健康と青汁タイトル小 <1958年9月15日発行 第25号>
 目次




1.腸のよわいもの

     医学博士 遠藤 仁郎 

     特別病気というわけでもないのに、ちょっとね冷えするとか、何か変わったものを食べると、すぐにおなかをこわす、便がやわらかくなったり、腹下げする、という癖のある、あるいは年中殆んど便のかたまったことがない、というような人もよくあるものです。
     こういうことには、よくかくれた原因があるものですから、信頼できる医師について、よく相談することが大切ですが、そうしたたちのものもあるので、それについて少しかいてみましょう。
     それは、体質的の腸弱とでもいうべきものですが、別に、生まれついた性質とばかりはいえません。多くは誤った養生、というよりは用心のしすぎから腸の抵抗力を弱めているだけのものです。
     たとえば下痢をひどく恐れる親にそだてられると、子供の時から、おなかにはいつも厚い腰巻をさせ、食物は軟い消化のよいものばかりにされる。胃腸は少しも鍛練されていないから、所謂温室そだちで、何か僅かの刺戟にでもすぐにやられてしまいます。
     一方また、軟い消化のよい食物というと、どうしても、軟い白米飯に軟い肉類や卵になり、野菜ことに青菜っ葉類は繊維が多いからときらわれる。しかも軟くよくたきくたしたものになってしまう。そして間食は生の果物はいけない、煮たものなら少しはよかろ、菓子は大丈夫、といった塩梅。
     この、いかにも無難で栄養豊富らしくみえる食べ方では、なるほど熱量は充分であり、蛋白質も多い。けれども、それらが体内でうまく利用され、処理されるために必要なビタミンやミネラル類は甚しく不足しています。そのため、かえって抵抗力をよわめ、神経の興奮性をたかめる結果を招き、調子の狂いやすい腸が出来上ることにもなります。
     そして、腸をいためると、用心はますますきびしくなり、一層、無刺戟性の食べものになる、というわけで、結局悪循環がなりたち、しだいしだいに病状をつのらせて行きます。そこで、これからのがれるためには、一面、消極的に腹を冷さぬことや腸を刺戟するような物は控えることとともに、他面、積極的に、栄養素のよくそろった完全食をとり、からだ全体の調子をととのえることにつとむべきです。
     すなわち緑葉食で、青菜っ葉を多く、しかもなるべく生で、よくかんで食い(かすはかみ出す)、青汁をやること。そして「生」の脂肪、ことに良質のバタなどを同時に食べるのです。繊維の多い、消化のわるい生菜っ葉や油をとれば、よけと下痢をしそうなものですが、青汁にし「生」の油にすると却って「とまる」のは全く不思議なほどです。
     一年も二年も下痢ばかりしていたものでさえも、こういう風にして、数日で止まったという嘘のような実例もあります。ふつう、下痢の時、油ものはいけないといわれていますが、それは、テンプラとかいためもののように、高い熱をあてた油のことで、これは熱のため変質して、腸を刺戟するようになっているからです。ところが「生」の油は反対に、青汁と一緒に食べて奇妙に下痢をとめる作用があります。
     ともかく、腸がよわくて下痢しやすいたちのものは完全食をとることです。緑葉食をよくかんで食べ、「生」の良質脂肪とともに青汁を飲んでごらんなさい。大抵のばあい効果があります。そしてさらに積極的に、何でも食べて馴らして行く(あたりやすいものは極く少量からしだいにふやして)。そうすればやがて何を食ってもビクともしなくなるし、腹巻もいらなくなります。



2.格言

    滋味を薄くして血気を養ふ。           ( 寿親養考    )
    単なる食料が一番人体によい
       美味な雑多なものはいづれも体に害がある  ( ブリニウス   )
    菜腸病なく肉腸病多し。             ( 朝鮮格言    )
    舌を楽しましむるものは心を苦しむ        ( 沢庵和尚    )
    高年に達するものは殆ど貧しいものに限られている ( ツーフエランド )



3.家庭で食事に手を労するのは(1)

     友成 左近 

     家庭で、毎日ひにち、食事の世話をするのは、本当に苦労の多いことです。とりわけ、家事以外に仕事をもっている主婦にとっては毎日たいへんことです。家計のことを考え、一人一人の好みにあように、そして誰にも栄養がかたよらないように、毎日毎度変化をつけて献立する、そして買物したり、保管したり、炊事したり、本当に手のかかることです。頭のいたいことです。なんとか、もう少し手が省けるようにならないものか、と思うことがあります。
     いったい、毎日ひにち、家庭で食事に手を労するのは、なんのためでしょうか。基本的な考え方として、家庭では、つとめて食事に手を労するようにするのがよいのか、それとも、できるだけ手を省くようにするのがよいのか、そこには、自ら限度というものがあり、また個々の家庭で事情も異なるわけですが、いったい、どっちなのでしょうか。
     もともと、不便な台所と道具で苦労するのは、全く無駄なことです。つとめて改善して、清潔に能率よく手際よく炊事ができようにすることは、誰にも望ましいことです。また、食事に手を労するといっても、それは、別に、こった料理をしたり、あるいは、ミソからパンまで作る、というわけではありません。ヤタラに味つけをしたり、ヤタラに煮たきして栄養素まで失うようにすることではありません。こんなことに手を労するのは、いかにも思慮の足りないことです。けれども、献立と調理にも、つとめて手を省くようにした方がよいとは、どうも考えられません。

     家庭で食事に手を労するのを省きたいなら、極端にいえば、家庭の外で食事をすればよいわけです。出かけるのが面倒であれば、仕出し屋に持ちこんでもらえばよいわけです。これでは金がかかるとすれば、金がかからないように共同炊事をすればよいわけです。これなら、しようと思えば出来ないわけではありません。これもどうかと思うなら、家庭であまり手をかけなくてもすむように加工したものを買って、「カン切りとセン抜き」の食生活をすればよいわけです。誰もそうしようということになれば、食品会社は、手間が省けて、しかも、おいしくて栄養価に富んでいると自称するものを、いろいろと安く作ってくれるはずです。今日、こうした傾向がかなり強くあらわれています。
     けれども、食事というものは、いったい、これでよいのでしょうか。そうした方がよい、そうするように努めるのがよいとは、どうしてもいえません。いな反対に、つとめてそうしないようにしたいものです。できるだけ加工していない原材料を手に入れて、家庭で調理したいものです。それは、いったい、なぜでしょうか。

     第一、そうすれば、食事というものは、あげて商取引の経済関係で処理されるようになりがちです。こうなると、食事が、能率と営利の経済原則で支配されるようになります。食物の製造と販売は大規模な協業分業組織で行われるようになります。数限りなく、多数の人々や業者が、容易に把え難いほど複雑な関係をもって、各種各様の食物を作って提供すようになるわけです。こうなると、個々の業者が、どんなに誠実に仕事をしても、最後に人々の口にはいる食物が、果たして云う通りに栄養素がそろい、しかも不純物が混っていないかどうか、まことに疑わしくなります。保健所などが、食品衛生を、どんなに厳重に監督しても、とうてい満足に行なえるものではありません。街の食堂をそして街で売っている食べ物のことを考えてみれば、よく分ることです。乳幼児食品の研究と製造に格別貢献して、その誠実か信用されていた某社でも、砒素のはいった粉ミルクを作って売っていた、という始末です。
     第二に、商取引の経済関係のもとでは、業者は、どうしても、消費者が喜んで買ってくれるような食物を作って売るようになります。ところが、おいしいものを食べたいのが人情ですから、業者は努めて、おいしいものだけを作りがちです。けれども、おいしいものだけで、栄養と健康が保てるものではありません。それなら、どうして栄養を保ったらよいか、ということが問題となります。今日、マス・コミユニケイションのもとで、大衆の考え方が軽薄になってきているのと同様です。例えば、白米は玄米や半搗米に較べると確かにおいしい。それだから米屋は努めて精白して販売しています。半搗米などはあまりつくりません。食堂も白米飯を出します。けれども、白米に欠けてい栄養素は、どうして補ったらよいのでしょうか。事実これが補われていないので、これが一つの重大な原因となって、国民の四分の一は慢性栄養失調とくに脚気気味となっているわけです。あまいお菓子も同様です。


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4.ソクラテスの訓え

     彼(ソクラテス)は弟子たちに極力健康に留意することを奨励したのであって、こうした知識のある人々から、できるだけたくさんのことを学ぶとともに、各々の全生涯を通じてよく自分のことに注意を払い、いかなる食べもの、またいかなる飲みもの、またはいかなる仕事が自分に適しているか、またどんな風にこれを用いたらもっとも健康に暮せるかを見つけておくべきであると云った。なんとなればこういう具合に自分の身体に注意する人より、もっとよく自分の健康によいものを知っている医者というものは、とうていほかに見つかるものでないからであった。(クセノフオーン、ソクラテスの思い出、佐々木理訳)



5.スモッグは発ガン物質

     肺がんに対して汚染された空気が、決定的な発ガンの役割を演じていと、New York 市公害委員会のDr.Leonard Greenburg は、最近の調査の結果をまとめて、同委員会総会で報告した。
     それによると、肺ガンの発生原因としては、都会の空気汚染ースモッグ(煤煙の霧)一は、少くとも紙巻タバコに劣らず重視すべきものであるという。(メヂカルダイジェスト33年7月号より)



6.自分もち

       科学の進んだこの時世
       何でも出来ぬはない程に
       機械文明は進んだが
       飯は自分で食わねばならず
       くそや小便は手数でも
       他人に頼むわけには行かぬ
       やっぱしからだは自分もち

       科学の進んだこの時世
       衛生施設は行きとどき
       予防接種や検診と
       色々の手はうたれているが
       病気は一向にへりそもない
       お医者はどこも大繁昌
       やっぱし健康は自分もち

       科学の進んだこの時世
       次から次へとすばらしい
       薬や手術は出るけれど
       いかに効目はすごくとも
       五体にこもる力がなけりゃ
       病も傷も治りやせぬ
       やっぱし生命は自分もち



7.(随想) 生きていた鼓動(3)
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    K.T. 

     運搬車は、すでに消毒剤の着物と着替えしたときに、手術室にはいる運搬車の上に寝ていたので、そのまま看護婦さんが押してはいっていったのです。手術室付きの看護婦さんに云われて、手術台に移り横になりました。
     左脇腹を下にして、手術するのに楽なようにエビの様に曲り気味になりました。両手を頭の方の、ベットにあるような鉄棒の一つを中にして組合すと、手首を紐でむすんだあと、こんどは、両足を台に密着さす様にバンド風な帯でしめられた様でした。右肺の後部、右よりの肩のところを開いてあとは全部布でおおわれました。
     来るところまで来た---と思うと捨て身になりました。あきらめの瞼をつむると、神経がそこだけ外気にさらされて居る肌の処に集注され、いやな気持になりはしましたが、(死につながる運命なら死ぬるだろうし、生につながる運命なら生きているだろう)こう云う思考の心が、総てを自然の支配にまかそうと思いました。
     一抹の不安はありましたけれど、(死んだら死んだときのこと、そんなことを思う時でない。出来るだけ我慢して、みぐるしい声は出すまい。その方がメスをあつかわれる先生に、仕事が楽だし、思って居られる手順に手術が出来るだろうから。ぎりぎりの線までは、歯をくいしばるのだ。そうだ歯をくいしばって居よう)
     こうきめると、かえって心が楽でした。医師の指が、肩部から下へ点々と肌を軽く押しくぼめます。その点示線を結ぶとメスの走るラインに思い記憶の中では、ぐうとハジケたジャクロウの実が味覚をそそるどころか家畜のだんまつまを思わしていたのです。
     「注射を打つぞ」医師の声が終ると、ただちにキャアと感じ、液がはいって来るようでした。しばらくしてからでした。手術用の刀が皮膚の一角にぐさり切り込んだ様です。その意味でぐうぐうと下部へ斜の様に孤を描いていきます。でも痛みはおぼえませんでした。局部痲酔がきいている為でしょう。
     私は私が学校へ通って居た当時の、理科教室の時間を思い出しました。小動物の解剖を思い浮かべ、切り開かれた内部の露出の、異様な動きにむかづいた事などが甦りました。いまその小動物の解剖の、一部分が、この私の右肺臓によって行われて居るのだと思うと、気が遠くなるようでしたが、つとめて明るい面に於て、生に執着を持つな、死を怖れるな、自然の安心感のなかにこそ、助かる運命はある。こう心にうなづかせ、奥歯を確く噛み合し息づまる様な感情に耐えていました。


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8.ぼくの青汁

    玉島市 S.T. 

     ぼくは、あおじるをようちえんからのんでいます。それでも、いもうととおにいさんにはまけることもありますが、ときとぎかつこともあります。それでこんどは、おとうちゃんがおかやまへつれていってくれました。こんどはぎゅうにゅうびんに一ぱいずつのむことにきめました。それでまいにちぎゅうにゅうびんに一ぱいずつのんでいました。
     そうしたらげんきよくなってきました。それでびょうきでもすぐなおりました。それでげんきよくなってすもうでもかつようになりました。ぼくはげんきになりました。げんきなこどもになりましょう。それでぼくは、もうのむのはへいきになりました。それでぼくは、ようちえんのときからのんでいました。まだすこしのみにくかったが、すぐのみにくうないようになりました。(小学校一年生)



9.下痢には青汁と生バタ

    須磨 H.U. 

     私は長年夏になると下痢のくせあり、この程又ゆるみはじめましたので、生の汁は如何かと存じ止めて居ります。私は忙しく、すり鉢でするのは手間がかかりますので、ミキサーにかけ、助けの水は昆布をぬるま湯につけておいた汁を加入してやって居ります。
     私は不整脉にて病名としては心筋変性症、心室性期外収縮と云われ、昨年は胆石にて非常に苦しみ、肝臓も少しはれて居るようです。
     以後続けた方がよろきや。下痢の時は止めた方がよろしきや。(32年7月22日附通信)

    (附記 これに対し私から、ずっと続けられるべきこと、下痢には青汁とともに生のバタを食べられるとよいことを返事しました。 遠藤記)

     御書を拝見いたし、直ちに夕方青汁と生バターを頂きました処、廿日間の下痢が翌朝はピタリと止まり、日々衰弱をとりもどし元気に相成り、全くお陰様と感謝申上げて居ります。
     この上は毎日続け、不整脉も治したきものと大望を抱き居ります。(32年8月6日附通信)



10.便秘に青汁

    松永市 T.I. 

     長い間困っていた便秘が、青汁を毎日のみ始めてから二ヶ月ばかりで治り、便通がよくなりました。それ以来食欲も旺盛となり、身体の調子がよくなりました。



11.十二支腸炎

    岡山市 M.I. 

     昭和三十一年の十一月初めに、身体の調子が思わしくないので、大学病院で診察して頂きました処、十二支腸炎と診断され、アルミゲル系の薬を飲まされましたが、二ヶ月経過しても良くならないので、手術も覚悟していました。
     その時ふと青汁のことを思い出して、やって見る気になり、毎日三百匁程度のケールを自分でしぼって試して見ることにしました。
     四日目位から十二指腸の痛みがとれ、一ヶ月位で何等自覚症状を感じなくなりそのまま今日まで痛みを感じないし、身体の調子もよいので、何時全快したのか自分でも判らないが、全治していることは事実であります。
     それ以来、旅行の時だけは止むを得ないが、自分の家に居る時は、かがさず一日二回は飲んでいる。青汁のお陰で持病が治っただけでなく、健康と血色が以前より良くなったことは確かです。これは広く世間の人にお教えしたいと思って、私は誰にでも出来る絶対必要な療法だから、大いに宣伝して一般の弱い人たちに進めています。
     一年位続けて飲むと、体質そのものが、病弱の時よりも一変して来るように思えます。青汁は自分で製造して飲むことが最も安心してやれることで、瓶に詰めて売って居るものはお進め出来ないと思う。(33、5、15通信)

     御説の通り、青汁は家庭菜園で出来た良質な新鮮緑葉をつかって、各家庭で、しほり立てを飲むのが理想であります。



12.ご飯がへった

    青森市 K.Y. 

     原っぱのタンポポ、クローバ、ヨモギ等、毎朝、食事前に、必ず青汁を飲んでいますが、主人は前はとてもご飯の量が多くて普通の人の倍は食べておりましたのに、青汁をはじめてから、ぐんと少量で、つかれも少くなったと喜んでいます。子供もよく飲みます。(33、6、11通信)



13.質問箱

    井原市 I.T. 

     今春某研究所より送ってまいりましたパンフレットに、「青汁野菜は清浄野菜に越すことはないが、然し八百屋の野菜でも、脂溶性のビタミンAは油によってよく吸収され、又合理化し、生野菜の殺菌力と相俟って蛔虫卵は孵化し得ないのみならず一ヶ月半位で蛔虫や十二指腸は完全に駆除される」、と申してこざいましたが、いかが考えでしょうか。


     青汁を飲めば寄生虫はわきにくくはなりますが絶対的のものではありません。現に不潔な材料をつかって蛔虫や十二指腸虫がわき、困った方も少くありません。うっかり信用されぬ方が安全です。
     それに清浄栽培は、家庭菜園のある方はそれを活用し、ない方は信用出来る農家に委託されれば、決してむつかしいことはないのですからぜひ実行されますようおすすめします。



     玄米粉    真金町 J.O.

     玄米粉(麦粉も)はどの位の日数もちますか。昨年二升ばかりこしらえて、今朝味噌と昆布粉を入れて、小さな茶碗二杯ほどいただきましたが、断食のあとで、とても美味でした。玄米を煎り粉にしたものは如何ですか。


     季節によります。夏分ですと一ヶ月もちかねます。
     煎粉にしたものは熱でビタミンかいく分こわれると思いますが、成分表をみても出ていません。








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