<1958年1月15日発行 第17号>
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目次
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1. 療病講座 虫垂炎
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医学博士 遠藤 仁郎
俗にいう「盲腸」「盲腸炎」正しくは「虫様突起炎。」最近では簡単に「虫垂炎」とよばれています。大腸のはじまりの盲腸のそばに、虫のような突起物がぶら下っていますが、これを虫様突起とか、虫垂とかいいます。
この虫垂という所は、その構造が口の中の扁桃腺と大変よく似ています。そして、扁桃腺がよく炎症をおこして痛んだり膿んだりするように、虫垂もよく炎症をおこし(虫垂炎)、そこに膿をもつのが恐ろしい急性化膿性虫垂炎です。ひどくなると腹膜炎をおこし、うっかりすると破れて腹中にひろがり、手遅れになると生命にもかかわる大事になるものです。
この虫垂の化膿は、ほかの何処の化膿の場合も同じですが、化膿菌に対する抵抗力が弱ったものに来やすい。よく果物の種子や、ご飯の中の砂などがはいっておこるようにいわれていますが、決してそういうことはありません。(だから、たとえ誤って呑み込んでも、少しもあわてるには及びません。わざわざ食べる必要もありませんが)
ところで、この化膿菌に対する抵抗力の弱るのは、多くの場合、穀類や肉類、砂糖や菓子などの濃厚食に偏った食べすぎ、つまり誤った過剰栄養の結果です。また戦時中から戦後の食糧の乏しかった当時にはずっと減っていたのが、食べ物が豊富になって来るのと共に、またふえて来たこと、美食する習慣の欧米人には大体に多いのですが、戦時中、ことに捕虜生活の間には、殆んどなかったといわれていることなども、同じく食物との関連のふかいことをしめすものといってよいでしょう。
食糧が乏しいと、穀物も肉類も減り、砂糖も菓子もなくなり、搗きの悪い米を食い、麦や雑穀も食べます。そして野菜の量はいきおい多くなり、野草さえも利用するようになるから、栄養素のバランスは却ってよくなっています。
しかし、食糧が豊富になると、どうしてもおいしいものを食べ、白米飯に肉や魚や卵が多くなり砂糖も菓子も氾濫して来ます。そして野菜のとり方は、それに逆比例して減ってゆき、とくに緑菜類が少くなる。
そこで、熱量や蛋白質ばかりがむやみに多くなり、それらが体内で処理されるために無くてはならぬ栄養素、ビタミンやミネラル類は逆に甚しく、不足することとなる。そして代謝は不完全になり、中間の有害な産物がいろいろ出来て、全身の細胞の機能をおかしその結果として一般抵抗力をよわらせます。
こうして化膿菌に対する抵抗力のよわいからだが出来上るわけです。若いものに多いのも、貧困者よりも富裕者に、田舎の人より都会のものに、簡易生活者よりも文化生活者に多いのも、同じです。
虫垂はもともといらぬものだ。だから切ってしまえばよいともいわれていますが、手術はうまくいっても、後で何かと故障の残ることもあり、ほかの病気のもととなることも無いとはいえぬものですし、だいいち痛い目にあう必要は別に無いのですから、なろうことならこんな病気にはかかりたくないものです。
何といってもまず予防です。虫垂炎になりたくなければ粗食すべし。飯や肉類の食いすぎをやめて野菜をしっかり食い、砂糖や菓子をへらして、欲しければ果物にし、せめて青汁だけでもうんと飲む。そうしておけば、恐らく虫垂炎などになるおそれはありません。
またたとえやっても大したことにはならずにすむでしょう。また青汁を飲むだけで治ってしまうこともあるようです。昔から民間療法で、「盲腸にはハコベの塩もみ汁」といわれていますが、別にハコベでなければならぬのではありません。何の青汁でもよろしい。ともかくしっかり飲むとよろしい。
三面古武氏の報告されているのもその例です。しかし、ともすると、とんでもない大事になりかねぬし、一応治っても平素の食養生が悪いと、何度でも繰りかえす病気ですから、油断は禁物、なるべく早目に切ってもらっておいた方が安全というものです。
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2. 青汁を讃ふ
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東京都 M.O.
遠藤君主唱する青汁療法は正に古医聖扁鵲の医学である。「夫れ陽、陰中に入るを以て胃を動かし、中経維絡に転縁し、別れて三焦膀胱に下る」と。天下尽く扁鵲を以て能く死人を生かすと為す。扁鵲曰く「われは死人を生かすにあらず、正に生くべきものを起たしむるのみ」。
この言の如く青汁を処方すれば当然生くべきものは生きる。これを大方の医師は知らず、毒ある薬をのみ処方して病を一日延しに延す。ああ世は末なる哉。
(大正6年京大医学部出身、心霊医学会常任幹事)
- 青汁は神よりたまふ妙薬と 知るや知らずや人は用ゐず。
- 医はまさに利をこのみては毒のある 薬あたへて病をのばす。
- 青汁を血脈にあたふ腸胃をば ととのふ時に病無してふ。
- 薬とは草かんむりに楽しと書く 草の汁のみたのしき薬。
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3. 会の在り方
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大阪市 M.Y.
青汁の会の在り方は、あくまで金のいらない誰でも気楽に実行出来る青汁普及の会であって欲しいと思います。病気を治してあげます。お賽銭を持って来なさい。器具を買いなさい。この何々を付け加えたら尚一層よくききます等々。次々引張り込まれて高いものにつき効果もうたがわしいのが多いようですが、私は誰にでも遠慮なくすすめられ、やってもらえる所に惚れ込んでいるのです。すぐ利用しようとする慾張りが多いのですからね。
(遠藤記)
全く同感です。それが私どもの会のほんとうの姿ですし、いつまでもそうありたいと念じています。もともと緑葉食青汁の目的は栄養の完全化と「生」の力の応用にあるのですから、私どものすすめているような良質の青汁であればほかに何もそえる必要はありません。
何かを添えた方がよいとか、加えねばならぬとかいうのは、結局は儲けるためです。青汁と一緒につかえば、添加物の効能であるかのような錯覚をおこさせて都合がよろしい。青汁だけをすすめていては儲かりませんからナ。
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4. ケールの結ぶ縁
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武蔵野市 K.H.
だまされる事のみあまりに多く、生きる事にさえことかく様になり、心配のはて病床にふして一年あまり人はもとより何ものも信じられなくさえなっていた私が、奇蹟的に生命力を得て今日やっと九死に一生を得、生きるよろこびに張り切って立ち上ろうとしています時、私は更に、本当にたのしい人の心の美しさにふれ、大変うれしく勇気づけられました。
ケールをまいて青汁がやがて作られ、朝毎に私がいただき、また友にこの話をするたびに、この美しい私の心のよろこびも、人から人につたわって行く事でしょう。私はこう考えると、ケールそのものをいただいたよろこびにもまして、この心のおくりものがよりうれしく感じられます。
私は前のお手紙に、種子が出来たら送ってやろう、と云って書いて下さいましたけれど、あまりあてにはしていませんでしたのに、時来り、ちゃんと覚えていて送っていただき、自分の不信の心を恥しく存じました。
それと共にまた、世の中にはこうした美しい世界がやっぱりあるのだというあかしを得た事が、本当にうれしうございました。あり難い御本仏の御慈悲にふれて今日のこの生命力をいただき、また先生の正しい御心にふれて、私は一層世に生きながらえる張合いをおぼえます。
これからの生命は私の生命であると云うよりも、苦しみ、おしひしがれて、かっての私の様に、五尺の身をもて余す様な方のために、何か力になりたい。またならずには申しわけないと存じています。
現在の私は貧しく弱く、人様の御厄介ばかりかけていますけれども、御本尊様の御力は本当に絶対です。私はここまで、誰もが驚く程によくして下さいましたのですから、その上に先生の御親切にふれて青汁を科学的に取って行けば、先の見とおしは軽く、あかるい気持がいたします。
もうペシャンコには絶対ならないですむと存じます。変毒為薬という言葉がございますが、私が本当ににくいにくいと思いつめて来ました卑劣な悪い人々も、今となっては、私に取って有難い恩人となりました。全く、私がかっての様に、いつまでも幸福で、同じ調子の生活をつづけていましたら、こんな深遠な大仏法の御精神にふれる事はとうてい出来なかったと存じます。
また病気と貧乏に苦しまなかったら、御本尊様の偉大な生命力がどんなであるかという事も、私の身を通して実証することは出来なかったでしょうし、また先生の温い御心にふれる事も出来なかったでございましょう。世に三法(仏法、国法、世法)あれど仏法ほど厳粛な法則はない、といわれましたが、つくづくそうだと存じます。生活の根本を仏法により生きる時、すべての現象は生かされ、毒すらも妙薬となるとは、本当にそうだとわかりました。貧乏にも病気にもおそれなくなり、また何としても生きぬく自信もわいてまいりました。先生本当にありがとうございました。
(32、7、8附通信より)
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5. 青汁のおいたち(2)
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前回参照 |
医学博士 遠藤 仁郎
敗戦後の食糧事情はますます深刻となった。これが解決策は緑葉の活用にあると、応召中(昭20、7)書きつづっていた「現下の食糧問題について」という論文を、病院でガリ版にし、政府や県当局をはじめ、各方面に配布したのも昭和21年のことであった。
その頃、県医師会でやっていた専門医会に、私も講師として招かれたので、その第1回(昭21、10)には「緑葉療法について」、第2回(昭23、2)には「結核と緑葉食」について述べた。また内科学会では、当時の状況から、各地区で地方会をやることになり、中四国の第1回が21年12月に岡山で開催された。ここで私は「緑葉療法について」発表し、翌年秋の第2回には緑葉療法の効果について」、さらに24年秋の第4回には、特別講演として「食べ方の問題について」述べ、緑葉食や青汁の必要性重要性を強調した。
昭和23年ある雑誌社の懸賞論文に、21年秋の専門医会の公園をもとにした「緑葉療法」なる一文を提出したが、無論問題にはされなかった。そのほか専門雑誌には随時投稿したが、中には突き戻されたものもあり、表紙の見出しだけには出たが内容は載せられぬといった目にあうこともあった。
こうして機会ある毎に発表はして来たが、遺憾ながら医学界からはもとよりのこと、医療界からも殆ど注目されず、精々、「緑葉素か」と軽くあしらわれるのが落ちで、むしろ、異端者もしくは物好きな気狂い扱いされて、受けたのは侮辱と嘲笑くらいのものであった。
病院給食
病院で早く青汁を実行した結核患者のうちには、そのため非常に経過がよく、すでに退院しているものもあり、その他にも著しい効果の認められたのがあったので、病院での青汁に対する一般の空気は、着任当時にくらべると余程変っていた。それでも実際にやるのは極く僅かなものにしかすぎなかった。おまけに意見のちがう人もあることとて、積極的に協力はせずとも、黙って見ていてくれるのはまだしもで、中には、折角その気になりかけている病人を思いとどまらせてしまう、というようなこともあった。
私はまた私で、もともと薬は嫌い。注射はことに嫌い。終戦後の薬の不自由な時ではあり、無駄にのましたり、打ったりするのは勿体ない。食べ物を改めればそれでよい。田舎のことだから、いくらでもある野菜をしっかり食いさえすればよいのだと、来る患者にも、来る患者にも、ナッパだ、青汁だ、である。
わかい者が胃が悪いといって来る。「かみ方が足らんからだ。口の中でオモユになるまでかめ」とばかりで、わざわざ遠い所から来ているのに、薬もやらずに追いかえす。脚気といって来る。「食糧に恵まれている田舎のお互が脚気になるとは何たることだ」、と叱りとばす。カルシウムでも打って御馳走を食え、といわれている結核に対しても、「薬はいらぬ、注射もいらぬ、青汁をのめ。肉や卵よりはナッパを食え」、というあんばい式だから嫌われたのも尤もだろうし、うけのよかろう筈はない。
「うちの娘は牛や山羊ではないぞ」と憤慨して退院させた親もあったそうだし、「入院はしたいが青汁をのまされるから」、と敬遠されている、というまことに香ばしくない評判もたつ有様で、病院内外で相当ひどい噂がまかれていたものらしい。その上炊事からは「いかにナッパをふやせといわれても、患者が食って呉れぬのだから」、との苦情も出る。
これじゃ到底ダメだ。ともかく知らせねば、わかってもらわねば、どうにもなりっこない。何はともあれまず啓蒙だ。啓蒙運動が先決だというので、外来診療後に「栄養相談時間」を設けて指導に乗り出してもみたが、たいがいは開店休業。また病室では座談会をやってみた。これもいたって低調で、やがて自然中止になってしまった。
それではと、こんどは「療病の根本原則」(後「療病の根本」と改めた)という刷物をつくって、外来入院すべての病人に配ることにした。これだと、意見のちがう医員諸君も、やむを得ずその通り説明せねばならぬ。「たびたびやっているうちに、それでなければならぬような気がしだした」とあとで述懐したのがあったが、実際これが正直なところであろう。
また、何かデータをつかんだらと、一番よく効くと思われる高血圧患者を対象に、事務所に気兼しながら数百通の往復はがきを出したが、碌々返事も来ず、結局無駄骨に終ってしまったこともあった。そんなこんなで、当時の私は少からず焦ら立っていたから、やり方も少々手荒かった。いうことをきかぬといって退院させたり、言い分が気に食わぬと追い出したりしたこともあった。
戦後のどさくさ最中とはいえ、外来も入院もいたって少い。インフレ物価はどんどん上る。病院の経営は苦しい。その対策の委員会(病院幹部の協議会)は度々開かれる。そして、「病院の給与が悪いからではあるまいか、もっと御馳走にしたら?」という意見も出る時に、相も変らず、こっちはナッパナッパと、いっているのだし、患者の扱い方はこの調子なんだから、病院にしてみれば全く迷惑千万なことであったに相違ない。
こうした状況の下にありながら、それでも、青汁の信者は少しずつふえていた。論よりは証拠、事実のまえには議論なし、とでもいうか、四面楚歌にひとしい窮状にありながらも、青汁の根はいつしか深く広く張っていたのであった。一方、その後ひき続き26年頃まで、連続投稿していた人間医学への拙文が、間接にこれに大きな力になったことも争えぬ事実である。
その読者層に多い病人や療術家にとっては、青汁のニュースはまさに一大福音であったし、宗教家の間にも大きい反響をよびおこした。有名な家庭看護書である築田氏の赤本には、いち早く私の主唱する青汁として紹介され、その卓効が特記されたし、恐らくすべての食養家は、それまでの「生食」を「青汁」に切り換えられたといってもよいのではないかと思うが、これら民療家や宗教家の青汁礼賛の声はいろいろの形で病院の患者に影響し、その青汁熱に拍車をかけた。
こうして入院患者、ことに結核患者の青汁への関心はしだいに高まっていった。しかし、何分にも材料は院庭あるいは附近の野草や木葉などで、散歩がてらに採集してきて、病棟の炊事場で、自らミンチ(肉挽器)でくって飲み、余分があれば療友にも分つ、といった程度であったから、もとより年間を通じて実行することは出来なかったし、量にもおのずから限度があった。
やがて実行者が多くなって来たので、製汁だけは看護婦が引うけることになった。昭和26年秋の栄養週間には、病院の食養部が主催し、保健所や岡山の栄養科学園(今の栄養短大の前身)の後援を待て、病人食展示会を催おし、緑養食の必要なこと、青汁の重要なことを強調したので、患者の青汁熱は一層もり上って来た。
そして看護婦もついに手をあげ、炊事でやってくれということになった。その頃たまたま出たのがハウザーのベストセラー書の邦訳。何時でも西洋人のいうことでなければすなおに受け入れない国柄。ハウザーのいっていることが、私の説く所と全く同じとわかって緑葉食青汁の意義ははじめて認識され、見直され、ようやくにして所謂脚光を浴びて来た。
そして清浄野菜栽培の気運もいよいよ熱し、27年夏からは、ついに青汁の病院給食が実現した。その秋から食養部では、栄養旬報を出して啓蒙につとめ、恒例の栄養週間には「完全食展示会」を開催、緑養食青汁によって、いかにたやすく理想的完全食が得られるかを、実物をもって展示した。
また食養部に栄養相談所も出来たので指導用のテキストとして「食養のしおり」という小冊子をつくった。(昭和28、2)が、予想外の好評で、三千部またたくうちに出切ってしまった。
ここでついでにちょっと私の著書に触れておきたい。
これ以外に私の書いたものには次の二つがあるだけで他にはない。その1は「緑葉食青汁の話」(昭29)。これは、それまでに折にふれ書きつづっていた短編をまとめたもの。昭和26年から出版を計画し、なろうことなら東京からと、故橋本先生はじめ多くの方々の並々ならぬ御奔走御尽力を辱うしたがついにならず、岡山から自費出版した。
次は30年に出した「青汁読本(国民栄養の話)」で、緑養食青汁による完全栄養について述べたもの。なお巷間私との共著その他数書が出ているようであるが、甚しきにいたっては一言の挨拶もなく私の稿の内容を主格を変えた文章にして編集したまことに不道義きわまるものもあり、中には少からず迷惑しているものもある。それが曲りなりにも世のため人のために、少しでも役立つならば、田舎の木っ端医者の私のうける汚名など物の数ではないと目を閉じ、耳を塞いでいるだけのことである。
清浄栽培
一人や二人が飲むのでは野草や木葉でも結構間にあう。けれども多量の青汁の供給には、どうしても野菜にたよるほかはない。また必ず清浄栽培品でなければならぬ。私はかねてから家の庭を掘りおこして菜園とし、清浄野菜の周年栽培を試み、栽培品種や播種の時期などについては、かなりの研究と経験を重ねていた。
また病院には構内に空地が多いし、菜園になっている所もあったので、その一部を借りうけて開墾し、清浄栽培をはじめたが、何分にも僅な地面なので、とても病人用をまかなうには及びもつかぬ。なんとかもっと拡張して出来れば青汁材料の自給と青汁用野草類の展示用を兼ねた菜園にしたいと念じていたが、まもなく病院の美観上、構内の耕作はまかりならぬことになったので、この企ては流産に終った。
次に、どこかに耕地を周旋して欲しいと申し出てもみたが、これも実現せず、いたし方なく成行にまかしていた。そうこうするうちに、患者側からの要望はしだいに強くなる。青物店の店頭には、得体の知れぬ「青汁用野菜」が姿を現わす、という状況になり、私はただひとり当惑し焦慮するばかりであった。
やがてハウザーの書の出現とともに状況は急転。いよいよ病院で青汁給食をとりあげようということになり、炊事主任の桑内氏、市の青果組合の都志氏等の胆煎りで、市内小溝の大橋氏を紹介されたのが昭和27年の春3月。大橋氏は多年蔬菜栽培に専念されている篤農家。その耕地はもとの高梁川堤防跡で、周辺部より高く、冠水のおそれのない上、地下水は豊富。しかも20数年来下肥は施用されてないという好適地。栽培品種にはキャベツ、コマツナ、ミズナ、カギバダイコン、ナタネを指定し季節によっては若干の他品種の混用もやむを得ぬことにした。こうしてその年の夏の初から、待望の清浄野菜は出まわりはじめた。
ところがこんどは、病院の消費と生産とのバランスが仲々うまく行かぬ。そのため、或いは時期をすごしてトウが立つなどのため、多量の野菜が無駄になったり(何しろ一般市場向でないものばかりなので余ったものは飼料にするか切り捨てて肥料にするほかない)、反対に品不足で困ってしまったり、指示が不徹底であったためカキバダイコンというのを普通のダイコンと間違え、辛くて使用出来ず、これまた大量にダメになる。夏向にミズナを蒔いて失敗するなど、何分にも従来の栽培法とは全然勝手のちがう周年栽培のこと。さすがのベテラン大橋氏もさんざんの苦労。ついに悲鳴をあげ、いくたびかやめたいと申出られ、慰留これつとめるという始末。
そのうち、おいおい病院の需要も増して来る。栽培のコツも会得でき、生産との調節もうまくなる。さらに28年には米国産ケールの種子を入手。これを主体に栽培するようになって、ようやく材料供給の面は安定して来た。そして、それとともに病院給食は本格化し、ついで学校給食や、一般市民への供給も具体化する途がひらけた。
ケール
田中長三郎氏訳のボーズウエル及びウエスター共著の「都市の蔬菜栽培」という書で、アメリカに「ケール」というビタミンやミネラルに富んだ野菜のあることを知ったのは昭和24年ごろのこと。その頃私は時折郷里に帰っていたが、その途である冬の日、とある農家の庭先に、どうやらそれらしい、キャベツによく似た、たくましい大きな緑葉をつけた野菜を見かけた。「これゃあ、ええ菜ですなあ」と話しかけたところ、「いやあキャベツの出来そこないですらあ、鶏にでもやらにゃあ、食えりゃしません」とのこと。そのうち「種がとれたら」と頼もうと思っているうち、いつか姿を消してしまっていた。
その後「甘藍」という書物で、中には2、3年ももつのがあると出ているのをみて、これこそ青汁材料にはうってつけだと思い、方々の種苗会社に照会したがわからぬ、知らぬという返事ばかり。「まかぬキャベツだ」と注釈して出すと、「うちの店には巻かぬキャベツは売ってない」といった調子でさっぱり埒はあかぬ。「アメリカに誰れか知り合でもないかなあ」とある時ふと洩らしたところ、病院の栄養士の糸島君が、「炊事夫のうちに、アメリカで農場を経営している親戚のあるものがいる」とのことで、早速たのんで呉れ、29年の4月21日、待ちに待った「ケール」の種子が私の手許に届いた。
何でも、播種時期も来ていることなので、わざわざロスアンジェルスまで車をとばして買入れ、航空便で送っていただけたのだそうである。ここに、遥かにその御厚志に対し心からの感謝をささげたい。種子は木立種、倭性種、チヂミ種の3種類であったが、試作の結果私どもは木立種を最適として採用。その秋あらためて注文した(これにはたまたま留学した姪も協力してくれた)。次で翌30年には大橋氏が大阪の種問屋からポルトガル種を入手。
この両種が今私どもの青汁の主要材料となっている。
搾り器
青汁の普及上、今一つ解決せねばならぬものに搾り器がある。最もよい汁がとれるのはスリバチであるが、いかにも原始的であり手数もかかる。手際よくやればさほどでもないけれども、それでもどうも面倒くさい。果物汁などでは、ただ圧搾するだけでもよいのだが青汁ではそう簡単にはゆかぬ。
万力応用の圧搾器を著書の中で推賞していた人があったが、あれを書いた人はおそらく実際にはやったことがないのだと思う。話は前後するが、私ども病院給食用の搾汁器として色々試したうちに油搾りの圧搾器もあるが、これではいかに強い圧力を加えても僅に青色のついた汁が少し出ただけであった。
かたい繊維の中の成分をとり出すのだから、どうしてもまずどろどろに磨り潰し、あとで搾らねばほんとうの青汁はとれない。何かよい道具もがなと、色々工夫もこらしてみていた。あるとき、「一つ作って差上げよう」と、わざわざ拙宅まで来られた親切な方もあったが、型をつくるだけにも数万円かかると聞いて、おったまげ、それではとてもとお辞り申上げたこともあった。
そのうち市内の金物店で従来からあるアルプス印のミンチ(肉挽器)をすすめてくれだした。入院患者がやっていたのもそれである。値段は安いし調子はよい。汁もよいのがとれる。少人数用には充分これで足りる。その後ミキサーが流行して来たが、これは値段が高いのに故障が多い。成分の変化も気にかかる。
次いでジューサーだの、ジュースマシンだのと発売されているが、それぞれ一長一短がある。もともと「安上り」ということを第一の条件にしている私どもは、安くて長もちするので、やはりミンチを推賞している。
病院の給食用にも、まず手働式の大型アルプスを備えつけた。50人分(一人1合つまり五升)くらいまでは係の小母さんの手で楽にやれた。しかし何としても時間がかかるので、希望者がふえるととてもこれではやりきれない。早く機械化しなければと、試験したのが砂糖黍搾り器(昭27、7)。かなりよい汁がとれるが繊維がつまって熱をもつので具合が悪い。
岡山にあるらしいと聞いて出かけてみたが、結局同じもの。
次に試したのが上述の油搾り。これは全然話にならぬ。カタログも種々とりよせたが、動力つきスリバチかカマボコ用のミンチ位しかない。状況は切迫。ぐずぐずしていられなくなったので、ともかく流行の大型ミキサーときめた。しかしこいつで厄介なのは材料を細く切らねばならぬこと(でカッターも購入した)。
また水を入れるから薄くなる。一度に入れる量が限られているから度々出し入れせねばならぬのも面倒。破壊する成分もあるらしい。しかもそう充分には砕けない。そして、も一つ痛いのは故障が多く、その度に莫大な修繕費がかかること。
アメリカでは、スタンフォード大学で、胃潰瘍に青汁を飲ましているが、その文献にも、どうもうまい道具はないらしい。とつおいつしているうちに青汁普及会が生れ(昭29)、方々に支部が出来た。それぞれ搾り器には人知れぬ苦労を重ねていたが、玉島支部の田辺君は、親戚のカマボコ屋から廃物になっていたミンチをもらいうけ、農発をとりつけ、手廻し程度に回転を落して好成績をあげたので、やっとこれも解決した。
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6. 虫垂炎に偉効 はこべの青汁
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邑 久 T.K.
もう三四年にもなろうか義伯母が虫垂炎らしいので見舞に行ったら、血球計算をしていないが、軽い虫垂炎は間違なし、主治医もそう診断しているのである。それでは是非ハコベ(ヒズル)を採って青汁を飲む様説明して帰った。
ハコベの少い頃だったが、探して盃へ一二杯飲んだらしく、其の後会う度に、良く効く、良い事を教えて貰ったと喜こばれるが、確かに金の要らない有難い療法であると思う。
つい先日、近くであるがゆっくり話す機会のない人に、岡山から帰途バスで同席した。すると、ハコベの青汁を教えて貰ったのが良く効いたと話し出すのである。
4、5年も前か、話した事さえ忘れていたが次の様な話が出た。妻が盲腸炎らしく腹痛を訴えるのでハコベの青汁を早速飲ましたが、それでも医者を頼みに行ったら承知はしてくれた。
ところが田舎の事とて廻りついでに来たのか、忘れていたのか、朝の依頼が晩になっていたというのである。もうその頃は大分軽快していて、手術せんでよいでしょうと帰って行ったが、とうとう癒ったというのである。
この人が仕事に牛窓の近くの鹿忍へ行った折、この話をしたらしいのである。
後に茲へ行った折、婆さんが良い事を聞いた。助かった。と3人も良くなったと言うのだそうである。一人は琴平参りの帰途、船中で痛くなり出し、辛棒して帰るとすぐ町立病院へ自動車で行ったら、医師が不在で明日でないと手術が出来ないというのである。出来ぬなら家に帰ると自宅でねたのであるが、行く前か、帰ってからか忘れたが、ハコベの青汁を飲まされたのであった。後は説明の要もないのであるが、癒って手術せんで終ったのである。
聞いて実行した中の一人に、煎じ汁で効いたというのがいるのであるが、ハコベには熱にも安定な因子が含まれているのであろうかと、疑問に思うのである。もしもズルファミン系の物が含まれていて、他の化膿疾患にも効くのであり、化膿治療目的のみには青汁にこした事はないが、煎汁でもよいのであろうか。ハコベの薬理学的文献はないのであろうかお聴きしたいのである。
中には(特に医師等)単なる腹痛であって、癒る性質のものであったのだと言う者もいるかも知れないが、他の化膿疾患にも慥に良く効くのである。喀血、吐血、痔出血等出血にはよく効くが、煎汁では駄目で、ハコベでなくとも青汁なら大抵のものが効く。
標題と関係はないのであるが、青汁が出血に効く理由をご参考に述べて置く事とする。吾々の細胞と細胞を強靭に結合し、組織を丈夫にするコラーゲンという物がビタミンCを原料とする為であり、また血小板、フィブリノーゲンの凝固力に寄与するカルシウムが緑葉に多いことも与っている。他にビタミンKやPの作用もあろうし、色々な因子が関与しているのであるが出血に役立つ事実だけは間違なく、実例は余りにも多く一々述べる事が出来ない程である。
附記 ハコベの塩もみ汁を飲む事は民間療法としてよく知られています。外にも著効のあった話を聞いた事があります。むつかしい薬理学的の説明はまだ知りませんが、特にハコベでなくてもよい様ですから、その作用はやはり緑葉に共通のものでしょう。(遠藤)
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7. 青汁の真價
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佐賀県 K.S.
「健康と青汁」を拝見する都度、着々として発展してゆく青汁、即ち先生のお蔭によりどれ丈多くの人々が救われて行って居るかと思いますと、真に嬉しい限りであります。青汁の真価は不動のものであり、如何なる重宝な薬が出現するとも、健康の根本をつくという点に於て青汁に勝る事は出来ますまい。当地におきましてもなかなか容易に人々は認識してはくれませんが、将来は必ず多くの人達に認められ、現代の食物が加工されたものへものへと発展すればするほど、必要不可欠のものとなると信じて疑いません。
(31、8、6、通信より)
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8. 明るい療養
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大分市 T.Y.
回を重ね日を経るに従い、ますます体の調子もよく、明るい気持で療養できますことを只々青汁のお蔭と日夜感謝の外ありません。生涯私の健康の泉として何はさておいてもつづけて行く所存です。
私は結核療養中ですが、2年以上化学療法(パス、ストマイ、ヒドラジツト)をつづけていますが、相変らず多量の喀痰と体力のおとろえに、医師も首をかしげ、日夜息苦しさと動悸に弱り果てておりました。
特に昨年1年はひどく、階段の上り降りは勿論のこと、咳をしても寝返りをしても、烈しい動悸と息苦しさに悩まされ、胸はしめつけられる様な苦しさに、毎日慄獄の苦しみでした。
治るきざしさえ見えぬ日々の苦しい療養に文字通り精魂もつきはてていましたが、青汁を知り、青汁を始めてからは、半月位で前記の症状はなくなり、2ヶ月余りになります。
昨今では体力もつき、体が軽々としてまいりました。胸もカラリとした感じ、文字通りドライな感じがしてまいりました。そしてあれほど多く、そしてあれ程長く化学療法をしても減らなかった喀痰が最近では幾分少くなってまいりました。
長い療養生活にはじめて光明を見出し得たことは只々感謝のいたし様もございません。本年こそは明るい希望をもてる年となりそうです。
(32、1、3、通信より)
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9. 心配性の婦人
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萩 F.K.
昨年秋友達から借りた婦人雑誌に青汁のことが発表されておりましたのを、天の助けの様にうれしく拝読いたし、その日から実行さしていただきました。
お蔭さまでどうやら再び起きられる様になりました。私事は今年55才になる平素からとても気の小さい女でございます。実は一二年前から心配事がございましたので日夜クヨクヨして食欲がなく、とても痩せて元気がなくなっております折手術をうけましたため、衰弱がひどく、いくらたっても起きられず、心配ないとは思いながらも起きることが出来ないので、またクヨクヨして、とうとう食欲が一つもなくなり、ますます弱ってしまい、もう再び立つことは出来ないだろうと絶望の底にしずんで苦しんでいましたところへ、あのありがたいおみちびき頂きほんとうにお礼の申上ようもございません。
12月2日から2合くらいづつはじめました所、年末頃からすこしづつ起きてすわっていられる様になり只今では近所を少し位あるけるようになりました。少しづつ心に自信がつきましたので、この分ならキットよくなるだろうと思うようになりました。
(32、3、9、通信より)
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10. 神経痛と歯槽膿漏
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鏡野町 H.W.
私は長いこと青汁宗に帰依し精進して居るものですが、それでもまだ精進不足の為か、それとも長い間の間違った生活の結果が一朝一夕にとり去れなかった為か、一昨年の初秋頃から、可なり劇しい神経痛に見舞われまして、其年の秋の農繁期には殆ど全く農事の手伝が出来なかったのです。
所が昨年の秋は神経痛が治り、穂木の如きもみんな私が結びましたし、其他一般の農事の手伝も出来る様になりました。この神経痛の全快は確に青汁の愛用と日常の食事を完全食にする様につとめたお蔭だと信じて居ます。ただに神経痛が癒っただけに止まらず歯の悪くなって居るために起っていた歯根炎と、歯槽膿漏ともなおりました。其他便通も整いますし、身体全体として余程健康を増進した様に思われます。
私の様な老人でも左様ですから、若い人には更に偉大な効果が現われることと存じます。要は確信を以て根気よく大いに精進することです。序に私の精神状態のことを少し附記させて頂きます。私は神と仏とかの奇蹟的お蔭を信ずることのの出来ない人間です。それで次の様な信条を作り、それを理想として行動することに致して居ります。
- 死児の齢を数えぬこと
- 取越苦労をせぬこと。(但し打つ手があれば打つことは勿論です。)
- 現在に生き、現在にベストを尽すこと。(ベストを尽した以上は、不完全な人間のすることですから、不満があってもそれは万能の摂理に委すること。)
- 心機一転の一方便として俳句を勉強して居ります。
近詠数句
新前の結いし稲架はやてに生残り
孫の眼を借りて辞書引く歳の暮
凍て道や幸い轍なかりけり
マイナスもプラスもありて歳暮るる
朝飯の冷むるも惜しし冬朝寝
正月餅搗き試みぬ余力如何にと
数々の仕事残して歳は逝く
喜寿近しなお健在と賀状書き
賀状書き去歳来し賀状読直し
お雑煮に引き起されて三ヶ日
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11. 蛋白が減った
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12. 雑草のめぐみ
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東京都 S.S.
私は一昨年2月突如として、高血圧性脳血栓という嫌な病気に襲われた。半身不随で手も足も動かず、口も碌々に利けないし、箸も手に取れない始末で、徒らに運命を悪魔の翻弄に任せて、病床に呻吟する身となること半歳。
人間もこうなると誠につまらないもので、平素は頑健そのもので健康については自信タップリの私も、一旦こんな厄介な病気に取り付かれたら最後、数学を考えたり、原稿を書くなど思いも寄らぬことで、病勢は悪化の一路を辿り、所詮再起は不能と諦めるの外はなくなった。
されども友人や知己の勧めにより、いろいろな医者や薬は言うに及ばず、鍼、灸、あんま、マッサ−ジ、指圧、さては電気療法、カイロプラクチック、テルミーなど、凡そこの病気にききめのあるということなら残るくまなく片ッパシから試みたが、どうもハッキリしない。焦れば焦る程病勢は悪化する一方。
兎やせん角やせんと案じているうちに、偶然岡山県倉敷市の中央病院の内科医長遠藤博士が上京されて、この先生から脳溢血の治療には精神の安静が第一で、次には食物による体質の改造以外には、手の施しようがないものだと言われ、更に食物については人体の栄養上最も必要な各種のビタミンやミネラルなどを豊富に含んだ野草のシボリ汁から採ったグリンジュースが最も有効だとの事を聞いたのであるが、初のうちは何だか野草の汁を飲んで中風が癒るなんて馬鹿気た話のように思えて飲む気は起らなかった。
けれども博士の著書や臨床実験の報告を始め、倉敷市に於けるグリンジュースの普及状況及び倉敷西小学校の貝原教諭らが中心になって虚弱児童に青汁を飲ませ、次に全校児童に給食の一環としてこれを用いた為に全校児童の体位が著しく向上し、体位向上全国コンクールで日本一になって文部大臣から表彰されたなどの事情を具さに知ることを得て、従来吾々の注意の圏外に葬り去られていた野草の中に、人体の生命を支えるに最も重要な各種のビタミンをはじめ、現代の科学で究明の出来ない驚くべき色々の有効成分が含有されていることを教えられ、俄かに救い主の手に抱かれたような心地がしたので、早速この青汁を作って朝夕服用したところ、不思議に気力が回復し、服用3週間にして早くも血圧は130位(発病当時は180‐190)に下り、耳鳴りもピタリと止り、読書も談話も左程苦痛を覚えぬようになり、今更ながらその効果のてき面なことに驚き、爾来これを続けて今日に及び、今では健康な当時と殆んど同じように原稿も書き、旅行にも出掛けることも出来るようになった。
翻って思うに、吾々の生命を保つ上に最も大切な水や空気や日光は、吾々の身辺に充満散在して何の労苦もなくこれを摂取することが出来るのに、独りエネルギーの源泉となる活力素、即ち食物のみが特別の代価を払って買入れねば手に入らないことは、何と言っても不合理であり、片手落である。
私共は医術のことや薬学のことに付てはズブの素人であるが、今日驚くべき医学の進歩と、各種の治病に適応した種々の新薬が発明されて、最早や地上には全く病人のいない天国が出来上ってもよい筈であるのに事実は全くその反対で、どこの病院も超満員で、新病奇病が踵を接して次々と現れることは誠に皮肉な現象と言わざるを得ない。
遠藤博士の説によれば、人間は火を発明して以来いろいろな食物を加熱して料理をするようになったために、白米による弊害は元より肉類、野菜その他の食物中にある有効なビタミン類は加熱のために殆んど変質又は消滅して、人間は全く必要成分を抜き取った粕のみを食べ、加うるに人体の栄養上有害な白砂糖で味を付けるので、害は益々甚しく、体質はいよいよ衰えていろいろな病気がその虚に乗じて現われるのだとの事。
グリンジュースは私のような脳溢血に限らず、胃腸疾患は元より呼吸器、心臓神経衰弱、蓄膿、眼病その他あらゆる生理機能の障害に対して卓効があるもので従来の栄養学説の上にも、ビタミンやミネラルの補給はやかましく論ぜられていたのであるが、実際面としてこれが吾々の身辺に散在する手近な野草から無限に供給されるということに気の付かなかったことは、何としても迂濶千万な話である。
秦の始皇帝の不老不死の霊薬を求めるために唐テンジクを残る隈なく探し廻ったり、スターリンは自分の病気を癒すために何百人もの人間モルモットを犠牲にして霊薬の発見に狂奔したそうだが、眼の前に無限に散在するこの天与の霊薬には気が付かなかった。
古人も「大道長安に通ず平々坦々砥の如し」と言った。また孔子も「道近きに在り、人これを遠きに求む」と言った。人間の智慧は兎角「脚下を照覧する」ことを忘れ勝ちなものである。
私はこれに付いて思い出すことは広瀬淡窓という有名な教育者が咸宜園という塾を作って多くの学生を教育した話である。
この人の歌に「鋭きも鈍きも共に捨て難し、ノミとキリとに使いわけなば」と言うのがある。その意味は集って来る多くの学生の中には秀才もあれば鈍物もある。温順な子供も居れば粗暴な者も居る。勤勉な学生も居れば惰け坊主も居る。十人十色種々様々であるが、人にはそれぞれ何か他に勝れた特長をもっているもので、いずれも捨て難いものである。
そこで塾の名を皆な宜し(皆なよろし)という意味で咸宜園と名付けたので、この先生の感化力の偉大な点で今も尚その徳を慕われているが、世の中には路傍の草のように、万人に見棄てられているものに存外役に立つものが多いのではなかろうか。誰かの話に、「雑草とは利用価値の未だ知られざる植物のことで、真の雑草は地上には存在しない」と、半面の真理を穿ち得たものと言える。
「あれを見よ 深山の奥に花ぞ咲く 真心つくせ人知れずとも」
と、こんな詩的な眼で見ると、深山の奥に咲く一輪の菫の花にも路傍に朝露を宿しているタンポポにも微笑ましい愛着を覚える。
註 この文は笹部先生が主幹していられる「受験の数学」11月号の巻頭に掲げられたものです。お許しを得て転載させていただきました。記して感謝の意を表します。
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13. 足腰のいたみ
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笠岡市 T.H.
青汁を飲んで、今日も明朗に、健康は人生の源でありますから私も自分の体は自分で守ります。まず青汁を飲む事を守ります。それと言うのも、私が昨年の夏リユマチにて腰と足がいたみ、立つ事さえ不自由をして居りました時に、色々と薬を飲みましたが、其の中で青汁が一番よい様に思いましたので、それからと言うものは一日もかがさずに飲んで居ります。
今日此の頃では病気はどこへかすっとんで毎日元気よく働いて居ります。それに目方も前より一貫五百乃至二貫目も増したと思ってよろこんで居ります。私の様な場合でしたら何をおいても先ず青汁を飲む事を心から御すすめ致します。
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14. 腎臓病
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東京都 Y.H.
一昨年よりの腎臓病が、慢性になり、色々と手当をしている中に、昨年の11月号かの主婦と生活誌上で遠藤先生の青汁の記事を拝見しました。腎臓が全快した方々の御話に力を得て、昨年の11月より青汁を飲んで居ります。
初めは仲々のどを通りませんでしたが今では大分慣れて、飲みよくなりました。御蔭様で、腎臓もだんだんと快方に向って居ります。青汁飲用以来、余病も併発せず、胃腸も丈夫になり、この分ならば、全快も近い事と喜んで居ります。
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15. 赤ちゃんコンクールで地区1位
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玉島市 M.W.
2年2ヶ月の女児。生後2ヶ月位より青汁を飲用致し、今迄ずっと続け、今日では3勺位飲んで居ります。発育はよく、昨年の赤ちゃんコンクールでは地区で1位で、何時も体重は標準より500グラム−700グラム上まわって居ります。これも青汁飲用の賜と喜んで居ります。
本年の6月頃より、針の先でついた程の膿をもったものが顔へ二つ三つ現れ、薬店で薬を買ってつけると其の部分は治りますが、他へすぐ出来ます。顔より他へは出来ません。医者にも行きましたが、そこが治ってもすぐ他へ出来るので弱っています。
答
菓子や砂糖分がすぎているのではありませんか。青汁を少々飲んでも追つかぬことがあります。青汁の分量をふやし、一方菓子や糖分をひかえ目にしてみて下さい。
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16. 胃弱
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吉備町 T.S.
私は青汁を飲みだして5ヶ月になります。前は胃が弱くその上、いつも青い顔をしていたので、皆なに進められて始めましたが、飲みにくく朝これを飲んでしまうまでが大へんです。特にとどりが出来ている時など、幾度やめようかと思ったかわかりませんが、お正月に3、4日休みですと胃が悪く青汁のお蔭をつくづく知りました。
今度の悪性の風邪も、家族皆かかりましたが、一番弱かった私一人元気で、少し喉を痛めた程度ですみました。いつまでも続けさせていただこうと思っております。
ただ一度藁くずが入っておりましたのでその様な所に注意していただきたいと思います。この青汁が全国各地に普及し、病弱でお困りの方を一人でも助けてあげるよう願ってやみません。私も弱い方を見ますと、「お飲みなさい」とおすすめしております。
(御注意ありがとう存じます。精々気をつけ、よい品を出すよう心懸けます。)
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17. 子供の腎臓炎
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18.質問箱
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千葉県 Y.K.
問 「酵素」の併用
巷間青汁に「酵素」の併用をすすめられている所があるようですが、会ではいかがお考えでしょうか。
答
所謂「酵素」なるものの本体が何かはっきりしません。
宣伝文などみると現在学界で興味に中心になっている酵素のことがことごとしく書いてあり、何のことやらわからなくなってしまうのですが、恐らく消化力の強い酵素をもった酵母の類だろうと思います。
戦時中から戦後にかけて一時流行った酵素肥料を調べてみたら一種の酵母でした。多分あれと規を一にしたものでしょう。それはともかく、青汁はそれだけで充分効果を現わしますから、私どもは何も併用する必要は認めていませんし、用いてもいません。
(遠藤記)
岡山 K.
問 ケールという飲物
近ごろ岡山で「ケール」という名の飲物(青汁のような緑の色をした)が売り出されていますが、会とはどんな関係なのでしょうか
答
あの飲物は、私どもが青汁の材料として推奨しているアメリカ原産の野菜名をとっておりますが、青汁とは全く別のもので、私どもの会とも関係はありません。
もっともあれをつくっている会社との間には随分奇妙ないきさつがあるにはありました。これはいずれ「青汁のおいたち」に出てまいりましょう。何かで色をつけ、ビタミンやカルシウムが入っているといわれていますが、真偽の程は無論判りません。
またたとえそれらの成分があるとしても、そういう合成品であるなら何もああした飲物でなくとも綜合ビタミン剤の方がよっぽど気がきいていると思います。それでも飲み手があるすると、やっぱり世間は広いものだとつくづく感心します。それはともかく、ああいう飲物が出るということ、それ自体が、実は青汁の真価を証明しているというものでしょう。
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コラム紹介
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