラ芋・小芋(里芋)・ホウレンソウ・水菜・昆布・ブリ・スルメなどの煮物をつくるが、その煮汁は一切捨てない。同じ煮汁で、これらを次々にゆで、最後に残った煮汁を雑煮につかう。コクのある味の素晴しさは、まさに天下無類だと自負しているが、これこそ、これらもろもろの材料から煮出した「だし」のカクテルといったもの。もちろん化学調味料は一切つかわない。私の母からの直伝だと家内はいっているから、まこと「おふくろの味」というべきものだが、こうした純粋の自然のうま味が、しだいに失われようとしているのは何とも悔しいかぎりだ。

     ところで、こうした化学調味料は、製品そのものとしても問題がなくもない。たとえば、グルタミン酸ソーダは、これまで無害とされていたが、大量は、注意を要することがわかって来た。もっとも成人のばあい、かなりの大量をとっても、せいぜい、いわゆる「中華料理病」をおこすくらいのことで、特別の害はない。けれども、動物実験で、脳や網膜に障害をおこすことがわかっているように、幼児に大量をあたえることは必ずしも無害とはいえぬようだ。ことに妊婦のばあい、胎児に先天性の知能障害や、視力の障害を原因するのではないか、と心配されているほどだ。ほかの調味料では、今のところ、特別のことはないらしいが、単味の成分の偏った過食は、とかく問題がおきがちなものだ。

     また、これら化学調味料は、すべて化学的合成品。グルタミン酸ソーダは、もと小麦や大豆からつくられたが、今は、石油化学工業の廃物から、グルタミン酸生産菌をつかって大量につくられているし、イノシン酸は酵母のリボ核酸から青カビによって分解製造されている、というぐあい。この、材料が石油の廃物であったり、アオカビによる製品であるというところには、あるいは発癌性成分が残っていたり、混りこむおそれはないか、といささか気にならぬでもない。いずれにしても「だし」には、少々手はかかっても、なるべく自然物から良質安全なものをとりたいものだ。
     註 中華料理病というのは、中華料理を食べはじめてしばらくしていろいろの異常感覚・動悸・発汗・痙攣・失神なとの発作をおこすもので、多量につかわれるグルタミン酸ソーダのためとされている。


6. カッケにご注意 西日本高校生中心に多発

     古典的な病気とされてきたカッケ(ビタミンB1欠乏による多発性神経炎)が西日本の高校生を中心に多発しており、しかも、その原因はインスタント食品や全糖飲料水のとり過ぎによる栄養不良―という事実が、19日東京・霞が関の国立教育会館で開かれた第17回日本神経学会で明らかにされた。

     一見、豊富に見える現代人の食生活が実はかつての日の丸弁当時代とあまり違わなかったという現象に、神経学者たちも「今ごろカッケとは夢にも思わなかった」「食生活の早急な見直しが必要」とびっくり。討論に加わった栄養審議会会長の阿部達夫東邦大教授もB1欠乏はもうないものとして数年前から国民栄養調査から除いてしまったし、ビタミン強化食品も減らしてしまったが、再検討しなくては…」と反省している。
     この日の報告によると、患者の発生は鹿児島大学73例、熊本大学30例など五病院で180例に達し、いずれも48年夏ごろから年々増加している。
     患者は8割以上が男子の高校生。6月−9月にかけて、激しい運動練習の後で足や顔がむくみ、全身の脱力、筋肉痛などが起こる。そして半数以上が心肥大、心雑音などの心臓障害を併発する。血中のビタミンB1値が正常より低く、生化学的なビタミン欠乏症状がみられ、B1投与ですべての症状が全治するのが特徴。
     一昨年熊本大学が学会に報告して以来、いろいろな病像が認められるところから、スモンのような奇病ではないかと各大学で詳しい調査をしてきたが、今度の学会討論で全員一致、カッケであることが認められた。
     鳥取大学での患者の食事調査によると、全員が白米を食べ、肉がきらいな人が多く、半数以上がインスタントラーメンを週7個以上、全糖の飲料水を多い人は週21本、平均同5本以上飲んでいた。患者たちには偏食の自覚はなかったが、全カロリーに占める糖の割合が70%を超えており、栄養バランスがひどく悪かった。
     糖の分解にB1が消費されて不足したため、カッケが起きたのではないか、とみられるという。
     

    (51・5・21 山陽夕刊)


7. インスタント食たたる

     29歳の主婦ですが、時間におわれる毎日で、インスタント食品とか、出来あいのお惣菜とかで、食事をすませていたり、とくに、甘い物が好きで、毎日、かなりの量を食べておりました。
     1年くらい前から、からだの各部がおかしくなり、寝こむほどではないんですが、すっきりしない毎日を過しておりました。
     とくに、皮膚病(顔面黒皮症)ということで、困っておりましたところ、先生の「青汁と健康」を読み、思いあたることばかりで、さっそく実行しようと思いましたが、害のない新鮮な材料の入手が困難です。
     どうしたらよいでしょうか。
     庭は少しはありますが、畑をつくったこともありません。
     ケールをつくったとしても、半年くらいは食べるまでにかかる、とのことですから、それまでの間をどうすればよいか、思案にくれています。
     一日でも早く、無害の青汁をのみ、疲れを知らない健康体になりたいのです。

       とりあえず、大阪センターの乾燥青汁をのみながら、ケールその他の良質ナッパをつくり、食べたり飲んだりして下さい。分量は多いほど結構です。なお、会発行の「イモ・マメ・ナッパ・青汁」をご参考下さい。


8. 料理のあり方

     医学博士 遠藤 仁郎 

     料理の進歩は、多くのばあい、食養の堕落を意味する。
     「料理の数ほど病気がある」とはローマの昔からいわれたことだ。
     栄養学がいかに栄養のあり方を説いても、料理家は一向おかまいなし。
     食品の選択はもとより、調理・調味はひたすらに味覚・視覚のみにはしる。
     この夏、栄養改善法公布を機会に、保健所で新聞社と共催の食生活改善の座談会が催おされた。
     席上私は、「邦食の改善には、何といっても緑葉菜だ」と、その必要性を強調した。
     すぐその後で、某短大教授から、ナスビ、キウリ、ゴボウの調理についての話があり、全くがっかりしてしまった。
     かねて、ラジオや新聞でいつも気になっていた折柄ではあり、つい、

    「いつまでもそんなことをいっていては、食改善はやれるもんじゃない。せめて指導層のものだけでも、無色菜は締め出すくらいのつもりにならなきゃダメだ。
     よほど思い切った転換をやらねば、しみついた習慣は、なまやさしい方法では直るものでない」
     とやってしまった。
     秋になってサンマのシーズンが来た。
     ある日の新聞に、サンマの栄養価が書きたてられ、調理法がいろいろ紹介されていたが、みんな骨ぬき、わたぬきばかり。
     トウガラシ葉のことも出ていたが、これは、ゆがいて水にさらし「アク」をぬく、とあったのはいうまでもない。
     また、「学校給食にジャガイモが皮ごと入れてあった」とひどく憤慨された女流作家もあった。
     この女史、おそらく、ジャガイモのもっとも大切な栄養分が外皮のすぐ下にあること、アメリカでさえ「皮つき」をすすめていることはご存じなく、ただ、外観や消化の点だけから、下品だ、野蛮だ、と非難されたものとみえる。
     うまく食べることには、私とて少しも異議はない。
     見た目をうつくしくするのもまことに結構。
     けれども、それらは、すべて「栄養分を失わない」という前提のもとでなければならない。
     野菜は、私どものいう良質ナッパでないまでも、せめて有色菜にしてほしいし、サンマは骨ごとわたつきのままを、トウガラシの葉はそのままを、ジャガイモは皮つきのままを、どうすればうまく調理できるかが指導されなければ、栄養改善には少しも役立ちはすまい。
     悪教育より無教育、の諺のとおり、誤りを教えるよりは教えない方がずっとマシだ。
     まちがい切った食習をたてなおすには、何はおいても、まず、完全食であることが基本でなければならぬ。
     食品はなるべく栄養素のそろったものをえらび、その養分をなるべくそこなわないよう調理しなければならない。
     料理の真髄は物本来の持味をいかすこと。
     柳沢湛園の雲萍雑誌に、
    「飛喜百翁が利休を招きし時、西瓜に砂糖をかけて出したれば、利休、砂糖のなき所を食ひて帰り、門人にむかい、百翁は人に饗応することをわきまへず、我等に西瓜を出せしが、砂糖をかけて出せり。西瓜は西瓜のうまみを持ちしものを、にげなきふるまひなり、とて笑ひ侍りき」
     とある。
     これこそ料理のあり方というものでなければならない。
    (27・10)


9. 砂糖好きのカミさん

     医学博士 遠藤 仁郎 

    その一 77才のお爺さん。
     近ごろ足やからだがだるく、運動すると胸もとがしんどい。
     また、方々の節ぶしが痛むし、便秘ぎみだ、と来院。
     顔はすこしうだ腫れており、肌はたるんでいる。顔色もさえない。
     他所では、心臓が悪いといわれたそうだが、大した変化はなさそう。
     血圧は140もつれ。
     スネに軽い腫れがあり、ヒザの反射が弱っており、フクラハギをつかむと痛む。
     どうやら軽い脚気のようだ。
     いぜん一度私の診察をうけたことがあり、それ以来、米飯は食べないようにし、ナッパは便が青くなるくらい食べている、というので、いささか返答にとまどった。
     しかし、よく聞いてみると、カミさんが大の甘党で、おかずはもとより、ご飯代りにたべているハッタイ粉にもうんと砂糖を入れているし、パンにはジャムをぬり、そのうえ砂糖をつける。
     牛乳には練乳を入れてのみ、コーヒーには砂糖4〜5杯、オハギ、マンジウもよく食べる、といったぐあい。
     そして、このカミさんにも同じ症状があるという。
     これで、爺さんのもそのためとわかったわけだが、このことは、いかに飯をへらし、ナッパは食べていても、砂糖がすぎると、やはり、全体のバランスがみだれることを、よくおしえている。

    その二 50代のよくふとった商店主。
     頚すじから肩にかけ、いつもおしつけられるような感じがとれない。
     また、時にヒザやヒジに痛みがある。
     診たところ、どうというところもない。
     糖尿を心配しているが、糖は出ていない。
     ただ、尿に、肝臓のくたびれたときに出るウロビリノゲン反応がある。
     食事について聞いてみると、やせようとして、飯はへらしている。
     肉や魚もそう多くない。
     酒はほとんどのまず、菓子もたべない。
     コーヒー1日2杯ていど、砂糖は1ヶ。
     野菜はかなり食べている。
     と、どこにもひっかかりがない。
     ところが、味つけをたずねて、やっとわかったのは、奥さんが大変なあまずきで、砂糖をよくつかうことと、奥さん自身にも、ご主人同様の訴えがある、とのこと。
     犯人はおそらくそれだ。
     味つけの砂糖は見えない主食のようなもの。
     飯をへらしても痩せない原因はそこにあろう。
     対策としては、味つけをうすくして、極力砂糖をへらし、少なくとも1日1キロくらいのナッパを主とする野菜・果物を食べたり飲んだりすること。
     そして、つとめてからだとくに頚や手足を動かすことだ。

    (54・6)


10. 台所を大切に

     何もかも便利になって、食料品店にゆけば、みなチャントそろっている。
     勤めにいそがしい人、とも稼ぎなどにとっては、まことに重宝この上ない世の中だ。
     ただし、それは、それらすべての出来あいの食品やインスタントものが安全良質であり、栄養的にみても調和のよくとれた完全なものであっての話だ。もっとも、栄養のバランスの方は、良質ナッパさえあれば、だから、青汁でものんでいれば、あるいはよいかも知れない。
     けれども安全性はどうか。はたして安心して毎日食べてもよいものばかりだろうか。材料は?調理法は?添加物は?メーカーにしてみれば、消費者の便利のためとはいうだろうが、もっとも大切な、消費者の健康のためを、どれだけ考えてくれているだろうか。
     そのねらいが利潤の追求にあることは止むをえないまでも、本当に信頼できる真面目なメーカーであれば少しも懸念はなかろうが、現実はどうだろうか。法の目をくぐっても、検査の網にかかりさえせねばと、ただ、利益だけを追っかけている連中ばかりではなかろうか。

     また、故意ではないにしても、どんな誤りがおこらないがものでもない。現に、一流メーカーの製品にも、そういうことが、これまでもしばしばおこっているし、何としても人間の、しかもやとわれ人のやることだ。思いもよらぬ手ぬかりや手ちがいがおこらないがものでもない。
     わが家の台所であれば、自分のミスだけですむが、メーカーのミスは恐ろしい。メーカーを信じ、監督のお役所を信ずるほかないわけだが、人心荒廃の甚しい現在、まことに心もとない。
     しかも、主婦の間では、台所からの解放と歓迎されているようだが、そのまま手放しによろこんでいてよいものかどうか、私には気になってしかたがない。

     またたとえ、台所から解放されたとして、手のすいた主婦が何をするのか。パート勤めでヘソクリをつくるのもよいかも知れない。しかしこれは、いよいよ出来あい食品依存に拍車をかけること、金さえあればの気持をつのらせる以外の何ものでもなかろう。
     娯楽や趣味に、いわゆる文化活動など、教養をたかめるのも悪くはなかろう。けれどもそれが家人の健康、幸福とどうつながるだろうか。

     一家の健康、幸福のもとは台所にある。便利な出来あいの食べものを利用し、台所をあけることが、まるで文化生活であるかのように受けとられているようだが、とんでもない。
     いうならばこれは、一家のもっとも大切な健康を、そして幸福を他人の手に、それも、どれだけ信用できるか、責任をもってくれるかわからない、貪欲そのものの手にあずけることでしかない。
     まことに物騒きわまることではないか。

    (56・3)


11. 家族を思う心、それは食事作り

    広島県 M.B. 

     病院の栄養士だった知人の女性が、先月の初め退職をした。退職の理由は、中学3年の長女が日記の中で「家に戻っても誰もいない。聞こえるのは家の中で真っ暗い家がゴーゴーと鳴る音だけ。家が鳴る。誰もいない家が鳴る」と、書いていたのを読んだことによる。
     彼女はいう。「病人食を献立する私自身が、家族の食事には気を配らず、既製品やインスタント物ですましていたのです。働いてお金を持って帰っているのだから、家族はがまんするのが当たり前だと思っていたのです。娘の心に気を配らず、家のドアカギを渡しておけばそれでよい、としていたのも、そこから出る行動でした」。
     有名私立中学、高校、一流の大学の合格発表の日には、子に連れ添って喜びや悲しみを共にする母親は多いが、子供に食事をつくってやって、一緒に話しながら食べる喜びを分け合う母親は少ない。生まれたら牛の乳、歩けるようになったら保育所、入学をすれば給食。産むのは母親であるが、育てるのは牛や他人である、というのが現実である。
     女性が外で働くことは、それ自体としてはよいことだと思う。だが、働いていることを理由にして食事を“餌”にしてしまうことは問題である。豊かな時代に生まれた子供たちは、パート労働で働く女性である母親が、決して生活苦のために働いているのではないことを知っている。食事づくりを他人の手に任せてしまっている母親が、家族を思う心を余り残していないことに気付かずにはいない。食事づくり、弁当づくりは、そんなにくだらないことなのだろうか。家族そろって食事をすることはつまらないことなのだろうか。成績の点数には目の色を変える親が、食事づくりには手抜きを重ねる親と見抜いたとき、問題行動の生徒が、「家庭って下宿やさ」と皮肉ったように、家出をしてしまうことになる。家庭は食事づくりが親子の第一歩である。(59・5・15 サンケイ)


12. 現代の奇病“膠原病”は食品添加物による毒作用

     51才女。若くして夫に死別した彼女は、残された二人の男の子のために日夜働きつづけた。
     そしてついに二人を立派に大学を卒業させ就職させたのである。しかし忙しさのあまり、永い間食事はインスタント食品が主であった。二人の息子を育て上げて気のゆるんだ彼女を襲ったのは、現代の奇病、膠原病であった。方々の大病院へ入院して治療をうけたが、病は悪くなる一方で、高熱は約4週間つづき、全身の関節は腫れていたみ皮膚はどす黒くなり、その上に気味悪い発疹が出来ていた。そしてついに全身に浮腫が現われ出した。ようやく死期の近いことを悟った彼女は事故退院して郷里の五条へ帰って来た。
     往診した私の前で、彼女は身の不幸をかこってさめざめ泣いた。
     「現代医学では不治といわれるかも知れません。しかし生命の医学によれば、まだまだ治る可能性があります。勇気を出しなさい。まず心から神仏を拝みなさい」
     永い間インスタント食品ばかりをたべていたための恐ろしい欠乏と食品添加物による毒作用がこの病気の最大原因と考えて、私は詳しく食事の注意を与えた。又、青汁療法を教えて青汁を一日に3〜4合(546〜726ミリリットル)飲むように指示した。勿論現代医学による対症療法も行なった。彼女は必死になって実行し、その友人である私の会の会員らは、まめまめしく彼女のために完全無農薬有機栽培の野菜を届けつづけた。
     2ヶ月間は熱をはじめその他の症状は一進一退であったが、どこか元気が出てきて、発疹も少なくなってきた。4ヶ月すると熱が出なくなった。そして1年くらいで彼女はついに略治したのである(勿論、疲れやすいとか、その他多少の後遺症は残っているようである)或る日彼女は、かつて入院していた病院の主任看護婦と町でばったり出会った。「あら貴方、生きていたの」看護婦は思わず叫んだ。彼女はその足で私の家へ来て涙を流して感謝した。
     私も遠藤先生のお徳を感謝し讃えた。とにかく遠藤先生の青汁療法は、すばらしい効果をもたらすことが多い。(本文は去る6月14日、大阪府谷町福祉センターにおいて開催された、ケール健人の会の「青汁による治病体験報告集会」において、慈光会理事長 奈良県五条市の医師簗瀬義亮先生の記念講演の一部を転載させて頂きました。)


13. 私の食事

     医学博士 遠藤 仁郎 

     ひとのあまりやらないことをいったり書いたりするものだから、それじゃあおまえは一体どういう風にやっているのか。実際のところが知りたい。献立でもあったらおしえてほしい、とよくいわれる。
     そのたびに私はドギマギしてしまう。というのは、私のいっていることは原則であって、実際にこれこれでなければならぬという、きまったものはなく、まして、献立などという七面倒くさいものは何もない。
     ただ、ナッパさえ十分に食べ、なるべく安全なものをとるよう心がけていれば、それでいいんだ、というまことにズボラなものだからだ。
     つまり、ナッパさえ十分ならば、もちろん量しだいだが、何を食べてもバランスがとれ、完全な食事にすることができるから、あとはせいぜい安全なものをとるようにしていればよい、というのだ。
     なお、安全なものの殆んどない現在の食糧事情下では、どんなに気をつけても、完全に安全な食べものにすることは、まず不可能だ。しかし、ナッパには、ある程度それらの毒を消す力があるようだから、その意味からも、ともかくうんと、むしろ多すぎるくらい食べるべきだ、とかんがえられる。
     こういったかんがえから出発している食べ方だから、あまり参考にはならないかも知れないが、ともかく、私の食事のあらましを書いてみよう。

    ナッパの分量
     だいたい4〜500gのナッパで釣り合いのとれるような食事にして、実際には1キロ以上(1キロ2〜300g)のナッパを食べるようにしている。つまり、カロリーにたいし、それをはるかにオーバーするミネラル・ビタミンということで、ミネラル・ビタミンはうんと余裕をもたしている。
     この超過分(すなわちナッパの貯金)が不時の需要をみたしてくれるだろうと期待しているわけだ。
     このナッパの大部分、700〜800〜1000gは青汁にしてのみ(約3〜4合)、残り2〜300gは適宜調理して食べる。さらに、ナッパ・青汁の効をたすける意味で、ほかの食べもの(主食品・蛋白食品)も、なるべくミネラル・ビタミンにとんでいるもの。すなわち、主食にはイモ、蛋白食品には大豆ものを多くし、それにナッパを主とする野・山菜、海藻を十分そえる(イモ・マメ・ナッパ食)。
     調理はなるべく簡単に。味つけはうすく。それをよくかんで食べる。
     これが、私の食事の大すじの原則になっている。

    主食
     もっとも多く食べるのはイモ類、サツマイモ、ジャガイモ、サトイモ、ヤマノイモなど。
     次に全穀パン(懇意なお菓子屋さんで焼いている無添加グラハムパン)めん類。雑穀、ソバ、キビ(全粒粉)。


     主に玄米、時に白米。なるべく控え目にし、それも芋・豆・野菜など混炊することが多い。
     これらをどのように食べるかは全くデタラメ、食べられるものを食べる。
     サツマ、ジャガ、サト芋は自給しているので、サツマイモがとれだせば毎日サツマイモ、ジャガイモの時はジャガイモ、サトイモの時はサトイモばかり。イモではないが、カボチャの時期には、これも飯代りになる。ソバ、キビはある時だけ。パン、めん類、米飯も適宜、気のむいた時。どういう割合になるか。くわしく記録していないので、はっきりしたことはわからないが、週21食のうち10食内外がイモ。残り10食のうち6〜7食がパン、3〜4食が米飯といったところだろうか。

    蛋白食品

      獣肉
       牛・豚肉は宴会のばあい以外食べない。鶏肉もほんのたまさか。魚も高級魚や刺身など殆んど食べず、イワシ、サンマ、イカナゴ、ワカサギなど小魚が主で、せいぜいサバ。週3〜4回程度。

       なるべく有精卵。
      牛乳
       いぜんはよく飲んだが最近は殆んど飲まない。
      大豆
       キナコ、納豆はよく食べる。豆腐はたまに(純粋のものがないので)。豆乳も市販のものは買ったことがない。

    ゴマ
     よく食べる。毎朝のイモナ汁に50gくらい入れて。

    野菜類
     緑の濃いナッパ類、ケール、ミズナ、コマツナ、大根、蕪の葉。夏にはシソ葉、バイアム、エンサイ、サツマイモの葉、食用アオイの葉。年中食べられるようにつくっているが端境期には、たとえば春さきだとヨモギ、ヨメナ、ハコベ、ノカンゾウ、夏枯れ時にはスベリヒユといった雑草もよく利用する。

    海藻
     ワカメ、コンブ、アラメなど。いずれも、やはり出鱈目に、あるもの、食べられるものを適宜に食べる。

    調味料
     甘味には粗糖。味噌、醤油、酢、なるべく安全なものにするよう心がけている。

    ダシ
     コジャコ、カツオ、コンブ、シイタケ。


     主に植物油、パンにはバター。サラダ用にはキナコ、すりゴマなど。

    食事時間
     きまっていないが大体、朝食 夏6〜7時、冬8〜9時。昼食 夏12時、冬1〜2時。夕食 夏7時、冬5〜6時ごろ。夜食はしない。

    朝食
     いぜんはナッパや雑草木の葉のグリーンサラダを毎日食べた。
     が、いまはイモナ汁。汁とはいうが、実の多い、というより、実ばかりの汁。
     イモとナッパほぼ同量をコジャコの出しでたいたもの。
     卵、納豆、キナコ、ゴマなど入れる。味つけなしでも食べられるが、味噌を少しそえるとおいしく食べられる。
     このナッパ、年中のことだから、季節季節のものなんでも入れ、無ければ雑草木の葉もつかう。
     それに主食としてパン、米飯などの少量。

    昼食
     イモ、パン、飯適当量に、魚や野菜の煮物。残っていれば朝のイモナ汁も。

    夕食
     ほとんど同じ。

    食べる順序
     初めに青汁。次に野菜類のオカズ。その後から主食・蛋白食品。

    咀嚼
     それらをよくかんで食べる。若いころ胃下垂で悩み、よくかむことをおしえられ、それでよくなって以来、ずっとよくかむクセがついた。そのため、かたいものをかみしめて、大切な奥歯をかみ破ったことが何度かある。それほどよくかむ。1回の所要時間だいたい30分。

    食べる分量
     腹八分といわれ、次の食事までに腹のすくように、といわれているが、さほど気にもとめず、食べられるだけ食べており、時にはかなり食べすぎたと思うこともある。
     だが、野菜ばかりみたいなオカズが多いので、実際にはあまり食べすぎにはなっていないらしく、体重はいつも同じ。徴兵検査の時から殆んど変らず52〜3キロ(身長169センチ)あたりを上下している。

    間食
     なるべくしないことにはしているが、主にクダモノ。
     好物なので、いぜんはずいぶんメチャ食いをやったが、いまは、安全なものがないので、お上品に少しだけにするよう心がけている。

    菓子
     昔はよく食べた。現役のころは、おいしい菓子をよくもらい、始末にこまって風呂たきにしたこともある。それが評判になって、あまりもらわなくなった。
     それに、今は、そう食べたいとは思わなくなっており、せいぜい甘味の少ないカンパンやクラッカーなどにしている。しかしあれば、つい手が出る。干柿・干ブドウまた同様。

    ジュース類、コーラなど
     飲まない。

    コーヒー・紅茶
     いぜんはよく飲んだ。いまは宴会などの時だけ。
     砂糖は軽く一杯入れ、かきまぜないで飲む。
     最後の一口がとてもうまい。しかし、めったに飲まないので、うっかりすると夜眠れなくなるので、午後ことに夕方ちかくからは飲まないことにしている。
     上茶また同じ。

    番茶
     いぜんは主に番茶にしていたが、これも農薬汚染がいやで、今では飲まない。日ごろは自家栽培のカワラケツメイやアルファルファなどの草茶にしている。ちょっと焙じると結構おいしい。来客にも割と評判がいい。


     いぜんはよく飲んだ。きつい洋酒で足をとられたこともあり、夜通し飲み明したようなこともあった。今はビール1〜2杯程度。それも、宴会の時だけで晩酌はやらない。

    外食
     めったに外食することはない。招宴の時など、よく“先生はお食事がむつかしいと聞いていますが”とことわられるが。“いや何でもいただきます。毒のあるものでも結構です。十分毒消しの貯金がしておりますから”と、出されたものは何でも食べる。分量には気をつけているが。旅行にはいつも乾燥青汁を携行し、十分にのむようにしている。

     以上が私の食事のあらましで、ふつうとちがうところは、ただ、ナッパをうんと食べ青汁をのむということだけ。あとは、少しもちがっていはいない。
     それは、ナッパさえ十分いとっていれば、時たまハメをはずしても、結構埋めあわせがつき、帳消しできると確信しており、したがって、毎日の食事には少しも窮屈さや不自由さを感じることもない(融通無碍)わけで、この、きまったむつかしい規則めいたもののないのが、規則といえば規則かも知れない。
     もっとも、これでいつまでもつか、さきのことはわからないが少なくとも今までのところ、別にこれという大したさしさわりはなかったから、これでよいのではないかと思っている。
    (60・12)


14. 真髄を忘れた肉食

     医学博士 遠藤 仁郎 

     動物を食べるには、ふつうは肉だけを食うものとしか考えられていないようである。獣鳥は勿論、小魚でさえもたいがいは肉だけほじくって、内臓も骨も捨ててしまう。
     ところで、自然界の動物はどうであろうか。鳥や魚は昆虫や小魚を丸のみにする。獅子や虎や熊などは、まず血を吸い、内臓を食い、骨をかみ、最後に肉を食うということだ。

     人間でも、ほとんど動物ばかりに依存しているエスキモーなども同様のようである。
     西洋人は肉をよく食べるが内臓も食うし骨もよく利用する。戦争のはじめのうち、こちらの勢のよかったころ、南方の俘虜収容所にいた人の土産話に、兵隊たちは豪勢にも、毎日のように牛や豚を屠って食っていた。

     捕虜の外人どもはよく骨をくれといって来た。彼等はそれを叩きわってスープにしてみんなで飲んでいたそうだ。この人は、肉好きの外人どもが、肉が食えんので、こっちの捨てた骨をしゃぶっていたことを、哀れがりまた痛快がって話してくれたのだが、何ぞはからん、実にこれこそ彼我の栄養知識の大差を如実に物語る生きた事実だった。
     戦争の進展とともに形勢は逆転。食糧の欠乏した外地部隊には栄養失調患者が続出、多数の犠牲者を出した。

     さらに戦局の深刻化はついに内地にも少なからぬ発生をみるにいたった。そしてその予防治療食として推奨されたものに牛骨スープのあったことは、われわれの記憶にまだ生々しいところである。
     捕虜の外人どもが骨をしゃぶっていたのはこのためであったし、また彼等が平素からよくこれを利用することを知っていたからでもあった。

     動物食品のうちもっともすぐれているものは乳汁、血液、次で内臓(骨も)で、肉類はこれらにくらべるとはるかに劣っている。
     わが国でも古くは動物をさかんに食った。そして(主として肉であったろうが)内臓もよく食った。万葉にうたわれてる蟹みしおや鹿肝の膾なども主上の供御に上せられている。
     東山義政ごろの料理にある「わた煮鯉」というのは、はらわたともに切り、骨頭も一緒に煮たものである。
     また泥鰌などはもとは丸煮で、全体のまま臓腑をも去らず料った。骨抜鰌鍋はようやく文政の初め頃江戸に現われたと喜田川守頁の風俗志には書いてある。
     この江戸中期に始った贅沢の度が甚しくなるにつれて、こうした傾向はしだしにつのり、ちかごろになっては殆んど肉だけしか食わなくなってしまった。
     私の郷里の田舎でさえも、ご馳走といえはかしわの鋤焼くらいのものだが、つい近いころまでは、まだ、かならず「アラ」を叩いて入れたものだったが、最近ではみかけなくなった。
     西洋人のまねをして、動物食がさかんになったのはよいとしても、これではただ肉だけにとらわれて、文字どおり真髄を忘れると、いう大手抜かりをやったというものである。これも真似損いの一つといってよかろう。

    (25・2)







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