健康と青汁タイトル小 <1961年02月15日発行 第54号>
 目次




1. 動物にならう(二)
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     医学博士 遠藤 仁郎 

     ともかく、こうしたところに私どもの食べ物のあり方のヒントがあるように、私には思えます。
     雑食のネズミが、穀物を与えられても、肉を与えられても、菜葉を食うこと、元来は肉食(正しくは動物食)動物である犬や猫、鳥でも魚でもが、人間に飼われると菜葉が必要になるということは、なぜでしょうか。
     人間のあたえる穀、芋、肉類には、熱量や蛋白質はあるが、ミネラルやビタミン類が少い。
     このことを、これらの動物は本能的に知り、また、これらの欠乏成分に富むものは菜葉だということも、彼らは本能的に知っており、これを貪り食うことによって栄養のバランスを正しくしようとしているのです。
     そして、飼い主の人間はそれを、こうした経験から学びとって、つまり科学しているというわけですが、この事実こそ、私どもの不完全な習慣食を完全にするために、良質(ビタミンならびに吸収しやすいかたちのカルシウムの富んでいる)菜葉を多く食べようという緑葉食の根本原理ともいうべきものであります。
     しかし、野生の動物の、あの頑健さを得るためにはもっと注意せねばならぬことがあります。
     それは、彼らの食べ物はすべて、ナマの、自然のままだということです。
     必ずしも、すべてが新鮮とはいえず、中には腐肉を食い、枯葉も食いますが、ともかく、火をあてぬ自然のまま、いいかえれば、バイ菌のウヨウヨいるにちがいない、不潔食だということです。
     しかも、天の配剤の妙は実にここにあるのではないでしょうか。
     乞食が芥箱に飢を凌ぎ、ボロをまといムシロをかぶって寒さに堪え、頑健そのものであること、これこそ自然のままの、人間の真の姿というべきものでしょう。
     それはともかくとしてもそのうえに、いま一つ、動物とちがうことは食品そのものの変質です。
     農作物には不完全な肥料、危険な農薬の濫用の上に、促成あるいは抑制といった不自然な栽培法が行われます。
     そして、こうした不健康な、あるいは危険さえもはらんでいるものを食べ、また、そうしたもので飼われたり、あるいは「完全飼料」という不完全飼料をあたえられて病弱となった家畜の、またそのために各種の新薬が人間におとらずもちいられたり、肥肉をより多くとるためにホルモン剤や抗生剤などのあたえられている、そうした家畜の肉を食い、卵を食い、乳を飲んでいるのです。
     さらに一層困ったことは食品加工です。
     鑵詰、瓶詰はもとより、冷蔵、塩蔵、乾燥、燻製その他の貯蔵法のために加えられる操作や添加される防腐剤その他の薬剤。色目をよくするための漂白、着色化粧料。安く甘くするための人工甘味。はては各種の合成飲料(色も香りも味もすべて人工的)など。食べよくするため、おいしくするためだけではありません。
     より多く売り、より多く儲けんがために、あらゆる手が加えられ、術が施こされます。
     これらの操作や添加物のうちには、栄養素を破壊するものもあれば、吸収利用を悪くするものもあります。
     あるいは、それ自体有害なものもあり(肝臓、腎臓や造血器などをおかす)、一時的には無害で、目立った作用はないようでも、ながい間には、同様の害をまねき、あるいは、過敏(アレルギー)反応をおこしたり、発癌性にはたらくといった、恐ろしい影響をおよぼすものが少くありません。
     しかもかような、食品の不良化、不純化の度合は、今やその極に達しており、その害毒にいたっては、まことに測り知るべからざるものがあり、世はまさに殺人食時代といってもよいありさまです。
     したがって、ほんとうの健康を得るためには、栄養素の面からの食の完全化だけではなく、つとめて生食すること、そしてまた、それとともに、つとめて不良食品、不純有害食品を除き自然の食品を自然のままであるいは、なるべく自然に近い状態で食べること。
     つまり、野生の動物が本能的にやっている自然的なやり方にならうことだと、私は思います。




2. 大根のひとりごと(2)――葉っぱの方もおいしいよ――
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     友成 左近 

     この前いったことで、オレたちの値打が、根ッこばかりでなく葉ッぱにもあること、いや葉ッぱの方にウンと沢山あることが、よく分かってくれただろう、これからは、もう「ダイコン、ダイコン」と、あんまり安ッぽくみられないようになるだろう、と思う。
     だが、まだ気がかりなことがある。
     根ッこはともかく、葉ッぱは「まずくて食えない」と思っている連中が意外に多いからだ。

    まずいといわれても値打は変わらない
     人間どもは、ものを食うとき「うまいとか、まずいとか」いって、うまいものばかり食いたがるクセがある。
     これは、オレたちともおンなしだが、どんなものが「うまいか、まずいか」見分けるところが、ちがっている。
     オレたちは、生まれつき「値打のあるものはうまい。値打のないものはまずい」と間違いなく見分けがつく。
     大きくなってもボケはしない。
     人間どもは、この点、至ってダラシがないらしい。
     小さい時から「うまいもの、まずいもの」と教えこまれて、やっと見分けがつくようになる。
     ところが、この「うまいもの、まずいもの」というのが、いささかあやしい。
     だいいち人間どもが「うまい」といっているものに案外値打のないものもあり、「まずい」ときめているものにも、大いに値打のあるものがある。
     いったい「値打のある、なし」は物の本性で、人間どもが、「うまいとか、まずいとか」いっても、別に変わるものではない。
     事実、オレたちの葉ッぱは「まずくて食えない」ときめてかかっている連中が多いのに、前にもいったように、大いに値打がある通りだ。
     人間どもが食っている最も値打のあるものに、少しもヒケはとらない。

    葉ッぱの方もうまいはず
     オレたちの間では「値打のあるものはうまい」ということになっている。
     これは真実だと思う。オレたちは値打がある。
     だから、うまいはずだ。とくに葉ッぱの方は格別うまいはずなのだ。
     事実、昔の人間どもはみんなほんとに、うまそうに食っていたそうだ。
     ニワトリやウシを見給え。他にどんなものがあっても、まずオレたちを、葉ッぱの方から、うまそうに食ってくれる。
     葉ッぱをしっかり食ったやつは至って元気がよい。
     卵をよく産む。乳を沢山出す。ちょっとやそっとでは病気にかからない。
     だのに、この頃の人間どもには、オレたちを、そう「うまいもの」とは思わず、とくに葉ッぱの方は「まずくて食えない」ものときめてかかっている連中が多い。
     下手な食い方をしてオレたちのピリッとカライところや毛ばだちが気にさわった連中ときたら、いつまでたっても「食えないもの」ときめこんでいる。
     オレたちを、とくに葉ッぱの方を、おいしく食っている連中が、少々すすめても、気味悪がって見向きもしない。
     その上、こんな連中をあんなものしか食えない貧乏人か、いかもの食いの変人とみるらしい。

     ○ 

     さてさて、お気の毒なことだ。だが、人間どもに、みんな、おいしく食ってもらわないと、オレたちも先行き不安だ。
     うまく世話をしてくれなくなる恐れがある。
     人間どもに広く、オレたちが大いに値打があるだけでなく、なかなか「うまいもの」だ、ということをトクと心得てもらわねばなるまい。
     だが残念ながら、さしあたり、こんなことより妙手が思いうかばない。

    食っている人々を見習え
     まず第一に、オレたちを葉ッぱの方まで、うまそうに食っている連中が、そう多くはないが、確かにいることを知ってほしい。
     見習ってほしい。
     いかにも丈夫である。
     病気にかかることはマレだ。
     薬代が殆んどいらない。
     しかも、オレたちは、大いに値打があるのに値段は至って安いンだ。

    食わず嫌いになるな
     第二に、オレたちをアタマから「まずいもの」ときめて、食わず嫌いにならないようにしてほしい。
     たとえ少しずつでもよいから、とにかく食ってほしい。
     案外「うまい」ということが分かってくる。
     少々まずいと感じても、そこをシンボウして食いつづけてほしい。
     おいおい「まずい」とは感じなくなる。
     そのうち「うまい」と思うようになる。
     人間どもの舌は、そうしたものなのだ。

    食い方を工夫せよ
     第三に、オレたちは、種類、部分、月令などによって多少味わいがちがっているので、それに応じた食い方をしてほしい。
     コイツア案外「うまい」ということが分かってくる。
     下手な食い方をして「まずい」といわれるのは迷惑至極だ。
     とくに人間どもは、調理という知恵をもっているはずだ。
     それを大いに働かせて、ますますおいしく味わえるようにしてほしい。
     とはいっても、タマには「まずい」ヤツに出くわすこともあろう。
     スがたっていたり、バカにニガカラかったり、シワかったり。だが、これは、人間どもが行き届いて世話をしてくれなかったためだ。
     オレたちのセイにされてはツライ。
     オレたちは、よく世話をしてくれたら、必ず「うまい」ものになるのだ。
     タマに「まずい」ものに出くわしたからとって、オレたちをミンナ「まずい」ものときめつけないようにしてほしい。

    砂糖ダイコンは別だ
     なお念のため、ひとこと云いそえておきたい。
     砂糖ダイコンについてだ。これは、ダイコンといわれていても、オレたちの仲間ではない。
     悪口をいうのは心苦しいが、これは、オレたちより、はるかに値打が劣っている。
     また、そう「うまい」ものでもない。
     試みにニワトリやウシにやってみ給え。
     オレたちの方を先に食う。
     また、これを度はずれて沢山食わせていると、ヘンな病気にかかることもあるそうだ。
    (つづく)

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3. 長寿と食習慣について(2)
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    東北大学教授 S.K. 

    (3)米の偏食、大食の食習慣のある村は必ず例外なく短命である。
     例えば、秋田県、山形県の米単作地方にゆくと米以外は何ものも不足である。
     故に米を大食する、魚もない、大豆も作らないとなると、蛋白質は米一品からとるのは止むを得ない事で、米を大食しなければならない。
     現在の家庭の食生活の事態調査をやって見ると、

       子供を除いた大人の平均は普通で6合6勺、しかも真白い米を食べる、一番少い家庭でも5合は食べる、農繁期は一升以上も食べる、一般に米単作地帯はかかる食生活をやっている、青森県の東部「旧津軽領」の米作地や、山形県の庄内地方の米作地は殆んどこういう食生活である。
       山形県の北の端「即ち奥羽本線の山形県の一番北にある駅」に及位村(ノゾキムラ)がある。
       此所は県下第一の短命村で、長寿率は女1.1%(全国平均3.2%)である、此の地は山地が多く而かも米も不足である、かかる所は普通短命でない筈なのに県下一の短命村であるというのは不思議だと思って何回も行って調べて見ると、此所の食生活は米の偏食、大食の代表的な所であることが判りました。
       此所は林業に力を入れて食糧生産の方には力を入れない、直ぐ隣が米産県であるので、米は外部から入れて沢山食べるが、野菜は作りもせず又買いもしない、米以外はすべて極端に不足しているので米を実に大食している、大人は平均7合も食べる。成程短命な訳だと了解出来る。

    (4)主食に就ては一定した結論が見出せなかった、世間では雑穀を食べているところは長命だと云われているが、所謂主食と云うものに就ては一定した結論が見出せなかった、要するに主食は何でもよいということになる。

    (5)海藻、個々の種類は一先ず置いて、要するに此れを常食する習慣の所は之を食べない所より長寿者が一段と多い、至る所で此の事実が見られる。
     内容を見ると海藻を常食する地方は脳溢血が著しく少い、若しあっても若い中に起らない高齢になってから起る。
     秋田県は反対で、此所では短命の直接の原因、即ち70歳以上まで生きるのを減らした直接の原因は主として脳溢血である、40歳代から之が俄然多くなる。
     此の発病の年齢は着眼すべき大切な事である。
     今迄、脳溢血死亡/総死亡、指数が一般に使われているが此れは脳溢血の年齢を考慮に入れていないので、此れだけでは不充分である。
     忘れてならないのは発病の年齢期である、秋田県では之れが40代から続々起っている、秋田県の人は、40の声を聞くと脳溢血で倒れる事を連想する位で、40歳になると脳溢血が多発するのが常識である。
     多い例を云うと、秋田県の米作地帯である大曲町附近の村々では総死亡でなく大人だけの死亡を見ると、之れは私の見方ですが、20歳以上で死亡したものに対する脳溢血即ち、脳溢血の死亡/20歳以上の死亡が驚く勿れ49%である。
     即ち大人になって死亡する者はその半分が脳溢血死である。
     兎に角脳溢血に就ては単に数だけでなく、若い中か高齢になって起るかは注意すべきもので、此の点で秋田県の脳溢血は非常に悪性である。
     鳥取県、島根県は長寿だが、全国的に見て脳溢血が多い、然し此れは単に総死亡に対する率に就て見たのであって、此の両県は高齢者が多いから老人病である脳溢血が多いので言わば有資格者が多いからである。
     ですから御目出度い脳溢血だとも云える。
     此れに反し、秋田県は若い中に脳溢血で死亡する者が多いから其の結果として70歳以上生きる人が少いのである。
     即ち悪性の脳溢血だと云うべきである。
     以上は私が過去10年余り各地を歩いて調査し得た事実から主観を加えずに引き出したもので、之れだけは動かし得ない事実として自信を以て紹介出来るものであります。




4. ムシ歯の歴史

     ムシバの原因の一部は、人間がどのように食物をかむかにかかっている、と人類学者(Jefferson Med.Col.のAngel博士)が報告した。
     有史前から古代にいたるまでは、人類は歯を有効に使って、大いに磨りへらした。
     ところがローマ時代からは、歯の減り方が少なくなり、ムシバはふえてきた。
     これは、煮たやわらかな食物をとるようになったためで、上下の歯列のかみ合せも、はじめは、上の前歯と下の前歯とはピタリと合っていたのが、次第に“うわかみ合せ”(outerbite)になった。
     このことは1,000体以上の遺体からの結論である。
     ギリシャ時代からローマ時代を経て、中世に至る間、ムシバが多くなり、トルコ治下では歯ばかりでなく、人々の全般的な健康が低下した。
     これは、ハチミツの代りに砂糖を使いだしたからである。
     その詳細は、Am.Assn of Physical Anthropologist,に載せられる。

    メジカルダイジェスト52(1960)





5. 人の心

     人の心は、やがて世に無き物をも作り出すなり。
     野猪を畜ひ、山鶏を飼ひ、鴨をかへば、やがて豚といひ鶏といひ、家鴨といふ物世に出て来るなり。
     菊、牡丹の珍らしきを好めば、さまざまの菊も牡丹も世に現はれ、いくたびか接穂されては、終には核子(たね)無き蜜柏さへ世に出づ。
     恐ろしき火も、凄ましき水も、天の降せる災とのみは云ふべからず。
     まことは人の招ける禍ならぬか。
     今の拙き人の世は、即ち今の拙き人の人の描き成せる画なり。

    (幸田露伴 洗心録)




6. 緑の葉を食べよう

    富山県下にひろがる青汁
    お金のかからぬ親切運動

     みどりの葉は太陽のエネルギーと大地のミネラル(無機質)とによって生命の根源をつくる・・・・・・というのがそもそものはじまりだがいまでは県下の知名士から薬屋、学者、教員、学生など、あらゆる人たちが参加し、ひとつの大きな運動に発展している。
     富山青汁の会(田上清貞氏)がこの運動の提唱者でざっと百人近くの会員を持っており、健康は緑葉たべることが一番・・・・・・というモットーではじめられた。
     青汁−つまり野菜や野草の汁を飲むことによってカルシウム、ビタミン、無機物はじめ未知の酵素をからだに取り入れ、健康を増進し若がえろうというもの。
     この会ができたのはごく最近で倉敷市旭町にある倉敷中央病院の遠藤仁郎博士が来県し、緑葉をたべることを奨励したのがきっかけとなり、いままで分散していた青汁愛好家が集まることになった。
     遠藤博士は遠藤青汁の会を主宰するほどこの道の権威者で、全国に支部を持ち、かねてから“真の健康は緑葉食青汁から”を提唱していた。




7. ゼン息1年で治る

     富山青汁の会会員には大学教授、会社員、公務員、医者、銀行員などの各層の人たちが加わっており、大根やキャベツのすりつぶした青汁をこよなく愛している。
     一般の人にとってはまったく意外な健康法だが、医学的にみてもかなり効果があり、野菜食に通じる食生活の改善として会員も日ましにふえているという。
     長い間ゼンソクで苦しんできた富山市銀行員Kさんは青汁を1年ばかり朝晩コップに1杯ずつ飲んでみたところ、病状はすっかり良くなり、胃の調子も上上・・・とその効果の上がったことに喜んでいる。
     また会長の田上医師はことし84歳の老齢にもかかわらず富山から金沢へ週2回も往復するが、からだはいたって丈夫、これも青汁のおかげですよ・・・といっている。

    (35・10・6富山新聞)




8. 近所の病人に飲ます

    愛媛県 T.A. 

     私の住んでいます当地は昔から健康には無関心な風弊があり、殊に病気の治療にあたっては、病膏盲に入る、文字通り瀕死の病状でないと驚かない悪習があります。
     私は集会毎に(男の席、女の席)緑葉の必要や、治病効果、妊娠−出産、優秀な子供が生れる点、子供の体質が改造され、学業成績つまり知能指数が上る点などを述べてきていますが、一向にわかった様子はみえません。
     そこで昨秋より人参、キャベツ、小松菜、大根葉その他にミカンの皮少量、菜種油少々等でジュースをつくり、近所の病人に与えて全快しております。





9. 青汁一本の大荒行

    愛知 A.B. 

     ヨガ教師沖氏は生食8ヶ月にして心身を改造し、北海道の某氏は多病に発奮して、延々8ヶ年間絶対生食一本(煮た物を断食行)遂に驚くべき身心の改善と共に60余才の身で、近頃極めて自然に、小指1本でバケツ一斗入りを水平に上下数十回の怪力まで与えられ生食の神秘に驚嘆しつつありますが、私も歯が悪いために不消化を恐れて生食一本は至難なれども、何か栄養液を入れて青汁一本の大荒行を敢行したいと念願しています。

    (35、9、5通信より)




10. 質問箱 消毒に

    福山 A. 

    徳島県 S.H. 


     福山  A子  消毒に洗剤をつかうのはいかがですか?
     徳島県 S.H. ずっとつづけても害は?



     洗いおとすのにはよろしい。
     それで消毒することはちょっとあてになりません。
     なお、もっとも注意を要することは後あらいを充分せねばならぬ、ということです。
     それは洗剤には癌の発生をたすけるような成分があるといわれているからです。
     そして、癌を発生するという性質は、1回の量よりも、ながい間の総量に関係する、といわれており、たとえ毎日の分量はとるに足らぬ微量でも油断は出来ないからです。
     そこで私どもは、なるべくはじめから、安全な清浄栽培にしておくことをおすすめしているわけです。





コラム紹介

     プラトンは、サツルヌス治下の黄金時代を描写しているところで、当時の人間の主要なる長所を数えた中に、その畜生との疏通を挙げているが、実に当時の人物は、彼らに尋ね、彼らに教えられつつ、彼らの各々の真の性質や差異を知り、以て甚だ完全なる叡智と智恵とを得たのみならず、われらよりは遙に幸福なる生活をしたのである。

    (モンテーニュ随想録 関根正直氏訳)


     野蛮人は獣より利益を引き出すが故にこれを神と崇むるなり(キケロ)。
    モンテーニュ  



    二月の詩
     深山旅愁    
     時はどんどん去って行きます。
     今日は二度と来ません。
     それが楽しい事にせよ悲しい事にせよ、心に残して置きたいことも有るでしょう。
     生活の記念の為に、忘れないために、日記に書きとめて置きましょう。
     想い出は人生の夢だから、今日も書きとめて置きましょう。
     明日も明後日も・・・・・・。




     沙門悟(しゃもんさとる)    
     短い声だけれど
     噛みしめてみると
     味がにじみ出てくる
     そんな言葉が
     生活の中にほしい
     


     食は口腹に充つるを以て足れりとす
     豈なんぞ美味を要せんや
    (アレキサンダー)   



    (歌謠)
    ポプラの中の赤い屋根
     深山旅愁    
     ポプラの中の
     赤い屋根 四角い窓よ
     この道ばたに たたづむと
     泉のように この胸に
     思い出がわく ああ 思い出がわく

     手術のあとを
     あおむけに 寝て居たベッド
     涙で濡れた うるむ眼に
     言葉と一緒に 来る顔が
     女神に見えた ああ 女神に見えた

     心の底で
     紅色(べにいろ)に 咲いているひとよ
     どこへお嫁に 行ったやら
     幻ひとつ ちらづいて
     今日も呼ぶけど ああ 今日も呼ぶけど 



    河内長野市
     粟島行春
     みどりは前進の色であり
     緑は若さの色であり
     みどりは生産の色であり
     (葉緑素は・・・・・・)
     みどりは中庸の色である
     (虹の色の中心)




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