健康と青汁タイトル小 <1962年10月15日発行 第74号>
 目次




1. 講座 健康栽培

     医学博士 遠藤 仁郎 

     質のよいナッパを食べること、ことに、その生食(緑葉菜食・青汁)の大切なことは、多年私どもの強調しているところですが、それは、ただ、質がよいといわれているナッパでさえあれば、なんでもよいのではありません。
     まず、下肥の心配のない清浄なものでなければならないし、農薬のおそれのない安全なものでなければなりません。
     したがって、栽培地の条件もむつかしくなれば、栽培家の人がら、栽培の方法も、問題になって来ます。

    1. 栽培地の条件
       日あたり、水はけ、風とおしのよいことはもとより他所からの被害のないところ−近くに下肥や農薬をつかう田畑や果樹園などのないところ−でなければなりません。丘の上、山裾などの開墾地。または、少くとも1年以上、下肥のつかってない、そして、保健所の土壌検査に合格したところ、ということを、私どもは条件にしています。


    2. 農家の人がら
       いかに土地の条件がよくても、耕作担当者が出鱈目では何にもなりません。下肥や農薬の害をよく認識しており、心から人々の健康をこいねがい、幸福を祈る、真面目な人物でなければなりません。


    3. 栽培の健否
       しかし、何よりも大切なことは、質がよい−吸収しやすいカルシウムに富み、ビタミン類もそろって多い−ナッパでなければならぬことです。それは、緑葉食青汁の主要目的が、邦食に不足がちのカルシウムやビタミン類を、十分に補給し、栄養のバランスをとろうというところにあるからです。また作物の成分は、栽培条件によって大いにちがって来るので、ただ分析表から良質というだけでなく、本当によいものでなければならぬからです。
       作物の良否が、栽培地の条件や、天候気候によって、左右されることはいうまでもありませんが、もっとも大きい影響をあたえるものは「土」の性質です。
       学者の説によると、水田の寿命は2800年、畑は700年といわれています。耕地の成分、ことに大切な微量成分は、作物によってとり去られるものもあれば、深部に沈下するものもあって、しだいに減少して来るのです。
       水田では、潅漑水によっていろいろの成分が絶えず補給されているから、寿命が長いのですが、畑地では、その他、雨水にとけて流れ去るものも少くありません。
       そこで水田はともかく、野菜作りの畑地の土壌はどんどんやせてゆきます。
       土壌が老朽化し、地力が低下すれば、作物の出来が悪くなります。
       そこで、化学肥料です。これだと耕作は楽だし、収量も、少くとも一時的には、多くなるので、農家からは大いに歓迎され、さかんにつかわれます。
       けれども、この化学肥料には、主要要素はもちろん十分にいや十二分にもありましょうが、肝腎の微量成分は問題外です。のみならず、肥料成分中の酸基が残留することなど土壌中のミネラルのアンバランスを招くこと、あるいは、土壌を硬化することなどのため、「土」の荒廃はいっそう甚しくなります。
       そして、そこに出来るのは、みかけだけはいかにも立派そうですが、質的(成分でも味でも)に劣っていますし、軟弱で病にもおかされやすい不健康作物です。
       そこで、こんどは、農薬がドンドンつかわれます。
       農薬の害は、ただに、作物の中に残留する農薬の直接の害だけではありません。
       農薬による作物自体の傷害−これは殆んど注意されていないようですが、即座にはないにしても、ながい間にはどんな影響があるかわかりません−も否定できないでしょう。
       また、農薬の乱用も、土壌の荒廃にさらに拍車をかけることになっているといいます。
       このように、
          (1)土壌の老朽化、
          (2)施肥の不合理、
          (3)農薬の濫用は、
       三つ巴となって際限のない悪循環をくりかえします。
       かくして、現在の耕地の多くは、すでに甚しく荒廃し、また荒廃の度を加えつつあり、作物は、しだいに質的に劣って来ているし、それを与えられて供給する家畜の肉、卵、乳の栄養価もおのずから低下をまぬかれない(不健康食品)という状態になって来ています。

       ◇ 

       健康であるためには、栄養が完全でなければならぬことは、誰れでも知っています。
       しかし、それは、ただ食品の組合せが合理的でさえあればよいのではなく、それを構成する個々の食品そのものが、本当に良質(健康食品)でなければならぬのです。
       つまり、私どもの健康のもとは健康な食品にあるわけです。
       しかも、健康な食品のもとは健康な作物(直接に、あるいは間接に食べている)にあり、健康な作物のもとは健康な栽培に、そして健康な栽培のもとは健康な土壌にあります。
       結局、私どもの健康は、実に「土」の性質にかかっているわけで、「土」がよくなければ、とうてい、本当の健康はのぞまれないのであります。

       ◇ 


       現在、一般の農法では、商品価値の大きい−値よく売れる−作物が沢山とれ、しかも、楽に出来れば、それでよいので、化学肥料と農薬をジャンジャンつかい、「土」がどうであろうと、そこに出来る作物が質的にどうであろうと、また、それを食うものにどういう影響を与えようと、そんなことは一向おかまいなしなんです。
       この不健康農法にこそ、現代の不健康のもとは胚胎している、といっても少しも過言ではないでしょう。


    4. 健康農法(土つくり)
       では、いったい、どうすればよいか。
      一つには深耕 雨水で流れ去るものはいたし方ないとして沈下する成分は約一米下に集って層をなしているといいます。
       ですから、深耕すればよいわけです。また事実、一米内外の天地がえしが耕地若返りの有力な手段であることはよく知られています。
       「屋敷のどこかに宝の壷が埋めてある」という祖先からの言い伝えによって、持畑くまなく掘りかえしてみたが、宝の壷はついに見つからなかった。
       しかし、それから毎年大豊作がつづいて、家運はたちまち立ち直った、という説話は、このことでしょう。
       これについても慨しいのは現在の機械化(耕耘機)農法です。
       そこばくの表土、ほんの2−3寸か、せいぜい5−6寸がとこを、バサバサとかきまぜるだけ。全くのお茶濁しにすぎません。
       以前の牛馬による鋤き方のほうがまだましだったでしょう。もっと深耕できる、性能のよい耕耘機が用いられないかぎり、わが国の農業はこの点からだけでも、やがて行きつまるのではないでしょうか。
       少くとも、これでは、成分的にすぐれた健康食品の供給は、とても期待できそうもありません。
      次は客土 失われたミネラル分、ことに微量成分にとんだ新しい山土や沈泥を客土し補給すること。
       これ、また、土壌若返りの良法として、昔から精農家といわれるほどの人はみな実行していることです。
       いま一つは、緑肥、堆肥、厩肥などの有機肥料の施用。
       これらは、ミネラル分の総合補給源としてすぐれているだけでなく、有機分を補い、土壌菌の繁殖をはかることでも、土壌の改善に大いに役立ちます。


    5. 家庭菜園では
       健康法として、私どもはケールその他の生食用野菜の家庭栽培をすすめていますが、その土つくりには、

        1. まず、よく掘りかえすこと。理想は三尺位ですが、それほどでなくてもよろしい。なるべく深く。

        2. 掘りおこした土は、こまかくくだき、「ゴモク」−適当にきざんだワラ切れ、古たわら、古むしろ、古たたみ、木葉や草、台所の残りもの、あるいは、それらを積み重ねて腐らせておいたものなど−を十分に混ぜこみます。(ゴモクの上に石灰をふりまけば、なお結構)また、条の間や根もとにしっかり敷き草をしておき(夏分は乾燥や雑草を防ぎ、冬分はいくらか保温にもなり、ながい間には腐って来ます)、中耕あるいは次の掘りおこしの際に混ぜこみます。なお、すべての作物は毎年連作するよりは、巡ぐりに輸作するほうがよいのですが、3−4年か4−5年ぶりには、根の深いゴボウをうえることです。成分がとくによいわけではありませんが、根をとるために、深耕の機会があたえられるからです。

         ◇ 

         このようにして、深耕と有機質肥料の施用をくりかえしてゆくと、土の性質はしだいに改善され、そこに育つ作物は、出来や味がよいばかりでなく、成分もすばらしくすぐれています。
         また抵抗力がつよく、早害、冷害にもよくたえ、病虫害にもおかされにくいので、農薬の必要も減り、あるいは、なくなります。
         その上、さらに有難いことには、作物の吸い上げる放射能物、たとえばストロンチウム90の分量が、そうでない場合にくらべ、少くなるというのです。
         ◇ 

         いずれにしても、私どもの健康は食べ物で左右され、食べ物のよし悪しはその栽培法によります。
         そして、栽培法の根本になるものは、実にその「土」の条件です。本当に健康な土と健康な農法なしには、本当に健康な作物はつくれず、本当に健康な作物なしには、本当の健康は望めません。
         しかも、その健康土つくり、健康農法たるや、少しもむつかしいものではなく、要は、昔から、私どもの祖先がやっていた、もっとも自然的な農法にほかならぬのです。
         化学肥料と農薬とによる、ただ増産さえすれば、という今日の農法は、このあたりで、ジックリ考えなおしてほしいものです。。



2. 無塩食と手塩

     つけ味の濃厚な食物になれた現代人には減塩、無塩食ほどつらいものはないらしい。
     しかし保健上からも特別の場合を除き1日十数瓦あるいは廿瓦以上もの食塩は決して必要ではなく、むしろ有害でさえあるとされている。
     また昔から物の真味は淡味にあるともいわれているように、これが人間本来の正しい食べ方のようである。
     古くから塩、味噌、醤油、酢、味醂などが調味料とされているが、塩がその最なるものであることは今も昔も変りはない。
     したがって採取容易でなかった古には、おそらくこれほど貴重なものはなかったであろうし、それだけにつとめて節約され、そのつかい方にも色々工夫がこらされたことであろう。
     昔は始めから味をつけられた食べ物は羹だけで、多くは、それらの調味料を入れた器を机上にそなえておいて、各自の好みによって調味したという。
     今では香の物などをつける手塩という小皿は、付塩皿の意でもと塩をつけた名残をとどめたものである。
     おそらく、ずっとの以前はすべて無塩食であり、つけるにしても一般にうす味であったろう。
     そしてこの付塩で適宜塩梅した。それも汁に入れたり、菜にかけるような勿体ないことをするのでなく、時々ほんの僅だけを箸の先、いやもとは手づかみで食べたというから、指先かあるいは何か棒の先にでもつけて舐めたものではなかろうか。
     無塩の野菜料理でも、こうした食べ方にすれば、1日に1−2瓦の食塩でも沢山で、とてもおいしく食べられるものである。

    (24・4)



3. 緑餌タンパラとは

    湘南藤華園 T.U. 

     過ぐる昭和28年愛知県下からタンパラと銘打って売出された養鶏用緑餌植物があった。
     従来青葉の不足する夏に主として作られていたものに竜舌菜(菊科)があったがタンパラはそれよりか鶏が好んで食い初夏から晩秋まで茎葉とも刈取って使われ夏の気温で刈取られた基部から側芽が伸びて幾度も刈取り出来中々多収で緑餌の減少する夏枯れ時打って付けのものであると宣伝之れ努められたものであった。
     始めてこの種子が売出された当時その名称が甚だ珍なのに興を引かれ筆者寡聞にして未だそれなる植物名を耳にしたことなく従ってそれがどの様なものなのか皆目その本体をつかめぬままに種子販売者に質したが植物学上のタンパラに就ては確答が得られなかった。
     従ってタンパラなる名称に対してはそれがどこの国の植物名かさっぱり判らない。
     勿論学名ではないし、英名でもなさそうだ。或は印度か南米辺りの土語によるものではないかとも思ったがそう詮索は止めにして不明のまま過して来てしまった。
     然るに筆者が過て栽培した植物の中にどうやらこれに似かよったもののあった記憶を辿って何は兎もあれ百聞は一見に如かすと今から8年前売出された種子を求めて試作した結果は筆者の思い通りの植物であった。

     終戦後の22年春養兎の飼料にと思って戦時中救荒食に都会の宅地利用の所謂一坪菜園に取り入られた中華民国では既に立派な蔬菜として取扱われている?(ヒユ)菜学名アマランタス、マンゴスタナス(?(ヒユ)科植物)であることを確め得た。
     本植物が立派に?(ヒユ)菜の名称があるのに、聞いた丈ではちょっと見当も付きかねる名で呼んでいるのは何故だろうか。
     種子販売者が商策上、珍名称で呼べば如何にも最近海外から輸入された新種とでも思わすためか、二つにも我国人の通弊であるアチャラ物を貴とする弱点を捕えて植物学上何の根拠もない出鱈名のタンパラが登場されたわけ。
     罪の無いことではあるが学問上誤らせられる罪深いものの一つであろう。
     タンパラと銘付って売出した養鶏屋の主人が筆者の質問に答えた言は唯思い付きで名付けたのがタンパラだと。
     本植物に就いて筆者は既に昭和9年に「農業及び園芸」誌の熊沢三郎氏、同15年「採集と飼育」誌上に篠原捨喜氏による夫々の発表を見ており前述の様に自らも栽培使用して来た。

     本植物は学名の示す通りアマランタスの語源は凋れないの意、マンゴスタナはマレーの植物を意味しておる。
     即ち熱帯性植物で乾燥に耐え強健なものであることを学名が明示しており印度原産のもので我国にもこの属のものの一つコビユは古くから畑地に作られ野生化しておる渡来植物で栽培種中にアカビユ、ハナビユ、シロビユ、アオビユ等があり、宮崎安貞著「農業全書」元禄9年刊に『?(ヒユ)種々数多し2月(旧暦)に下種し3月末に植ゆべし、その色青きあり赤き、紫またまだらなるあり料理には青きを用ゆべし、味もよくこの葉菜の絶間に成長し珍らしきものなり・・・・・・』とある様に夏の青菜の少い時利用すると便益があるとされておる。
     なお伊張国柱の「成形図説」文化元年刊には『本草に六種ありといえども要は四種』として白?(ヒユ)、赤?(ヒユ)、斑?(ヒユ)を挙げており白?(ヒユ)をよしとすと言い野?(ヒユ)は田野に自生し之を細?(ヒユ)と云うとあって植物学上のイヌビユを指すもの。
     本題で解説を試みようとするものはヒユナであって、元来栽培作物とされ中華民国ではヒユナ、台湾でヒユ、イヌビユや観賞植物の雁来紅に似た植物で性極めて高温乾燥に耐え病虫害殆んど被害なく十字花に属する菜類の栽培出来ない時期によく生育しかなりの悪条件の処でも立派に育つので家庭菜園に利用され夏期に重宝なものである。

     我国でも古来救荒植物としてイヌビユが非常時食に供せられていたが之は雑草であるので繊維が多く泥臭いので余り感心しないがヒユナは全然そうしたことなく浸して、胡麻和え、吸物、味噌汁に入れホウレン草に似た味を持っており肥大した茎の皮を剥いで塩漬として乙な風味がある。
     なお本植物の薬用価値は便通をよくし姙婦の食養に適し茎葉の煎汁は解熱に効があり、種子を煎用し目疾を治すとも言われる。
     中華民国上海で出版された呉耕氏の著書や果産公司刊行の孫雲蔚著の実用園芸学等に夫々支那野菜として挙げられて彼の地の食膳を賑わせておる栽培作物の一つである。
     我国に紹介されたのは昭和の4年頃で一部の人達に興味をもたれ栽培されていたが何時しか忘れ去られていたものが昨今また登場したのが今更らしく珍種視されたものである。

     遠藤青汁の会々長の遠藤医博が『健康と青汁』第69号誌上に発表なられたバイアムの題名の下に述べられたAmarantus retrofIexus,L.はアオビユのことで雑草のヒユと言われておるのはAmarantus BIitum,L.Var,oleraceus,Hook.f.イヌビユ(野?)で遠藤会長の記事にもある様に発芽時の幼植物は両者とも近似の様相をなしておるが長ずるに及んでは前者がより大形に生長し茎葉共に雄大で葉に稍粉白を帯びておる。

     尚両者の性分分析を表記して比較してみれば次の通り。

      成分表
               イヌビユ   アオビユ  
      水分        84.44  88.63
      蛋白質        2.91   3.07
      脂肪         0.20   0.41
      含水炭素       6.91   4.36
      灰分         2.37   2.09
      繊維         3.16   1.44
      還元型ビタミンC 101.70 125.26

     本稿の表題のタンパラ即ヒユナに就ての分析表は未だ発表を見ないので比較出来ないのが残念ではあるが生食煮食共に所謂泥臭がないので灰分は少いと思われるし繊維も少く前二者より緑葉の濃度は淡く葉型は稍細長い。
     ?(ヒユ)菜に就ての性状は大略この辺にしてそれの栽培法を概説して本稿を終ることとする。
     前述のように至って丈夫な作物であるから粘質土、砂上、日向、半蔭地何れにも育ち、播種すれば殆んど放任でよく成育する。
     本種は元来熱帯産のものであれば気温上昇した頃に播種するがよく種子の発芽に要する温度は10度(C)以上を必要とされておるので4月以前では発芽が悪い。
     普通4月中旬から梅雨頃まで随時播種出来る。
     暖地では3月下種してもよい。肥料は差して施さずとも育つのが基肥に堆肥に鶏糞を混ぜたものを与え茎葉採収後に時折追肥として窒素分の液肥少量を施し置けばその後の発育を助成する。
     播種に際しては畑地を耕し平らにならしそこに撒播するか十二乃至十五糎間隔に条播し覆土は乾燥甚だしい砂地以外は行わず単に足か鍬で鎮圧するだけで足りる。
     土質乾湿、養分の多少で発育を異にするが大体1ヶ月で九糎から十二糎程に伸びるから間引いて食用するか他に移殖する。
     日当り良い場所では六十糎間隔に15〜18糎株間に植付け伸長三十糎位になった頃上部を摘むように採収すれば脇芽が発生分枝して茂ってくるので伸びるに従って上部を適宜刈込んで大量に使用出来る。
     盛夏の候干天続きの時適度に灌水すれば刈取ってもすぐ伸び驚くばかりの収量があり夏枯れの青葉不足時に重宝この上ないものとして大いに推奨したい作物の一つである。
    (完)



4. 遠藤青汁の会 山形支部の発足

    山形支部 K.K. 

     8月29日朝、遠藤仁郎先生、奥さん、令嬢紀久子さん一行を山形駅に迎える。直にバスで蔵王に向う。
     生憎風のためケーブルカーが動かず、旧登山道を湯の川あたりまで散歩。歩きながら聞く先生のお話に、先生の人となりがにじみ出て、又となく嬉しかった。
     硫黄臭い温泉に短時間入られて1時に下山。
     この一行には宮内町の大間栄氏も居られた。当支部が出来る様になった原動力は同氏に依るのであって、遠藤先生が福島、宮内町と来られるのなら是非山形へもと熱意が、我々を支部結成へと動かされたのであった。
     当地にも青汁党員が34年前から居ることは居ったが、何人居るのか其実態がつかめない。
     又とない遠藤先生の来形のチャンスは、最大限度に利用したい。
     松村、伊藤、木内氏等と先づ8月1日支部を発足した。
     支部規定其他を作って会員を約1ヶ月にわたり募集した。
     処が予想外に人気があって、この講演会までに58名になった。
     安孫子知事も大久保市長も入られると云う充実したものになったのである。
     現在は66名になって居る。講演会の始まる前、臨時支部総会を山形信用金庫の3階で開催する。
     ここに遠藤先生と旧知の同志当地の鉄道病院長大磯友明先生が参会される。
     写真は其時のものである。講演会は山形新聞テレビホールで6時半近く開会した。
     後援山形新聞、協賛山形富士電機として看板をかかげ、聴衆は約200名に達した。
     先生のお話は約1時間半で、あと40分ばかり質問に答えられた。大きなグラフを出して説明される先生のお話は、如何にも科学者らしく多大の感銘を与えられた。
     ケールの青汁の栄養素が、量質共に驚異的な存在であることに、認識を深くした次第であった。
     親しくお話を聞くと色々な事が教えられる。当支部の今後の活動の中心課題は、ケールの確保であると思う。
     殊に冬季間雪に埋もれる当地では入手を断念して居ったのであるが、福島以南の地で栽培して貰って、トラックで輸送すれば、何とかなるのでないかと今思って居る。
     本部から送って貰ったケールの種子は、今各方面に随分と頒布された。
     来年は到る処に威勢のよいケールの葉を見られるだろうと、楽しみにして居る。遠藤先生が遠くみちのくのこの山形まで来られて、1日御指導をいただいたが、今は少い青汁党員も幾倍かになる日もそう遠くない様な気がしてならない。



5. 苦心した甲斐あって

    横浜市 T.Y. 

     今春偶然に駅頭で手にいたしました週刊誌によりまして青汁を知ることができました。
     早速「青汁の効用」を拝読いたしました。そして、どうしてこれを実行にうつしたらよいものかと思案いたしました結果、柿の若葉を4・50枚づつ毎日とりまして、1枚づつよく洗い、おろし器でくだき、さらに擂鉢でよくすりつぶし、ガーゼで汁をしぼりました。
     ようやくコップに半分程を、今年小学校6年の、風邪ばかりひきつづけの一人息子に飲ませました。
     毎朝5時前に起床いたし右手はおろし金で傷だらけになりましたが、風邪で弱って居りました子供が、どうやら気管支炎もおこさず徐々に元気づいてまいりました。
     私は、どうかしてケールという野菜を栽培したいもの、と思いつづけました。
     そして、60坪の空地に家を建てる為に設計図まで引かせたのでございますが中止いたしまして、5月の20日から、土いじりが大嫌いな私でございますが、草ぼうぼうの荒地の草むしりをいたし、土を耕してケールと小松菜をまきました。
     ケールはよく発芽いたしましたが、そのうちに、だんだん消えて行きまして、残りましたのも「からぼうす」になってしまいました。

     いつまでたっても大きくならず、あきらめてしまいましたが、小松菜は見事に発芽して、一雨ごとにすくすくとのびて、立派に育ってまいりました。
     その間、お米屋さんから空俵を十俵位づつ買いまして、焼いてはせっせと野菜の根元にまきました。
     配合肥料と石灰を土にまぜましたり、木の葉をこいで土に埋め、堆肥のかわりにいたし、まる3ヶ月間、まっ黒になって働きつづけました結果、畑は見ちがえる程よい土になりました。
     そのかわり、俵は2百俵ちかくほぐして刻み、土中に入れ、あるいは灰にいたしまして畑にふりまきました。
     青シソ、カキバ大根、レタスの葉をずい分沢山いただきました。
     その故でございましょうか、暑い最中、相当の重労働を毎日つづけましたが、夏まけ、疲れが全くございません。
     また小松菜は、毎日しぼり、子供に飲ませました。受験勉強のため、夏中夏季講座に通わせましたが、元気一杯で、だいぶ目方もふえてまいりました。

     けれども、8月の末から9月の10日ごろに夏風邪をひき、やせてまいりまして、青汁も風邪にはあまり効果がないものかしら、と思われたりいたしましたが、熱が出ましたとき、ケールの葉を1日5・6合づつ、3・4日つづけましたところ、まず最初、案外かるく熱がひき、気管支を侵される体質ですが、気管もあまり悪くなりません。
     また、熱のあと、食欲がなく、舌が白く、胃カタルを恐れましたが、それも、青汁をどんどん与えましたら、間もなく舌も赤くなりまして、食欲が出てまいりました。
     やがて風邪もきれいに治りました。その後は風邪もひきません。

     今春ふとお隣りのお庭を拝見いたしましたとき、ケールが数本、大きくなってうわって居りました。
     奥様におたずねいたしましたところ、遠藤先生からいただいて蒔いたものですとのお話しでございました。
     ご主人様が大そう熱心で体の調子も大変よいとよろこんでいられました。
     私のところは、今、60坪ちかくの畑にケールが見事に成長いたしました。
     そして、熱心に青汁を毎日いただいていますが、お蔭さまで、胃腸が大変丈夫になりました。
     青汁を数日なまけて暴食いたしますと、てきめんに変調を来しますが、青汁を飲みはじめますと、たちどころに胸やけやもたれ、食欲不振が一掃されまして、即効性は他のお薬も及ばないように思われるのでございます。

    (35・10・25)



6. 随筆 海は知っている

     一代 光一 

     8月も末に近かった。でも、残暑は盛夏のように厳しかった。
     康夫は、伯父の法事がすむと・・・・・・「せっかくおいでになったんですから、ごゆっくりなさっては」と云う兄嫁の言葉に甘えて、もう3日間も親戚の家に泊って居た。
     たまにしか来ない港町。1年に一度くるのがやっとなので、法事に列席する為に訪れたのでは有ったが、想い出をたぐりながらあちらこちらを歩いて見たく思った。
     親戚の家は町の背景になっている山の中腹にあるので、人通りの多い道路に出るには細い山みちをおりなくてはいけない。(なるべく暑くならないうちに出掛けよう)康夫は、軽く朝食をすますと、港へ行ってみたく足先が自然にその方へ向っていた。
     今年の暑さはことのほかひどい。8月の終り頃なのに真夏みたいに暑い日もあった。とは云っても9月が目の前に待っている。朝は凌ぎよい空気のなかに、どことなく秋らしい匂いを漂わしていた。
     法事の当日は手伝いやら、後片付けなどでいち日を過ごし、翌日は泊り客の親類の者たちでつもる話に花を咲かし、いち日をこれ又つぶしてしまった。
     そんな次第で、今日やっと自分のからだになったみたいである。

     ◇ 


     この町で産れ、この町の小学校に通った康夫には、中等学校時代を他県で学んだとは云え、なつかしいゆりかごの町である。
     勿論・・・夏休暇などの一定期間学校が休みになる時は、それがきまりみたいにこの町へ帰って来たのだった。
     胸の夢を呼び出せば数々の想い出がいっぱいあった。・・・・・・
     あの頃はまだ両親も生きていたし、この港町での中流以上の家庭であったので、何不自由しない幸な身分であった。
     小学校の6年生になると、中流程度から上の家庭では・・・・・・男子は中等学校か商業学校の試験を受けるし、女子は女学校の試験を受け、試験にパスして入学出来ると内祝をした親達もあった。
     将来の為を考えての母親の強い願いを入れ、母の故郷である都市の中等学校にパス出来ると、その学校に籍を置いた康夫は、母の実家から学校へ通ったのだった。
     家人のもてなしは親切だったが、両親のもとを離れて居る淋しさは、ややもすると郷愁を誘い心を暗くするのであった。
     学校になれるにしたがって友達の人数も増して来た。
     それは沈み勝ちな心の救いであった。
     誰でも故郷は懐しいもの!!

    故郷には子守唄がある
    漂う空気には
    母の肌の温さがある
    心を誘う匂には
    ほとばしる乳を貯える
    乳房の甘さがある

     まして心の片角に、あこがれの対象の女性が居るに於てはなおさらである。
     これはまた女の方から云っても同じことなのだが・・・・・・

     ◇ 


     ずっと以前は浜であった場所が埋立てられ、コンクリートの道路をはさんで鉄工所が建ちならんでいる。
     そんな現在では旧道を歩く方がいくらか静かであり、昔の町のたたずまいにふれるにはふさわしいのである。・・・・・・
     魚類のなまくさい臭いが鼻にからみつく町通りを過ぎ、小じんまりした家造りの家にまじって、日用品などを売る店が並ぶあたりを通り抜けてから、バスが走っている道に出た。
     云うならば裏道を来たことになる。
     渡船場へ通じる道も見え、観光地らしい匂が旅心を誘っているのに気付いた。
     大阪方面から遊びに来ている人達だろうか、褞袍を着た中年の男が2、3人づれで散歩するのに出会った。
     このあたりは、保命酒や、その酒粕を売るかまえの大きな店がそこここに見受けられる。
     ――この土地の名産の保命酒がはいっている飾瓶のめずらしい姿を見ながら足を進め、坂を一つ越えると、ゆるやかな傾斜の道が、康夫を一直線に港口へ招いた。

     ◇ 

     康夫はこの町を訪ね、港に来るときまった様に波止場に佇むのだった。
     今日も水平線が遙か遠くの方に横たわっている。近くに見える2、3の小さな浮き島には、そこでひと時を遊んだ想い出が記憶のなかにころがっていた。
     夢をたぐりよせる想い出は懐しく又愉しい。・・・・・・
     その慕情をかき乱してエンジンの音をやかましく響かせる機帆船が、港から出てゆくのが目についた。・・・・・・
     船が通ったあとの波が幅広く左右へひろがる。
     その波をみているうちに、一人の娘の姿が浮かんで来た。――康夫の実家がある同じ地区の吉木と云う家の主人と康夫の父とは、碁での遊び友達であった。康夫の姓は森と云うのだが・・・・・・
      「森の坊ちゃん、お父さん居てかな、おらくだったら碁をしませんか云ってな、たのみますよ」
     よく耳にした言葉である。夏の夜などは、家の前に、涼台を持ち出して白、黒の碁石を並べてたのしむ仲だった。
     そんな関係で両家は行き来が多く、何かにつけ親しいあいだがらであった。
     父の死後は左程ではないが、――波をみているうちに、幻のように、視野に浮かんで来た娘と云うのは、吉木家の次女・・・・・・靖代なのである。

     ◇ 

     海ぞいの町の男女の早熟なことは、古い時代から今日に至っても変っては居ない。
     康夫が中等学校に学ぶようになった頃は、靖代はまだ小学校の6年生だったが、康夫が中等学校の2年生になると、靖代も尾道の女学校に入学した。・・・・・・
     母の実家から、その都市の松柏中学校に通学する康夫、寄宿舎から尾道女学校に通学する靖代。
     どちらも故郷を離れて暮す身である。学校できまられてあるまとまった休みが待たれてならぬのも自然だろう。
     夏の長い休みは宿題が沢山だされるけれど、両親のそばに長く居れると思うと夏休暇は嬉しかった。
     別なことからも嬉しいのは、久しぶりにまた会えると云うその為でもあった。
     康夫は歳にもにあわない子供ぽい処があり、まだ小学校の6年生の頃には、よく近所の子供達を呼び集めて影絵を見せて遊びなどした。・・・・・・
     仲の良い友達にハモニカーを吹かし、自分は弁士よろしく映画説明の口調で物語るのだったが、細い糸でつるした−人間のかたちに切った紙や、野獣の型に切った紙をあやつるのだった。

     ◇ 


     康夫は自分の映画説明ふうな口調を、靖代が好いているからだろう−友達を誘って、時々見に来てくれるのだと思った。
     また靖代は康夫がほかの者に説明をかわってやらすのを、なぜかきらって居るらしく浮かぬ面持をみせた。
     が、康夫が面白く物語るように説明すると、一層はげしく掌をたたくのだった。・・・・・・
     そんな、そんな懐しい夢をたぐり寄せては、またたぐりよせ、遠いい昔の想い出の中に心を遊ばしながら、沖から吹いて来る汐風に身を愛撫させて波止場に佇っている康夫である。
     「森の康夫さんじゃないの」
     思いがけない背後から投げて来た声に、ききおぼえのある声だと振りむいた、子供の頃からの遊び友達の木田春枝だった。
     「誰かと思った。びっくりしたよ。春枝さんだったのか」
     親しみのただよう目で、なつかしそうに春枝を見ていた。
     「久しくお目にかかりませんが、お変りなかったのですか」
     「お蔭で元気で暮してました。春枝さんも・・・・・・?!」
     と言葉を返した。
     「色々とお話したいことが有るんですが、お会いできなかったので・・・・・・」
     康夫に会えたことを春枝は喜んでいるように見えた。
     ◇ 


     二人の思いは子供心にかえっていた。
     申し合せたように、春枝は康夫と肩を並べて波止場に腰をおろした。・・・・・・
     港に停泊した船が、船板を汐水で洗われている。そのこぼれ水が海面をさわがす。・・・・・・
     春枝の話は堰をつき破った水のようないきおいで、あふれ出て来る。
     「今でも、靖代さんのこと悪く思ってらっしゃるの?」・・・・・・
     「どんなことが有ったのか知りません。でも靖代さんはいい人です。それに、康夫さんを人いち倍に愛して居られたんですよ」
     康夫の胸のうちを打診するように春枝は云った。・・・・・・
     靖代のことにふれたくない康夫は、こころもち俯いたままだまっていた。・・・
     しばらくしてからだった。
     「靖代さんが僕を愛してくれてたことを、ことを・・・・・・」
     康夫は語尾をにごして顔をあげると、船出の汽笛を鳴らして港を出て行く定期船を見た。
     (あの連絡船は――尾道へ行くんだなあ)
     自問するようにつぶやいた。
    夏休暇もあと二日
    そんなある日
    もしかしたら・・・・・・
    逢えはしないだろうか
    はかない望みを抱いて
    僕が来て待った港
    さわやかな空気だけど
    待つ人は来なかった
    汐風のなかで・・・・・・
    切ない心をもてあまし
    重い足をひきずった
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    海だけは知っている
     (青春の胸にめばえる恋情は、時にその火を大きくし、燃え狂うことさえあると云われる)
     春枝は話し続けるのをためらった。石のかけらを投げたのだろう。ジャボン・・・と音がした。

     ◇ 


     その人を慕う思いのはげしさに、逢ないことの淋しさ。便りの来ない不安さ。恋知る者の誰でもが抱く悩みなのだ。
     ――康夫の想い出の夢は続く・・・・・・
     康夫は中等学校に入学してからは、靖代と話をすることは無かったと云い切れる。
     たまに道で出会っても、靖代が友達と居て話す時は持てなかった。
     “愛するが故に鞭打ってくれた文面を、あざけり見さげたものと悪く取って、腹立ちのあまり血で綴って出した絶交の手紙”“舎監に見られたこちらからの手紙で、なにかと問いただされた辛さ。
     私が見上げる人になって、あなたを見なをさしてください。
     怒りの内にも愛情を失なってはいないザーエンドの角封筒”自分の思いのいたらなかっただけに、靖代のことにふれると感無量の康夫なのである。

     ◇ 


     ――靖代さんは、もうこの世には居ない人だなあ!!・・・・・・・・・
     病気の外に悩みがあったのか?・・・・・・
     もしかしたら・・・・・・
     「靖代さんが永遠に眠りつずけられる――あのお墓へ、心の掌を合してあげてください」
     康夫が山の方を見ているのに気付くと、春枝はそう云ってから、
     「そうでしたよ、ボートに靖代さん達と一緒に乗っている日のことでした。何でしたかは、はっきりしませんが、靖代さんが話を切り出し、皆の意見をもとめたのでしたが、議論の末に意見は色々でしたの、そのとき、康夫さんがここに居たら私の言葉に賛成なさるわ、きっと共鳴して下さると思う。そう靖代さんは云われたのです」
     康夫はうなずいてみせて、そのあとで腕時計を見た。
     波止場をあとにすることに決めて腰をあげた。
     二人は港ぞいに町の方へ歩いてから、まだ話したい心を残していたが、道々話し合って来たことを整理するかのように、康夫は云った。
     「そうだったのか、有難う春枝さん、元気で居て下さいね」
     康夫さんも、お元気で・・・・・・」
     と、春枝も言葉に応えた。
     お互の無事を祈り、違う方向へそれぞれに別れた。
     ◇ 

     まだ正午までには時間が残っている。
     もとの道を坂を越えると、康夫は渡船場へ行ってみたく足を向けた。
     渡船場附近も、昔とはずいぶん変ってきた。
     郵便局が建って居る場所には、カジ屋があったのを想い出す。
     役場が建って居る地所は、以前は誰かの別荘があった。
     そのあと遊園地になり、現在のモダンな役場にと三転して、現代的な建物が海を見おろしている。
     この町を訪れる観光客の目を一度は向けさせずには置かないだろう。
     近隣都市と合併してから、急速に変りつつある。
     渡船場附近の大部分は埋立てられ広くはなかったが、また、渡船はエンジンが鳴り響く船に変ったが、・・・・・・
     なぜか私の心を暗くするものが有る。渡船場の切符売り場の建物に、昔をしのぶ事が出来るのがせめてもの救いではあるが・・・・・・・・・

    汗が首すじを流れる夏
    昼飯をかきこむと
    麦藁帽をかぶって来た
    あの頃の渡船場が
    たまらなく恋しい
    波が少しさわいでも
    恐がらない少年少女たち
    浜辺の子は・・・・・・
    ボートに乗るのが好き
    わざとつきあたって
    軽いふれあいをし合う
    そこに羞じらいがある
    それが又楽しく嬉しい
    無邪気な心に・・・・・・
    かぎりなく夢がわく
    海だけでも
    知っていてくれるだろ
    僕たちの
    あの頃の青春の夢を
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    8月もあと1日で9月にはいると云うのに・・・・・・
     正午前になると、まだ暑い。
     残暑はなかなか去りそうにもなく厳しい。
     観光バスのたまり場の、海に面した岸につくばんで・・・・・・
     昔の想い出にふける。このあたりにも若い日の郷愁が呼んでいた。時のたつのを忘れて居た。
     「もう帰らなくては、兄嫁に心配をかけてはすまない」
     腰をうかすと、康夫はコンクリートの道路を歩いた。なるべくバスの走らない時をひろって・・・・・・・・・。
     両側に建ち並ぶ鉄工所が、やかましく機械の音をさわがせている。
     鉄工所がとぎれる所に来ると、親戚の家がある山への登り口になる。
     故郷の町も変ってしまった。としみじみ想う。
    (完)



7. 好物にたたりなし

     好物だと、随分不消化なものでもめったにあたらぬ。これは間ちがいのないことだ。
     好きな食物では消化液の分泌が甚だ旺盛だからだ。といって、慣れぬものがフグの手料理などやってはならぬが、そうした物騒なものでさえなければ、好物は精々食ってよろしい。
     胃腸がよわいとか、喘息や蕁麻疹といった所謂アレルギー(過敏)性の病気のときなど、医者は、経験上それらの場合によくないといわれているものを一応は禁ずるのだが、たとえとめられても、「好物だ構うもんか」とやる人がよくある。
     そして、実際大概はさわらぬものだ。ヒポクラテスは、

      「習慣になっている食物はたとへその性質が良くなくともよく堪へうる」(今裕博士訳ヒポクラテス全集)

     といっているし、益軒先生の養生訓には、

      「好けるものは脾胃の好む所なれば補となる。李笠翁も本性甚だ好けるもの薬にあつべしと云へり。もっともこの理あり。食物の気味わが心にかなはざる物は養とならずかへって害となる。たとひわがためにむつかしくこしらへたる食なりとも心にかなはずして害となるべきものは食ふべからず」

     とある。
     徒然草の、

       「真乗院の盛親僧都とてやんごとなき智者ありけり。芋魁といふ物を好みて多く食ひけり。談義の座にても大なる鉢に堆高く盛りて、膝もとに置きつつ食ひながら書をも読みけり。病ふ事あるには7日27日など療治とて籠り居て、思ふやうによき芋魁を選びて殊に多く食ひて萬の病を癒しけり」

     の話も愉快だし、森立之の遊相医話のも面白い。
     曰く

       「芋につきての一奇談あり。先年余丸山の邸中に住するの日、一婢あり。練馬の存白子村の産なりき。壮実肥満なりしが忽ち咳嗽を患い百治効なきにより、食禁を厳にして薬を投ずることに半月に至る。次第に飲食も減少し、気力も衰憊し、身体少しく羸痩す。
       一日余直に上るの後、祖母清光院婢の不食を愍みて、何か好むものありやと問はれしに、田家の製の如くにして芋を食はんことを欲すと云へり。然らば与ふべしとて、一升の芋を彼の意の如く味噌煮にして飽喫せしむるに半を過したり。
       その夜より咳嗽頓に止み、平臥安眠し気力も平復し両便も快通せり。
       翌日余直より下りけるに、祖母このことを語り且つ医理に通する事吾はるかに長ぜりなど申さる云々」。

     まことに古諺の「好物にたたりなし」ではある。
     しかし、これも無条件には通用しない。
     胆石症のある人が(あぶら濃いものが好きなものだが)テンプラなど遠慮なくやると随分とひどい目にあう。
     それに、だいたいあたらぬ、さわらぬといっても、それは当座かぎりのことで、もしそれが習慣ともなり、ために偏食の原因になるというのだと、たとえ好物とはいえ、ながい間にはおそるべき影響を及ぼさぬとは限らぬことは、いずれの偏食の場合でも同じである。
     動物の嗜好は本能的に正しいが人間のはそうは行かぬ。
     味覚のおもむく所にはしるだけに、とかく不自然になりがち。
     偏食の多くはその結果であり、ひいては不健康の因ともなる。好物もものによりけり。
     さいわいにそれが野菜、果物といった保健食品だと大いに結構であるが、肉、魚、卵、糖、酒などの不完全食品の場合は、うっかりすると生命にもかかわる。好物だとて油断は禁物である。
    (25・10)



8. 胎兒は奇形だった

     睡眠薬服用のフイ夫人 中絶手術に成功
    【ストックホルム18日UPI=共同】サリドマイド系睡眠薬を服用したため、奇形児が生まれることをおそれてストックホルムまで妊娠中絶手術を受けに来ていた、米国のシェリ・フィンクバイン夫人(29)は18日、同市のカロライン病院で中絶手術を受け成功した。
     夫人の入院に付き添っている夫のロバート・フィンクバイン氏は手術後、胎児は奇形だったことを明らかにして次のように述べた。
     医師たちは私たち夫婦にたいし、胎児が奇形の明白な兆候を示していると通告してくれた。
     これでわれわれが中絶手術を強く主張したのは正当だったことが疑いもなく明らかになった。
     【注】フィンクバイン一家はアリゾナ州フェニックスに住み、夫人はテレビ・タレントとして有名だったが昨年、夫が英国旅行中買ったサリドマイド系の薬をこのほど妊娠初期に飲んだ。
     これが有害と分かったので、一家は米国内で中絶手術を受けようとしたが、大部分の州は法律で禁止しているので、やむをえずスウエーデンに来たもの。

    (8・20・山陽新聞)



9. 雪国における ケールの越冬

    その1 T.H. 

     ケールの花が咲きました。
     昨年の春、種を送っていただき、秋まで良い葉をつかうことができました。
     それで、昨秋、この種をとるには冬越しをしなければならないが、越冬法を会へ問い合せましたところ、まだ北海道は試してみない、とのお返事でした。
     私は色々の方法で囲ってみましたが、結局、そのままで、雪の下で越冬して、春に芽が出ることがわかりました。
     生命力の強いものです。




    その2 H.K. 

     当地にても、その道の人と相談していますが、何しろタバコの木位に成育したケールが33本。大きな葉牡丹のように葉が生いしげり、見事で、当地の人は、これはキャベツの大きくなり過ぎたのか、と驚いてばかりいます。
     私も、出来るだけていねいに手入れして花を咲かせ種子だけでもとって、欲しい人に差し上げたいものと思いおりますが、とてもこの寒空に花の咲く様子もなく、まわりに板かこいをしてむしろをかけ、根の凍らないようにして来春までもたせようと思っています。

    (36・10・30)



10. ふつうの分娩ができた

    東京都 H.H. 

     初産の時、姙娠中毒症がひどく、7ヶ月目より絶対安静を保ち、子癇の心配が強かったので、帝王切開して出産いたしましたが、分娩後も、蛋白尿、高血圧で1年ちかくも療養いたしました。
     そのため、今後の姙娠、出産はさけるようにいわれましたが、4年目に今度の姙娠でしたので、医師と相談の上、高血圧、蛋白が出たらあきらめるように、といわれて、続けてみました。
     ちょうどその頃、青汁のことを松浦夫人から伺い、さっそくためしてみました。はじめは飲みにくいと思いましたが、飲みなれるとさほど苦にならず、とうとう10ヶ月まで血圧も高くならず、蛋白も出ないで、ふつうの分娩をすることが出来、医師も首をかしげる程でした。

    (37・2・20)



11. 肝炎と青汁

    鳥取県 K.Y. 

     この8月、子供の肝炎で2ヶ月入院。肝硬変ではないかと疑われましたので、9月末には岡山医大まで飛んで行きましたが、その後の経過は意外に順調で、23日で退院して帰りました。
     青汁については以前よりうすうす知っておりましたので、9月下旬、一番心配した時に、どうしても治してやろうと、病院で、こっそり青汁をつくり、少量づつのませました。
     今にして思えば、そのおかげで順調に回復にむかったものと感謝しております。

    (36・12・1)



12. おどろいたことに

    三重県 E.N. 

     種子をおくっていただきましたケールのグリンジュースを、喘息の子に飲ませて3週間。
     おどろきましたことに、発作が減り、土気色だった顔色が赤味をまし、夕方になると、疲れたと、すぐねころんでいた子が、そんなことを忘れたように、元気になりました。(36・12・11)



13. 頑固なリューマチ

    大牟田市 S.H. 

     5月初めより青汁飲用を始めまして、本日まで1日もかがさず継続して居ります。7・8年にわたる頑固なリューマチも約1ヶ月を経過したる頃より、日に日に恢復いたしまして、現在では起居歩行など全く支障なきまでに全快いたしました。



14. 2年のセキ

    石巻市 T.S. 

     長い病床に苦しい4年間をおくっています。
     2年前より「セキ」に苦しく、青汁を服用いたしましてから、ほとんどとまりこの上なくよろこんでいます。

    (36・7・6)



15. おきるのが楽しみ

    藤枝市 M.U. 

     私、和裁仕立業をいたして居ります一人者でございます。
     それ故、せめて死ぬまで達者でありたいと希い、また人様にご迷惑をおかけしたくないと、常々心に希っているものでございます。
     このたび「青汁の効用」を拝見いたし、本年1月10日ごろより実行して居ります。
     同時に玄米食に切りかえ大豆と小豆を麦かわりに入れて食して居ります。
     青汁は、野菜が只今ありませんので、毎日2勺位しか飲むことが出来ませんがそれでも翌日より、毎朝食事前に通じがあるようになり、ただただおどろいて居ります。
     今までは職業柄便秘がちにて、4日に1回、または15日に1回という有様でしたから、朝おきるのが楽しみでございます。



16. 質問箱 バターとマーガリン

    川崎市 H.O. 


     庶民階級には、経費の点よりバターよりもマーガリンを多くつかいますが栄養価や害毒の点をお示し下さい。


     バターには脂肪だけでなく、いろいろの有効成分がふくまれていますが、マーガリンは脂肪と強化された若干の成分だけしかありません。
     それだけ劣るといえましょう。
     またマーガリンにはバター黄の色がつけてありますが、そのうちには恐ろしい害作用のあるものがあります。



コラム紹介

    青汁讃歌 なるともただあき

      天地の恵になりし青汁を
      おし項きて今朝も腹せり
      青くさきと思いて含みしこの汁も
      今はこよなき味のする
      有難きグリーンの汁に
      わが命清められけり
      いざ働かん



      青汁のんで 滋賀県 岸村敬蔵
      兎にも似たる草葉をいただいてご馳走さまとは病気ならこそ

      感謝 山本重次郎
      青汁に老の身まかせ健にその日その日をうれしくぞ過ぐ

      貝塚市 平尾一次郎
      青汁の効めあらわれやれやれと心ゆるせばわれ疲れけり

      伊那市 邦之
      炎天にケールも負けず青々となじむ心が青汁の味



    とかく美食は寿命の毒
     (家宝往来。衛生史譚より) 



    苗にして秀でざるものあり
    秀でて実(みのら)ざるものあり
     (論語) 



    青汁の行進 田辺弘

      1. 青汁の旗高々と 野こえ山こえ海こえて
         緑り葉の歌高らかに 進む緑の大行進
      2. 文明人や病む人も 働く者も若人も
         次の世代をになう子も 集い相寄る大行進
      3. 緑の野山生き生きと 天の恵みは果てしなく
         ああ有難く只感謝 生きた緑の大行進








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